シリーズ『澄川』③ 『器械場道路』と『澄川通』の不思議な関係


当記事は平成28年8月29日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、現在の澄川を形づくった道路として、澄川で第1番目の道『本願寺道路』ではなく、特に第2番目の道『器械場道路』そして第3番目の道『平岸澄川線』に着眼して説明してきました。

と、言うのも『本願寺道路』は明治1年~4年に開発された道路で、天神山北端から現在の国道453号線を経由し、国道230号線のルートを辿る、札幌と函館方面(≒当時の本州へのルート)を結ぶ重要な街道でしたが、その後、明治6年に中心部から千歳方向へ向かい、苫小牧・帯広を経由する、札幌本道…またの名を室蘭街道、現在の国道36号線が主要な道路となり、『本願寺道路』はあまり使われなくなっていったという経緯があります。

また、『本願寺道路』自体の所在も澄川の外縁をなぞる形で、平岸や真駒内との境界線となっているという側面がありますから、澄川そのものの歴史を辿るにあたっては、必ずしも適切ではない、と判断したのです。

澄川の歴史は明治期の木材供給拠点としての役割に端を発しますから、その木材を滝野のアシリベツ器械場から運搬する為の『器械場道路』は、澄川の変遷を紐解いてゆくにあたって最適な道路であると言えるでしょう。
(現在の自衛隊前駅…『木挽小屋』は、第3の道路『平岸澄川線』の経路にあり、こちらも明治~戦前の澄川の移り変わりを追ってゆくのに最適な道路です。)

当初、私は郷土史を読み込むにつれ、『器械場道路』『平岸澄川線』について理解を深めてゆきました。
のちのち郷土史に加え、国土地理院地形図などを収集するにつれ、私に大きな思い違いがあった事が判明しましたので、この場でお詫びしなければなりません。

私は過去2回の記事で『器械場道路』のルートについてこのように記述しています。
>概ね現在の『澄川通』と同じルートと推定されますが、澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校までのルート以降は、そこから更に『澄川厚別滝連絡線』の山の中の一本道へ繋がります。この、アシリベツ器械場から澄川まで陸運ルートが通称『器械場道路』です。
『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

『木挽山』の東側を抜け、現在の『澄川通』とほぼ同様のルートで、澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校の付近を経由したのち、現在の『滝野すずらん丘陵公園』にあった『アシリベツ器械場』に至る道路です。
『シリーズ『澄川』② 大正の澄川を形成する『100年道路』の全容』より)

えーと、ごめんなさい。現在の『澄川通』のルートを誤解していました。
私は当時手元にあった資料から、『器械場道路』の大まかなルートを澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校→…→滝野すずらん公園という風に理解し、そこから『器械場道路』≒『澄川通』という前提を以って上記のような記述をしました。

大まかにはそのルートで間違いはない
のですが、大正5年版の国土地理院地形図と現在の地図を詳細まで照らし合わせると、『器械場道路』は『澄川通』ではないどころか、『澄川通』というものの定義自体が曖昧であるという事が分かってきました。

詳細な解説を文章にすると兎に角ややこしいですから、まず地図を見てみましょう。
現在の『澄川通』は、南平岸駅の坂を昇った頂上の『羊ケ丘通』から分岐し、平岸高校の東側→コープさっぽろ澄川店の東側→澄川学校の“東”側→五輪通と公差する旧『五差路』→澄川南小学校の“西”側→紅桜大擁壁…というルートを通っている道路の通称です。

しかし、道路法上の分類で市道を分別してゆくと『澄川通』自体が、以下の4つの市道の断片からなる道路で、道路法の上では一体の道路ではないのです。
(ただし、都市計画法の上では『澄川通』という一体の道路だったりするのでややこしいのですが…)
  ①市道『美園西岡線』
  ②市道『澄川通線』
  ③市道『澄川厚別滝連絡線』
  ④市道『澄川緑ヶ丘1号線』 (記載は北から順。)

更に現在の『澄川通』のルートのうち、②『澄川通線』のルートは、平成になってから新たに出来たバイパス道路であり、それまでの『澄川通』は、澄川中学校の“西”を走る③『澄川厚別滝連絡線』だったのです。
ですから、地元に古くから住む方は、澄川中学校の西側の旧道を『澄川通』と呼んでおり、私もそれに倣って、『澄川通』のルートを、澄川中学校の西側と認識していたのです。

その証拠に、1981年当時のゼンリンの住宅地図を見てみると、『澄川通』が澄川中学校の“西”を走っている事が分かります。
(行政文書はどんどん更新されてゆくので過去の名前など分からなくなってしまうのです。
 そういった意味で、民間の文書や古い資料が非常に役に立ってゆきます。)

うーん、文章にするととんでもなくややこしいですから、もう一度最初の地図を見て下さい。
赤線が市道『平岸澄川線』青線が市道『澄川厚別滝連絡線』黄色が青と重複しない範囲の『澄川通』です。

地図の『南区』と書いてある左上は『五差路』といい、澄川5条・6条・9丁目・10丁目の交差点です。

そこまでは一致した『澄川通』『澄川厚別滝連絡線』『五差路』から分岐し、『澄川通』澄川南小学校の“西”を通って『紅桜大擁壁』に終着します。
一方の『澄川厚別滝連絡線』は、澄川小学校の“東”を通って、10kmほど先滝野すずらん公園・滝野霊園(旧:アシリベツ器械場)で終着します。

…ここまで読んで下さった方にはもうお分かりでしょう。
そう、『器械場道路』≒市道『澄川厚別滝連絡線』なのです。

もちろん140年の間に微小な経路変更はありますから完全なイコールではありませんが、前回も紹介した大正5年版国土地理院地形図と見比べてみると、ほぼ同一のルートを通っている事が分かります。

…と、言いますか、市道の名称が既に『澄川厚別滝連絡線』な訳で、これは『澄川アシリベツ滝連絡線』と読むのですから、そのものズバリな名称なのです。

『五差路』より北側での『器械場道路』との経路の一致についても理解していたのに、『五差路』から南側のルートと『澄川通』の相違について考えが至らなかった自分の浅慮が恥ずかしいですね。

で、もう一度現在の地図を見てみましょう。

青い細線は法律上、現在の『澄川厚別滝連絡線』ではありませんが、過去に『器械場道路』だったルートです。
(赤い細線も同様で、過去に『平岸澄川線』だったルートを示しています。)

戦後から平成にかけて真っ直ぐに作り直された『澄川通』とは異なり、区画された住宅街をぐねぐねと這うように通っている事がよく分かりますね。
平面上でも蛇行していますが、実際には坂道・高低差もかなりのものです。

前回も書いた通り、元々が『尾根道』『沢道』であるこれらの道路は、自然の地形の通りやすいルートを通っていますから、人工的な区画によるものではないのです。

そして、一度拓かれた道路は、その後その周辺が宅地化されても、何か特別な事情がない限りは残り続けてゆくのです。
(戦後の農地解放などで道路が国有地、道路以外が民有地という色合いが強くなると、以降は国有地と民有地の交換などは行われず、大規模な区画整理がない限り、そのまま保たれる為。)

現在、交通の手段としての役割は『澄川通』に取って代わられて、どちらの道路もメインストリートとは言い難い在り様ですが、かつて、100年前はこれらの道路が札幌への木材供給を支えていたのです。

そう考えると、住宅街の中を通る何の変哲のない道路にも、愛着を感じられます。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

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