シリーズ『澄川』④ 澄川西側の大開拓『茨木農場』の顛末


当記事は平成28年9月5日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、澄川駅~自衛隊駅の範囲、
現在の澄川の西側・北側を開拓したのは茨木與八郎氏であり、
木挽山の東側・南側を桜山付近まで開拓したのが阿部与之助氏だと紹介しました。

2つの道路を絡めて説明すると、『平岸澄川線』側が茨木與八郎氏のエリア
『澄川厚別滝連絡船』(≒『器械場道路』)側が阿部与之助氏のエリアだという理解で良いでしょう。
ただし、『器械場道路』の北側部分(天神山~澄川駅付近)は茨木氏のエリアです。

今回は現在の澄川の中心部を成す、『茨木農場』がどのように始まりそして終わったのかを紹介します。

シリーズ『澄川』①では茨木氏について下記のように説明しています。
>茨木与八郎という人は小樽市祝津で鰊漁や海運と生業としていたものの、
>海難事故で船を失って以降は札幌の各地で農場経営を行なっていた人です。

(2016.03.15『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

これは『郷土史すみかわ』の記述を元にしたもので、この中では明治10年に北海道に渡って来たことになっていますが、小樽市祝津にある『茨木家中出張番屋』の展示と記載内容に齟齬があります。

以下では平成22年に修復され公開を開始した『中出張番屋』の展示を基に紹介します。

茨木與八郎氏は天保12年(1841年)に山形県で生まれた方で、

万延元年(安政7年)、19才で北海道に渡り、当初は雇われて鱈漁や鮭漁に携わっていたそうです。
明治3年になり、茨木氏29才の時、小樽の祝津に漁場を借り、鱈釣り漁師として独立し、その後、明治10年に多額の資金を投じて鰊漁場を開き、青山家や白鳥家と並ぶ『(小樽)祝津鰊御三家』と数えられるほどの隆盛を誇りました。

その後明治中期には札幌豊平、手稲(旧称:軽川)、旭川の北に所在する比布など、複数個所で農場経営を行なったものの大正中期に逝去。
その後は二代目茨木與八郎が襲名され、漁場や農場経営、造船業や倉庫業などの多角的経営を行なって来た、とされています。

2つの資料を照らし合わせると北海道に来た時期の他にも、
郷土史すみかわでは海難事故で船を失って農場経営に専念したと書かれている一方で、中出張番屋の展示では昭和3年に昭和天皇に鰊粕を献納した事になっており、ニシン漁をやめたとか、船を失ったというような話には言及されていません。

では、新しく作成された中出張番屋の展示の方が正しいかと言えば、そうとも言えません。
中出張番屋は祝津町会と振興団体であるNPO法人たなげ会によって運営されていますが、茨木家の代表的な農場の『茨木農場』が『札幌豊平』となっており、展示としての正確性を欠きます。

当初の茨木農場は『札幌郡平岸村』であって、明治35年以降は合併により『札幌郡豊平町(村)大字平岸』という地名になりました。
『平岸』ならばともかく『札幌豊平』と表現するのは、理解不足であると言わざるを得ないでしょう。

より正確を期すのであれば『札幌郡平岸村(現在の澄川)』とするのが妥当ではないでしょうか。
(おそらく、豊平町時代の資料を見て『札幌豊平』としたのではないかと思います。)

また、おなじ中出張番屋の展示とリーフレットの間で、北海道へ渡った時期が、万延元年と安政7年という風に、表記がブレてしまっています。
1860年の中途で改元した為、同一の年なのですが、表記ブレは少し困惑しますね。

実際のところ、郷土史というものは年配者の伝聞限られた資料から構成されているもので、こういった齟齬はやむを得ない部分がありますから、『そんなもんだ』という心構えでアバウトに行きましょう。

さて、ここからは『郷土史すみかわ』の記述を元に、茨木農場について見てゆきます。

当初、澄川一帯は開拓使に『官林』(=国有林)と定められ、一般人による伐採が禁じられていましたが、
明治15年の『開拓使官有物払下げ事件』をきっかけに、徐々に払い下げが始まってゆきました。

澄川の地を一番最初に開拓したのは茨木與八郎氏という訳ではなく、福岡から来た『筑前衆』やのちの丸井今井創始者と血族関係にある『石田開墾』など、澄川の開拓を試みた人々がいたのですが、多くの方が冷害によって澄川を去ってゆきました。

元手もなく身一つで北海道に来た人に、土地の痩せた澄川の開拓はあまりに厳しかったのでしょう。
そこで登場するのが大資本家である茨木與八郎氏です。

茨木農場は茨木與八郎氏が明治28年に現在の自衛隊前駅付近の土地の所有者と
水利権付きで土地の賃貸契約を結んだのが最初で、明治29年から次々に土地を買い増し、農場を展開してゆきました。

『水利権』とは、河川や用水路などの水を利用したり引き込む為の権利です。
茨木農場は毎年、水利権利用料として『水年貢』を阿部与之助氏と豊平の西藤喜作氏に米を支払っていたそうです。
阿部与之助氏と言えば『紅桜大擁壁』の記事でも紹介している、『緑ヶ丘団地』をはじめ、澄川の山間部を切り開いた大地主ですから、精進川上流の水利権を有していたという訳です。

明治期の札幌の農業というのは、ホーレス=ケプロンなどの所謂『お雇い外国人』が移入させた、欧米(主にアメリカ)から持ち込まれた日本にとって新しい品種の野菜を、北海道に適した作物は何かあれこれと試行錯誤するというスタイルでした。
現在も北海道の代表的な作物であるジャガイモ・タマネギもそうして持ち込まれたうちの一つです。

また、札幌の郷土に少し詳しい人には有名な話ですが、当時の札幌はリンゴの名産地でもありました。
特に平岸村で生産されたものは『平岸リンゴ』としてブランディングされ、日本全国に出荷された他、最盛期には海外への輸出がされた事もありました。
リンゴが育てられたのは、平岸村の周辺は土地が枯れており、他の作物は育たないとされた為だったそうです。

リンゴは病気に弱く手間がかかるものの、他の作物よりも高値で流通したため、珍重されたようです。
リンゴについても北海道では在来種ではなく、欧米種が栽培されました。

ですから、この地区の『農場』というとリンゴ農園なのかな、という処なのですが、『郷土史すみかわ』によると、茨木與八郎氏は当初リンゴの栽培を禁止していたと言うのです。

これは、リンゴが苗木を植えてから果実が出来るまでの期間が長い為、『畑作の収入が減り、小作料を減額しなければならない心配があった』(同81ページ)と記述されていますが、まぁ、経営的に考えて、初期投資が大きく回転率が低い作物を嫌った、という事なのでしょう。
他にも樹木を植える事によって『永小作権』が発生するのを避けた、という側面もあるようです。

それでは茨木農場では何を作ったのかと言えば、意外にも『米』を作っていたのです。

今でこそ『ゆめぴりか』がコシヒカリを抜くほどの勢いを持っている北海道米ですが、札幌を含む北海道は寒冷で、かつ当時の技術力はまだまだ未発達で、稲作には適していませんでした。
開拓から昭和頃に至るまで、札幌の農家の人々は何とか米を作ろうと試行錯誤していましたが、冷害や病害が発生し、本州に比べると米の収量は大きく劣っていたと言われています。

最たる例として、現在も残る地名に白石区『米里』(と東米里)があります。
稲作が繁栄するように、という願いを込めて付けられた地名ではあるものの、実際には稲作は困難を極め、結局タマネギの産地になってしまった、という切ない顛末です。

年配の農家の方に聞くと、それでもお米が食べたくて水田をやっていた、という家も多いのですが、収量が伸びずに自家用米だけの生産になる事が多く、あまり商売にはならなかったようです。

さて、ここで大正5年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

茨木農場の周辺にはリンゴ畑(果樹園の地図記号)は少なく水田が広がっている事が分かります。
しかし、ニシン漁網元の大資本をもってしても稲作の収量の改善は叶わなかったようで、大正14年にはそれまでの方針を転換してリンゴの生産を奨励するようになりました。
平岸リンゴの普及などで、『リンゴは儲かる』という常識が確立したためでもあるようです。
(前述したように、現在の澄川は平岸村の一部でしたから、澄川のリンゴも『平岸リンゴ』です。)

時代が下っても水田が無くなる訳ではありませんが、天神山付近や現在の自衛隊前駅付近などに果樹園が徐々に増えてゆきます。

このように、水田からリンゴ畑への転換が進んでゆく中で、第二次世界大戦が勃発します。
前述したように、リンゴは人手がかかり、肥料や農薬も多く必要な作物です。
その為、十分な肥料と人手がない戦時中には、手間がかかるリンゴは壊滅的な状態となってしまいました。

昭和20年の敗戦
を契機に、真駒内種畜場には米軍が進駐し、『キャンプ・クロフォード』とされました。
(のちに昭和30~34年に『キャンプ・クロフォード』は撤退し、現在は陸上自衛隊真駒内駐屯地となっています。

そして、GHQによる戦後改革の目玉、農地改革が実行されます。
農地改革の実行に至るまで農地調整法など戦後政府とGHQの間とで紆余曲折はあったものの、GHQの強い要請により昭和21年『自作農創設特別措置法』が成立します。

これは下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
 ・不在地主のすべての小作地
 ・在村地主の約1町(北海道4町を超える小作地
 ・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

1町の面積は3000坪(9900㎡)≒1ヘクタールですから、
北海道の小作人は相当に広大な土地を手に入れる事になったのです。
また、小作人は土地の代金を割安な利子で分割払いする事が出来ましたから、
土地代金については、数年で返済してしまう家が多かったそうです。

そして、茨木農場の地主は祝津に住む不在地主の茨木家でしたから、澄川一帯は茨木家に任され茨木農場を取り仕切る鳥居家を始めとした小作人たちに分配されたのです。
(前述の2代目茨木與八郎氏がいつ頃まで存命であったのかは、調べられませんでしたが、
 『郷土史すみかわ』によると終戦後、農地改革の時点で名前が挙がっている為、
 3代目への襲名がされていなければ存命であったようです。
 …まぁ、郷土史の正確性は前述の通りですが。)

『自作農創設特別措置法』の成立は昭和21年ですが、実際に再分配が行なわれたのは昭和22~27年の間です。
私の知る限りでは、札幌市での再分配は昭和25年に行われたものが多いようです。

茨木與八郎氏が澄川に所有していた78.2ヘクタールの土地が国に安価で買い上げられ、昭和10年時点での小作人は21世帯、この法律では世帯ごとに農地が割り当てられましたから、単純計算で、1世帯あたり3.7ヘクタール≒1万1千坪の土地が配分されたことになります。
(法律で自作農の面積の上限は12町とされていますから、この配分率は過大とはされません)

農地改革後、昭和28年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

稲作も継続して行われているものの、果樹園の地図記号がかなり増えています。
当時の農家の方の談でも、あまり良い米は取れなかったという事ですが、それでもかなりの面積が水田になっている事を考えると、日本人の白米信仰はかなり凄まじいものがある、と言えるかもしれません。

さて、分配された農地ですが、それから10年程度経過した昭和30年代以降、元小作人が土地を切り売り・分譲をして宅地化されてゆきます。
戦時中に充分な手入れが出来ずに荒廃したリンゴ畑を復興するより、都市化の進む札幌においては宅地化してしまった方がよい、という判断だったのでしょう。

そう考えると、豊平区・南区が戦後急速に宅地化していった背景には、案外『リンゴの産地であったから』という理由があるのかもしれません。
(タマネギが主要な作物である東区や白石区の宅地化が進むのはもっと後の話です。)

当時の造成分譲地は、通常1区画100坪で区画されますから、道路に10坪分を供用したとして、小作人世帯あたりで1万1千坪の土地は、100区画の宅地に化けた訳です。
澄川に限らず、このような農地改革と都市化の形態は札幌市の全域で見られ、それが現在における札幌の地主や富裕層の富の根源であると言えるでしょう。

昭和40年代に入ると、昭和47年の札幌オリンピックに対する期待で宅地化は更に進んみます。
昭和44年に定山渓鉄道が廃止されたのに代わり、昭和46年には札幌市営地下鉄が開業します。

こうして見てゆくと、初代茨木與八郎氏が雇われの漁師から身を興し、ニシン漁で成功し、
広大な茨木農場を築いたにも関わらず、そのすべてが国家に収用されて小作人に配分され、
それから僅か10~20年のうちに切り売りされた対価は全て元小作人の物になった、というのは、
現代の資本主義的・自由主義的な感覚からするとかなり酷な処遇であったように感じますが、
とはいえ、農地改革がなければ戦後日本の工業化・都市化もなかったと考えると、軽々に批判する事も出来ません。

ちなみに、茨木農場を取り仕切っていた鳥居家(初代:鳥居久五郎氏)は、その後、澄川駅周辺の地主となります。
『郷土史すみかわ』の編集の中心になった4代目の鳥居久徳氏は澄川2条1丁目に保育園を開園し、
現在、社会福祉法人札幌弘徳苑『澄川ひろのぶ保育園』の理事長である5代目:鳥居敬徳氏の代に移っています。

…今回は澄川の茨木農場の始まりから終わりに至るまでの経緯を紹介しました。
開拓使による開拓の限界と『官有物払下げ事件』による規制緩和、ニシン漁網元の大資本による大規模な農場経営と戦後GHQの農地改革、そして札幌オリンピックと連動した宅地造成…
澄川は歴史の大転換期に応じて姿を変えていった地区である、と言う事が出来るでしょう。

不定期連載、シリーズ『澄川』はまだまだ続きます。
次回は阿部与之助氏の開拓の記事や定山渓鉄道の記事などでしょうか・・・

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

最後にオマケとして、大正5年と昭和28年の地形図を比較してみましょう。

 

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