シリーズ『澄川』⑨ 器械場道路でアシリベツ器械場に行ってみよう!


さてはて、散逸的ではありますが澄川の歴史に関することを色々と紹介して来ましたシリーズ澄川ですが、9回目を迎えました。
3年前からのシリーズのリブート記事が多くなっていましたが、今回は完全新規書き下ろしの記事となります。

澄川で第一の道路『本願寺道路』、第二の道路『器械場道路』、第三の道路『平岸澄川線』のうち、明治の澄川の木材供給拠点としての在り方を示す道路として、最も重要な道路は『器械場道路』である、と紹介しました。

現在の滝野に当たる『アシリベツ器械場』にはお雇い外国人ホーレス=ケプロン氏が設置した水力式器械製材所があり、そこで製材された木材を札幌市街の中心部へ運び出す為の道路が『器械場道路』であった訳です。
大正5年の地形図を見てみましょう。

次に、現在の地図にルートを落とし込んだものを見比べてみましょう。

現在の『平岸街道』の一部となっている『本願寺道路』を南平岸の南側で分岐したのち、地下鉄澄川駅の東側を経由、澄川小学校、澄川中学校、澄川南小学校を経由して滝野方向に抜けてゆく長い道です。

なお、青線の中が抜けている部分は市道『福住桑園通』の指定区域、太い青線となっている部分は市道『澄川厚別滝連絡線』の指定区域です。
『澄川厚別(アシリベツ)滝連絡線』は、ほぼ器械場道路のルートを辿っていると言っていいでしょう。

では、『器械場道路』は現在どのような姿になっているのでしょうか?
実際に『器械場』に行ってみよう、というのが本記事の趣旨です。

まず、本願寺道路との分岐部分、南平岸駅の南西側ですね。
市内でも有名なホビーショップである『オーム模型店』が写真左手にあたります。

左側が『器械場道路』、右側が『本願寺道路』で、間にある緑の木々は『天神山』のものです。

同じ地点から北方向を振り返った写真です。
左手側にはこのあたりの小学校としては最も古い『平岸小学校』があります。
平岸全域は勿論、昭和40年代までは澄川の奥地からここまで通学してきていたと言います。

そこからまっすぐ澄川駅の東側を経由し、澄川小学校を経由してゆくと、澄川5条5丁目付近で右手側に分岐をします。
ここで左手側の道路を通ると先ほど触れた『福住桑園通』のルートで、クラーク博士像のある羊ヶ丘展望台、そして札幌ドームのある福住へと到達します。

ここからが現在の市道の枠組みでは『澄川厚別滝連絡線』となります。

旧『機械場道路』の区間でも、ここからは片道1車線となります。

左手側には『澄川北緑地』が広がります。
かなり広い緑地ですが、遊具や設備はそんなにありません。


左手奥に見える緑色のフェンスが澄川中学校の敷地です。

左手側は『木挽山』の傾斜で、かなり急な坂道になっています。
看板にも書かれている通り、除雪車が登れない為、冬期間通行止めになっています。

さらに進んでゆきますと澄川5条・6条と9丁目・10丁目の交差点にぶつかります。
この交差点を地元の方は『五差路(ごさろ)』と呼びますが、実際の交差点は通常の十字路(四差路)になっています。
実はこの交差点はオリンピック頃に整理されるまで実際に5本の道路による交差点≒五差路だったのです。
現在は、その姿を偲び『五差路記念公園』が設置されています。

かなり大きな滑り台がある立派な公園ですが、周囲の通行量が多いのにも関わらずフェンスは設置されておらず、ボール遊びなどには適さない造りになっていますね。

ここでメインストリートは『澄川通』にバトンタッチして、『器械場道路』は五差路記念公園を東側に迂回したルートを通ってゆくことになります。

『器械場道路』は元々が尾根道ですから、くねくねとアップダウンしながら進んでいくことになります。

札幌オリンピックの際に真駒内競技場への道として整備された『五輪通り』と陸橋で立体交差します。
『五輪通り』は札幌オリンピックの際に整備された、真駒内競技場へ通じる道です。

橋を下り方向に進んだ時左手側(東側)から西岡方向を見た写真です。
逆の右手側(西側)、真駒内方向を見下ろした写真です。
そこから『器械場道路』は澄川5条と6条の間を10丁目~13丁目の住宅街を進んでゆきます。

住宅街の南端、都市計画道路『水源地通』との交点に到達しました。
ここから先は市街化調整区域の山林になります。

アシリベツ器械場の跡地にある滝野霊園の案内板も掲出されています。
ここから9km山林

下には市内各所のラブホテルの立て看板が打ち捨てられているのがなんとも・・・

市街化調整区域側、南東角には介護施設『ライフふくまつ』があります。

そこから少し南に進むと光塩女子短期大学西岡キャンパスが。
インターネットで検索をしても何をやっている校舎なのか分かりません。
1987年、昭和62年完成とのこと。

光塩学園周辺の路肩は道路との高低差が大きく、路肩軟弱の看板が立っています。

ここからしばらくはゴルフ場の裏道となっている山林をひたすら9km進むのみ。

中間には陸上自衛隊真駒内射撃場があります。
ちなみにこちらは豊平区西岡の市街化調整区域に所在しており、『器械場道路』は南区と豊平区の境界ともなっています。
古い道路ほど、境界線となるという部分もありますが他に目印がない、というのもあるかと。

スポーツ競技で射撃をやるような場合には許可を得て立ち入ることも出来るそうです。

あとは器械場までひたすら山林、山林、山林・・・


道路の舗装状況がかなり悪くなっている箇所も多くなっています。
この坂を下ると、滝野すずらん丘陵公園に到達します。

この写真の撮影は平成28年9月で、記事執筆現在から2年半前になりますが、この頃は器械場に対する理解が十分ではなく(今も十分ではありませんが)、この周辺の事が分からずに写真を撮っていました。

その為、器械場の跡地とされる場所にある記念碑『厚別水車器械跡』について、撮影が漏れてしまいました。
これも平成10年に建立されたもので、少ない資料からはおそらくアシリベツの滝の周辺であろう、という程度の推察しか出来ません。
明治期の地図がない場所ですからもしかしたら、別の場所に存在していたという事もあるかもしれません。

余談ですが、『器械場』で検索した際に出てくる『器械場入口』というバス停。



南区や澄川図書館の記述では『器械場の名前を平成に残す』ものとされています。
嘘ではないのですが、こちらは道道341号『真駒内御料札幌線』に所在するバス停ですから、『器械場道路』とは関係ありません。
現在、滝野へはこの道道341号線がメインのアクセス道路となっており、滝野霊園のメインの入口もこちら。

先ほど看板にも描かれていた滝野霊園のシンボルのモアイ像も道道341号線側にあります。

この道道341号線は戦後の昭和36年に制定された道で、それまでの地図を見ると道路形状がかなり怪しい部分があります。
昭和19年にこの周辺の地名が『滝野』に改められるまでは『器械場』という地名でしたから、元々にアシリベツ器械場に由来するとはいえ、バス停に関しては地名としての『器械場』の入口であると考えた方がよいでしょう。

・・・えーと、ちょっと分かりづらいですかね。
バス停『器械場入口』は、アシリベツ器械場の入口という意味ではなく、器械場が閉鎖された後の集落『器械場』の入口なのではないか、という事です。

まー、アシリベツ器械場は明治19年に閉鎖していますから、当たり前っちゃ当たり前なんですけどね。

さて、今回は2年半も寝かせていた写真を引っ張り出してきて器械場道路のルートを辿ってみました。
道路を辿る記事って、撮影の為に車を停めるのはなかなか憚られますし、冗長になりがちなのでどうかと思いましたが、また機会があればやってみたいと思います。

シリーズ『澄川』⑧ 澄川南部の大開発『緑ヶ丘団地』


当記事は平成29年2月16日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、前回のおさらいに昭和36年~昭和39年の航空写真を見てみましょう。

この写真は阿部造林山の最後の姿を写したものであると言えます。
東西に走る『真駒内養護学校線』の南側については、森林となっており、まだ開発が進んでいませんが、これが昭和39年にすべて伐採され、跡地は土地区画整理法に基づき造成され、分譲されていきます。

昭和45年『札幌市緑ヶ丘区画整理組合』が発足し、『緑ヶ丘団地』の計画が始まります。
これには北海道・札幌市ともに行政が深く関わっていたようですが、実際の造成事業は丸紅株式会社が受注しました。

組合の理事長は 阿部則宏といいますから、阿部与之助氏の親族であろうかと思います。
(ただ、札幌市の開拓初期には他にも阿部姓の有力者が数名いますし、阿部則宏氏の氏名で出てくる資料がないので、はっきりとしたことは言えません。)

『緑ヶ丘団地』昭和45年のうちに着工し、昭和48年に完成しました。
札幌市によると施工面積37.0ha、総事業費18億566万円という、大事業です。
『郷土史すみかわ』によれば施工面積は37.2ヘクタールとされていますが、坪に換算すれば11万2529坪という事になりますから、これは定山渓鉄道が澄川で分譲したすべての団地の約3.2倍の施工面積となります。
定鉄団地の15箇所分とんでもない規模の造成であったという事が出来ますね。

造成途中の様子です。次に現在の様子を同じ角度からGoogleアースで見てみましょう。

郷土史によると造成工事中は舞い上がった火山灰が周囲に降り注いで大変な事になったそうです。
重機騒音やら、下水の問題もあって周辺住民は反対運動を起こしたようです。

この造成で出来上がったのが『紅桜大擁壁』です。
他にも西岡側や器械場道路の西側にいくつか擁壁が築造されていますが、私の中では、紅桜大擁壁が一番面白いという風に感じています。(あくまで個人の主観です。)

『郷土史すみかわ』256ページの記載によると、『境界の石垣などは本道最初の西ドイツ特許の特殊カラースプリットンブロックを使用するなど、造成にも工夫が凝らされている』と書かれているので、大擁壁に利用されているのでは?と考えて調べてみましたが、スプリットンブロックとは石のような風合いを表現したブロックのようですから、鉄筋コンクリート打ちっぱなしの大擁壁に使われた工法ではないようです。

どうやら、先に述べた器械場道路の西側の擁壁が、カラースプリットンブロックであるようです。
(西岡側の擁壁はカラースプリットンブロックによるものと、コンクリート打ちっぱなしによるものが混在しています。)

造成によって阿部造林山の在り様は大きく様変わりしました。

昭和48年に完成した『緑ヶ丘団地』は、昭和47年に開催された札幌オリンピックによる、札幌の急激な人口増加の影響もあって、ベッドタウンとして発展を始めます。
ただ、以前も紹介したように、現在の13丁目以南の桜山の部分に関しては、当初、宅地開発の計画があったものの、給水等の事情によって宅地開発が頓挫し、市立澄川南小学校の校区が南側に著しく偏っているという現状を引き起こしていますから、これは高度経済成長後の札幌オリンピック開催をもってしても、人口増加は予想より控えめであった、という事なのでしょう。

また、昭和43年公布・昭和45年施行の『都市計画法』によって、市街化区域と市街化調整区域に枠組みが設定される事で、市街化調整区域である阿部造林山の南側エリアの開発が出来なくなった、という事情もあるでしょう。

札幌オリンピック前後の負債というのは現在にも繋がっていて、不動産屋である私を悩ませています。

まー、そんなこんなで完成した『緑ヶ丘団地』なのですが、実は『緑ヶ丘団地』という名称がどこからきているのか、分かっていません。

普通に考えれば、造成事業者である『札幌市緑ヶ丘区画整理組合』による命名だと思いますが、それより以前の昭和36年、定山渓鉄道が最後に設置した停留所に『緑ヶ丘停留所』があり、これは現在の『真駒内駅』の南端付近(かなり南側です)に位置するというのですから、昭和48年に完成した『緑ヶ丘団地』と同一視してよいものかどうか、時系列的にも立地的にもどう判断してよいものか、正直なところ皆目見当が付かないのです。

緑ヶ丘という地名は全国各地にありますから、
高台の住宅地に付ける昭和当時の流行りの名称が偶然一致しただけで、深い意味はないのかもしれません。

また、今となっては、札幌市内でも丸紅が分譲した清田区里塚の『緑ヶ丘団地』の方が有名かもしれません
『里塚緑ヶ丘』は地名としてもはっきり設定されていますし、
丸紅の『平岡公園ベニータウン ライブヒルズ』は、商社ならではの圧倒的な広告費とブランディングにより、
今や『きよたネーゼ』なる造語を生み出し、挙句は清田区が公式にきよたネーゼを嘱託するに至りました。
 平成27年1月15日 きよたネーゼ委嘱式
  http://www.city.sapporo.jp/kiyota/kocho/event/150115.html
 ※ 他にも中央区には緑丘小学校があります。

奇しくも、澄川の緑ヶ丘団地平岡の緑ヶ丘団地同じ丸紅が関与した分譲地です。
40年以上が経っているとはいえ、同じ自治体内で同じ会社が同名の分譲団地を造成するな!と思うのですが、
まぁ、澄川の緑ヶ丘団地に関しては正式な地名でもなく、いわゆる愛称であって、
しかも少しずつ忘れられつつある、というのですから、あまり強く言ってはいけないのかもしれません。

ともかく、そのようにして、阿部造林山は緑ヶ丘団地へと生まれ変わった訳です。
それに伴って、数々の擁壁が築造され、その中の一つとして『桜山大擁壁』がある訳ですが、
これも造成から45年を経過し、老朽化しつつあります。
札幌オリンピックの頃にこの地区に移り住んだ人々も高齢化し、徐々に住民も移り変わって来ました。

『形あるものはいつか壊れる』というのは慣用句でもありますが、一つの真理です。
紅桜大擁壁も含め、この一帯の擁壁の大半は札幌市が道路区域として管理していますが、
半世紀を迎え、また災害発生リスクも高まる昨今、どのように管理されてゆくのか、気になる処です。

ところで、紅桜大擁壁の低地(西)側『緑ヶ丘団地』には含まれていません。
澄川4条11丁目~12丁目の範囲は『桜ヶ山団地』として、別の分譲事業者によって分譲されたものですが、下水が設備されないとか道路の権利関係やらで分譲事業者と住民間で裁判となり、その恨み節がたっぷりと『郷土史澄川ものがたり』に記録されています。

分譲から裁判による解決までに20年以上を要したこのトラブルについては、分譲事業者の名称をウェブ検索しても現在は出てこないこともあり、当然に住民と分譲事業者の双方に言い分があったものと思いますから、あえてここで記載して情報をインターネットに分散させる事はせずにおきます。

ご興味のある方は『郷土史澄川ものがたり』123~127ページをご覧下さい。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』⑦ 宅地造成の巨大構造物『紅桜大擁壁』と『土砂災害警戒区域』


当記事は平成28年2月2日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

皆さんは『擁壁』や『土留め』と言った言葉をご存じでしょうか?
『擁壁』や『土留め』は通常の『塀』と異なり、土地同士に高低差がある場合に、高い位置にある土の重さを支える壁で、これが軟弱な構造であった場合には、高所にある土砂が崩れ落ちてしまいますから、その構造については建築基準法などで、一定の制限が加えられています。

私は不動産業に就くまで『擁壁』や『土留め』という言葉の意味をよく理解していませんでしたが、土地を取り扱う際に、その所有権や維持管理について十分に調査しなければ、大きなトラブルになりかねませんから、非常にデリケートな問題であると言えるでしょう。

札幌で高低差の多い地域といえば南区、中央区(藻岩山・円山方面)、西区、豊平区が挙げられます。
その中でも特に南区は崖地が多い事で知られています。

それは、南区が札幌市の6割に達する非常に広い面積を有する区である事と、
古くは明治期から『札幌軟石』を産出する石山・穴の沢地区から中心部まで本願寺道路(現在の石山通)に沿って『馬車鉄道(馬鉄)』が敷設され、大正~昭和にかけて定山渓温泉までの『定山渓鉄道(じょうてつ)』が敷かれた事もあり、札幌の郊外地の中でも特異な発展を遂げた古い街である、という歴史が根底にあるのです。

その結果、札幌市内に411箇所を指定された『土砂災害警戒区域』のうち、なんと過半数の221箇所が南区に集中しているという状態にもなっています。

そのように擁壁の多い札幌市南区の中でも、住宅地にあっては最大級とも言えるものが、澄川4条11丁目~澄川5条13丁目に所在する長さ400m、高さ10m以上もある巨大構築物です。

GoogleEarthで見てみると、かなり異様な光景ではないでしょうか。

まぁ、写真で見ても結構異様な光景なんですけどね。

私はこれを便宜上『紅桜大擁壁』と名付け、紹介してゆく事にしました。
命名由来ですが、まず、この『擁壁』には正式な名称が付いていないという前提があります。
この擁壁は『緑ヶ丘団地』造成と同時期に築造されたものですが、
現在は都市計画道路『水源地通』(≒市道『石山西岡線』)と市道『平岸澄川線』で形成される、道路区域として札幌市が管理している擁壁であるという以上の情報が、現在までの調査では判明していない・・・というか、恐らくそれ以上の情報は出てこないと思います。

そこで、分かり易い名称をと考えたのですが、この地区は『澄川』という地名のイメージから少し離れてしまいますから、近隣にある『紅桜公園』から名前を拝借した、という訳です。

どこにあってどのように出来たか
札幌市南区、南北線真駒内駅の裏(東側)には『桜山』という山があります。
行政上は『真駒内健康保安林』という名称ですが、地元の人間はみな『桜山』と呼んでいます。
※ 桜山の真駒内側には『桜山小学校』があります。

『桜山』を超えて更に東側は『澄川』4~6条となっており、昭和40年代後半に造成された『緑ヶ丘団地』です。

地名は『澄川』ですが、南北線澄川駅からは1.5~2駅相当の距離です。
南北線真駒内駅へも桜山を大きく迂回しなければなりませんから、最寄り駅は南北線自衛隊前駅という事になります、徒歩15分程度ですね。
地区としては『西岡』とも隣接しており、更に東へ少し行くと『西岡水源地』もあります。

小学校としては昭和47年に設置された澄川南小学校があり、この澄川南小学校を中心とした地区、とも言えるでしょう。
『桜山』を始め、この地区は周囲をぐるりと市街化調整区域に囲まれた住宅地です。

過去には、現在市街化調整区域となっている山林についても、宅地造成の計画があったそうですが、上水道給水の問題や、札幌オリンピック前後の人口動向から、計画は立ち消えになったようです。
澄川南小学校の学校区が大きく北側に偏っている事は、立ち消えになった宅地開発計画による影響だと言われています。

地下鉄南北線の開通は昭和46年、札幌オリンピックの開催は昭和47年ですから、『緑ヶ丘地区』や『澄川南小学校』への影響が事がよくわかります。
この時期の開発と発展のダイナミズムというのは本当に面白いですね。

さて、『紅桜大擁壁』は北海道によって『土砂災害警戒区域』に指定されています。
北海道が公開する指定図面を見てみましょう。

 土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域区域図(その1)I-0-577-2995
  http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/designated_PDF/I-0-577-2995_kuikizu.pdf

う~ん、擁壁中心の傾斜が緩い部分以外はすっぽりと指定されていますね。
ちなみに、傾斜が緩い部分はこのようになっています。

それでは、『土砂災害警戒区域』に指定された『紅桜大擁壁』は危険な擁壁なのでしょうか?
また、指定されてしまったこの一帯の不動産は無価値となってしまうのでしょうか?
具体的に制度を見てゆきながら解説しましょう。

『土砂災害警戒区域』とは、平成13年4月に施行された土砂災害防止法に定められた地域です。
(正式には『土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律』と言います。)

崖崩れ(急傾斜地の崩壊)、土石流、地すべりなどが発生する可能性がある地域が指定され、この指定を受けた地域について、自治体は住民に危険を周知し、避難体制を確保しなければなりません。

更に法律では、『土砂災害“特別”警戒区域』も定められており、周知や避難体制の確保に加え、区域内の土地建物の所有者に対しても、厳しい制限が加えられます。

◇建築物の構造規制
土砂災害の影響を受ける基礎や柱、外壁などを鉄筋コンクリートなどの耐久性の強い構造が必要とされます。
建物とは別に、土砂に耐える擁壁を設けるなどの方法もありますが、
どちらにせよ、それ以外の地域に建築するより工費は高くなってしまいます。

◇特定の開発行為に対する許可制
宅地造成を行なったり、子供や高齢者が集まる施設(幼稚園や病院、介護施設)を建設しようとする場合には、
自治体の指導に従った造成や建築を行なわなければならない事とされています。

◇建築物の移転 
危険な箇所に所在する建物について、自治体は移転の勧告をする事が出来ます。
勧告に従った場合には、その為の費用の一部について『社会資本整備総合交付金』が支給されます。
更に『住宅金融支援機構』からの融資(地すべり等関連住宅融資)が受けられますが、金利は民間の銀行から住宅ローンを受ける場合とさほど変わりません。

『特別』警戒区域の場合には総じて、対応の為にそれなりの費用が発生する訳ですね。

国交省や自治体は『土砂災害警戒区域』をイエローゾーン『土砂災害特別警戒区域』をレッドゾーンと通称し、資料でも主に黄色と赤で色分けしています。

さて、もう一度『紅桜大擁壁』の図面を見てみましょう。

黄色で『土砂災害警戒区域』はありますが、レッドゾーンの指定はありません。

つまり、住民に対して危険を周知し、避難体制を整える必要はあるものの、土地建物の所有者がアレコレしなくてはならないという制限は一切ないのです。

ただし、『土砂災害警戒区域』は、重要事項説明で特に説明しなければならない項目ですから、不動産を売買したり賃貸する場合には、相手方に対して土砂災害の危険が周知されます。
ですから、必然的に不動産の価格は指定を受けてない場合と比較すると、若干下落してしまうでしょう。

土砂災害の危険を周知する目的でイエローゾーンに指定されている訳ですが、どういった基準を持って『危険である』とされているかについても、見ておきましょう。
イエローゾーンに指定される基準は下記の通りです。

■急傾斜地の崩壊
 イ 傾斜度が30度以上高さが5m以上の区域
 ロ 急傾斜地の上端から水平距離が10m以内の区域
 ハ 急傾斜地の下端から急傾斜地高さの2倍(50mを超える場合は50m)以内の区域

■土石流
 土石流の発生のおそれのある渓流において、
 扇頂部から下流で勾配が2度以上の区域

■地滑り
 イ 地滑り区域(地滑りしている区域または地滑りするおそれのある区域)
 ロ 地滑り区域下端から地滑り地塊の長さに相当する距離
   (250mを超える場合は、250m)の範囲内の区域

『紅桜大擁壁』の場合、傾斜度は30度どころか90度、高さ10m超ですから当然指定されますね。
そして、その傾斜地の上側と下側の所定の範囲が区域として指定された訳です。

例えば、擁壁の構造や老朽化の度合いを検査して『危険』と指定されたり、
現地の地盤の状況をボーリング調査で調べて軟弱度を判定したり、
具体的に災害のシミュレーションを行なった上で個別的に指定されている訳ではなく高さと角度といった、土地の形状が指定の基準である、という事は覚えておきましょう。

土地の形状が公的に『危険』とされている訳ですから、安全と反論することは出来ませんが、どのような基準をもって指定されているかを理解し、リスクを分析すべきでしょう。

ちなみに、『紅桜大擁壁』はほぼ垂直の巨大な擁壁であって、かなり威圧感がありますが、それでもレッドゾーンには指定されていない訳です。

土地所有者に実際に制限が課せられるレッドゾーン、『土砂災害特別警戒区域』はどのような状況であれば指定されるのでしょうか?

この最寄りの指定区域に、紅桜公園に隣接する寺院『慧照寺』があります。
『条丁目』が施行されていない市街化調整区域、澄川458番10に所在する寺院です。

 土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域区域図(その1)I-0-576-2994
  http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/designated_PDF/I-0-576-2994_kuikizu.pdf
うーん、スゴイですね。
恐らくは岩石や土砂の採掘が原因と思われる、白い岩壁があらわになっています。
レッドゾーン、土砂災害特別警戒区域というのはこのレベルの危険度という訳です。

南区では札幌市内の411か所のうち、過半数の211箇所を占めていますから、実は意外と身近にあるのが、この『土砂災害警戒区域』です。

北海道では土砂災害警戒区域の情報を下記のサイトで紹介していますから、
不動産を所有されている方は一度目を通しておくとよいでしょう。
  北海道土砂災害警戒情報システム 土砂災害警戒区域等指定状況
   http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/others/displayDesignatedMap.do

イエローゾーンであり、土砂災害防止法上ではそこまで危険度はないとされている紅桜大擁壁ではありますが、築造からじきに50年を迎え、老朽化が進行していることは間違いありません。

各所にコンクリートの剥落やクラック、鉄骨のサビなどが見られます。
前述の通り、この擁壁は札幌市が市道の一部として管理していますから大事に至ることはないでしょうが、コンクリートの寿命を考えると、いずれ大修繕が必要になるでしょうね。

シリーズ『澄川』⑥ 澄川の東側を切り開いた阿部与之助氏の『阿部造林山』


当記事は平成29年2月15日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』では、現在の澄川は明治後期に2人の大地主によって拓かれた地区であり、西を茨木農場の茨木與八郎が、東を阿部造林の阿部与之助が所有していた、と紹介しました。

澄川は南へ行くほど『丁目』が増え、東へ行くほど『条』が増えます。
概ね、1~3条が茨木氏の、5条が阿部氏のエリアとなります。
澄川4条に関しては双方の中間のエリアと考えてよい区域ですが、だいたい、4条7丁目くらいまでが茨木氏、4条8丁目以降が阿部氏というところでしょうか。
東西に幅があるのが茨木氏、南北に幅があるのが阿部氏、とも言えます。

紅桜大擁壁は澄川4~5条・11~13丁目のエリアですから、
明治期には阿部与之助氏のエリアであった、という事になります。

明治29年豊平村の阿部与之助氏が澄川南東に広がる山間部の『官林』の貸下げを受け、
この一帯に落葉松=カラマツの植樹を開始しました。

阿部与之助氏は現在の国道36号線(室蘭街道)沿い・豊平区豊平で商店を営んだ実業家で、
豊平区においては小中学校の設立、神社の整備などに私財を投じた篤志家として有名な方です。

現在でも月寒公園には『阿部与之助功労碑』が祀られています。
『郷土史すみかわ』に添付されている阿部造林山の図面を見てみましょう。

この土地は『木挽山』から『紅桜公園』までも含む広大なもので、貸下げ以後、大正元年には苗木の植え付けを完了した、と言いますが、明治は45年まである訳ですから、全面に植樹するまで15年も掛かるほど広大な土地であった、という事です。

精進川上流の水利が良く傾斜がなだらかな部分では造林と並行して農業が営まれており、地主の阿部与之助氏に代わり、林業と農業の管理は小作人の吉田庄蔵が行ないました。

吉田庄蔵氏は富山県出身、明治28年、20歳の時(つまり明治8~9年生まれ)に渡道。
豊平村の阿部商店の従業員で珠算・計数に長けた人だったと言います。
現在でも澄川では吉田姓の地主さんが多くいますが、幾人かはこの吉田庄蔵氏の子孫であるとの事です。

現在から約100年前、大正5年の大日本帝国陸地測量部作成の地形図を見てみましょう。

…う~ん、すがすがしいまでに何もないですね。
位置関係を分かり易くするために注釈を加えていますが、この当時実際に存在しているのは『器械場道路』のみです。
一応、注釈には加えていませんが、『平岸澄川線』も存在しています。
平岸街道すら、ほとんどの部分存在していないのですから、驚きですね。

阿部造林山には、針葉樹の地図記号がちらほら見えるだけで、畑も水田も人家も見当たりません。(地図左手に水田があるのは茨木農場の部分です。)

阿部与之助氏は大正2年に亡くなっていますから、この地図はその直後の状況、という事になります。
以後、阿部与之助氏の子孫のことを一纏めにして『阿部家』と言います。

造林されたカラマツは昭和9年炭坑用の木材として半分以上が一括買い上げされ伐採された半分のうち3分の2(≒6分の2)には再度植樹がされますが、残りの3分の1(≒6分の1)は開墾され、ジャガイモなどが生産されました。
(アジア太平洋戦争の食糧不足により、時間のかかる植樹よりも畑とすることが望まれたのでしょう。)

昭和20年の終戦を迎え、澄川にも名物『農地改革』『財閥解体』の波が到来します。

茨木農場の記事の際にも紹介しましたが、おさらいをしましょう。
昭和21年に成立した『自作農創設特別措置法』による『農地改革』とは、下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
 ・不在地主のすべての小作地
 ・在村地主の約1町(北海道4町)を超える小作地
 ・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

阿部家を不在地主というべきか、在村地主というべきか、私は歴史や風俗史の専門家ではないのではっきりとは断定できませんが、同じ豊平町にいたのですから、当時の距離感も考えれば在村地主にあたるのではないかと思います。
※ 当時、澄川地区は豊平町大字平岸の一部分でした。

北海道の場合、在村地主では4町を超える小作地が農地改革の対象となりました。
そして、前述の通り阿部家は元々が商店主であって、農作業は吉田氏などの小作人が行なっていました。

更に、阿部与之助氏が存命中に所有していた土地は140町を超えていたというのですから、時代が阿部与之助氏の後の世代に移ったとはいえ、小作地の大半は買い上げられたと考えるのが自然でしょう。

ところで、『郷土史すみかわ』87ページにおいてもこのような記載があります。
『昭和22年占領軍指令による農地改革により、これら農場の田畑は地主から入植者に解放された。
(『これら農場の田畑』とは、文脈上、昭和9年以後開墾され、ジャガイモなどが植えられた畑を指します。)

しかし、私は阿部家が農地改革によってすべての土地を失った訳ではないと考えています。

札幌におけるすべての土地を失った茨木農場の茨木與八郎氏との違いはどこにあったのでしょうか?

それは、阿部造林山の大半は『山林』であって『農地』ではなかったから、なのです。

従来、『山林』に関しては、『農地』という捉え方をされてこなかった側面があります。
現在においても、林業に関する法律は『森林・林業基本法』であって『農地法』ではありません。
林業を行なうには大資本と長期間が必要であり、人的資源も多く要しますから、農地とは性質が異なるのです。
(いざ山林を小作人に分け与えても適正な運営をしてゆく事は出来ない、という理由も考えられます。)

その為、農地改革においても山林は対象とならなかったとする文献がいくつかあります。
前述の郷土史すみかわの記載も『農場の田畑は(中略)解放された』とされており、それを裏付けています。

さて、農地改革後、先んじて小作人達に分け与えられた澄川地区の西側、旧:茨木農場のエリアと、阿部造林山のうち、昭和9年以後農地化された6分の1…澄川4~5条・3~9丁目のエリアは、昭和35年以降、ハウスメーカーや造成業者によって数々の分譲団地に変貌してゆきます。

『シリーズ『澄川』⑤ 定山渓鉄道と『北茨木』そして『澄川』駅』で紹介した通り、澄川は元々、定山渓鉄道(じょうてつ)のエリアですから、宅地分譲にあたっては、定山渓鉄道が非常に力を注いでおり、計5箇所・3万4552坪もの造成を行なったとされています。

定鉄以外の各社もそれぞれのブランドで宅地造成分譲を行なってゆきますが、それも9丁目までの北側のエリアに留まります。
現在の10丁目~13丁目、そして条丁目のない番地エリアは阿部造林山が存在していたからです。

ここで、昭和36年~昭和39年の航空写真を見てみましょう。

現在の道路、施設の位置を入れ込んでいますが、当時あったのは『器械場道路』『平岸街道』のみです。
東西に走る『真駒内養護学校線』現在の9丁目と10丁目の境界ですから、10丁目以南については、まだ阿部造林山で林業が営まれていた様子が分かるでしょう。

そして、現在の姿に繋がる大きなターニングポイントは昭和39年に訪れます。

昭和39年阿部造林山はパルプ材として伐採され、売却されます。
跡地のうち現在の10丁目~13丁目に関しては『緑ヶ丘団地』として生まれ変わるのです。
(更に南側の番地エリアに関しては、再度落葉松が植樹され、市街化調整区域のまま現在に至っています。)

昭和39年の伐採ののち、その跡地が昭和45年以降、土地区画整理法に基づき、『緑ヶ丘団地』として開発・分譲されていく訳ですが、これについては、次回以降で紹介したいと思います。

それではまた次回。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

シリーズ『澄川』⑤ 定山渓鉄道と『北茨木』そして『澄川』駅


当記事は平成28年10月17日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、今日は現在の札幌市営地下鉄南北線『澄川駅』の歴史を見てゆきましょう。

一般に札幌の方に『澄川』と言えば、この『澄川駅』周辺を指しますが、『澄川』という地名は『自衛隊前駅』、『真駒内駅』付近までを含む更に広い範囲を指す地名です。
まー、範囲が広い地名というのは札幌では結構あって、澄川はまだ一般的な部類です。
関東であれ関西であれ、『字(あざ)≒町名』から非常に多くて位置関係が掴みづらいですが、札幌は町名の中に”条”が組み込まれているので法則さえ分かれば位置関係が掴み易いですね。

“札幌は”と書いていますが北海道の他の市町村になると、やはり”条”を使っておらず多数の町名が入り乱れていたり、”条”を使っていても人家がまばらで住居表示がなく番地表示だったりと、まぁ独特です。

とはいえ、どの地域でも地元の方には位置関係が把握出来る訳で、掴みやすい・掴みづらいと表現するよりは法則性がある、と表現すべきかもしれません。

澄川駅は、天神山の南側から現在の自衛隊駅付近まで続く茨木農場の一部から始まりました。

しかしまず、鉄道路線自体のお話から始めなければならないでしょう。
現在の札幌市営地下鉄南北線は南区真駒内駅を発し、中央区大通駅を経由し、北区麻生へ到達しますが、
このうち真駒内駅から南平岸駅(正確には平岸駅との中間付近)までのルートは、かつて存在した鉄道路線『定山渓鉄道線』のルートを札幌市が買い取って地下鉄路線にしたものです。

かつての定山渓鉄道はその名の通り定山渓温泉が到達点であり、石切山(現在の石山)、藤の沢(現在の藤野)、簾舞などの南区郊外を経由したことも有名な話ですが、一方で定山渓温泉とは反対側の終点については、郷土史に少し詳しい人間でないと分かりません。

定山渓鉄道の始発駅はというと、これは少し詳しい程度では明確な回答が出ないほど複雑なのですが、開業当初は現在のJR函館本線白石駅と同じ場所の、国鉄函館本線白石駅で国鉄(当時)からの乗り換えが可能でした。
蒸気機関車から電気に変わると国鉄への乗り入れなども始まり、便宜上、国鉄千歳線東札幌駅(現在は札幌コンベンションセンターが所在)が始発駅という事になりますが、時代を追うごとに国鉄函館本線苗穂駅国鉄札幌駅などからの乗り入れも可能になり、訳が分からないので、多くの郷土史家は定山渓鉄道だけの駅であり、定山渓鉄道の本社所在地でもあった、定鉄『豊平駅』が始発であった、と便宜上表現する事があります。

『豊平駅』は現在の東豊線『豊平公園駅』とは別の場所にあり、具体的には国道36号線沿い、現在分譲マンション『じょうてつドエルアイム豊平』が所在している場所にありました。

ちなみに『豊平駅』付近には市電(路面電車)豊平線の『豊平駅前停留場』がありました。
市電豊平線とはすすきのから国道36号線に沿って路面を走っていた路線で、これも大変便利なルートです。
…っと、話が逸れてしまいました。

ここで定山渓鉄道の始発部分について詳しく説明をしたのは、定山渓鉄道というのは、何も温泉地に行くためだけの鉄道という訳ではなく、南区の住人が札幌の中心部に出る為に利用する事が出来る鉄道であった、という事です。

さて、それでは澄川駅の成り立ちに話を移してゆきましょう。
まずは鉄道敷設直前の姿として、大正5年当時の国土地理院地形図を見てみましょう。

定山渓鉄道は大正6年に開通し、白石駅と定山渓駅とを結びましたが、開業~大正時代は澄川地区の人口は少なく、茨木農場や阿部造林を通り抜けてゆくのみでした。
…と、言いますか、開業当時は豊平駅から石切山駅の間に駅は1つもありませんでした。

開業当初、定山渓鉄道は蒸気機関車でしたが、高低差やカーブの多いコースの為、蒸気機関車ではパワー不足により登坂が困難となる場合が多く、運行本数も少ない上にトラブルも多い、非常に難儀していたようです。

その為、昭和4年には電化され、定山渓鉄道は”電車”となりました。
これに伴って、前述した始発駅の問題も出てくる訳ですが、それと同時期の昭和5年茨木與八郎周辺の地主の連名で、澄川…当時の精進川地区に駅の設置を求める陳情書が定山渓鉄道に対して提出されます。

条件としては定山渓鉄道側に駅の用地を無償で提供するというもので、昭和8年、陳情書に基づき茨木農場の北側の一部が駅の用地とされ、『北茨木停留所』が設置されたのです。
これこそが、現在の澄川駅とほぼ同一位置に所在する、現在の澄川駅のルーツなのです。

現在マックスバリュがある場所はかつてフードセンターでしたが、更にその前は別の建物で定山渓鉄道駅員の社宅があったようです。

駅名は俗説として既に“関に”『茨木駅』があったため、茨木停留所とされたとされています。
これは『郷土史すみかわ』に記載された内容で、色々な書籍にも引用されていますが、インターネットで検索してみると関東に『茨木駅』なる駅があった記録は見当たりません。
一方で、大阪府茨木市にはJR西日本『茨木駅』があり、こちらは明治9年開業ですから、『郷土史すみかわ』の記載は恐らく誤っているのではないか、と考えています。

前回も書きましたが、まー、郷土史ってのはそんなモンなのです。
『郷土史すみかわ』も昭和56年の著書ですし、地元の有志が中心となって作成されたものですから、過剰に神聖化してはいけません。

同様の経緯で頭に『北』の文字が付いた駅として、当時の広島町・現在の北広島市にある『北広島駅』があります。
(広島県広島市に広島駅がある為、駅名が同一となるのを避けて『北広島駅』とした。)
また、本筋は以上のような経緯でしょうが、茨木農場の北側、という意味もあるのではなかろうか、とも考えています。

停留所開設の翌年、昭和9年には市立札幌病院付属静療院が開院します。
これは誤解を恐れずに言ってしまえば精神科の病棟で、『窓に鉄格子がある病院』です。
郷土史においては悪印象を持つ人もいたようですが、一般の外来患者も診察してくれた、という話も残っています。

時代は前後しますが昭和25年当時の国土地理院地形図を見てみましょう。

…戦後になっても静療院以外の建物は殆どなく、北茨木の周辺は水田とリンゴ畑だけです。

この地区が住宅化されるのは戦後の農地解放があってからの事ですから、駅の利用の殆どは医師などの病院関係者や外来患者、見舞客によってされていたそうです。
また、茨木農場の小作人家族たちが利用する事も多かったようですが、
当時の地元の住民達によっても事情はそれぞれで、
お金がもったいないのでほとんど電車には乗らなかった、という人もいれば、
中心部へは馬車で直行していたのであまり利用しなかった、という人もいれば、
豊平駅を経由して中心部へ行く事が出来たので大変便利だった、という人もいます。

この辺りの主観の入りっぷりを楽しむのも、郷土史を読む醍醐味ですね。

住人達の家庭の事情は置いておいて、定山渓鉄道が廃線するまで、豊平から北茨木の間に停留所はありませんでしたから、これは当時としてはかなり便利な立地である、と言えるでしょう。

従来、澄川地区は平岸村(平岸町)の一部であって、また、平岸開拓使当初に士族達に分け与えられた自作農地であったのに対し、澄川明治後期に茨木氏らが土地の払下げを受けて小作人に開拓させた小作農地です。
小作人となる人々は戊辰戦争で敗れた士族よりも階級が下の農民の次男三男だったようです。
『郷土史すみかわ』では『平岸の人たちには”精進川”や”澄川”ではなく“山の上”と呼ばれていた』という、澄川と平岸の間でのヒエラルキーを感じさせるような逸話も記録されています。

平岸と澄川の利便性が逆転し、対等の地位に立ったのはこの頃であると言ってもいいかもしれません。
(定山渓鉄道から地下鉄になってから平岸駅と霊園前駅が設置されますが、先に設置されていた澄川駅はバスターミナルと西岡方面へのバス網があるため、利便性で勝り、澄川駅の乗降客数は平岸駅や南平岸駅を上回る結果となっています。)

昭和19年周辺の地名は精進川から『澄川』へと変わりますが、駅名はそのまま『北茨木』でした。
これは公式には『茨木與八郎氏の功績を称える為』とされていますが、農地解放は翌々年の昭和21年の事で、昭和19年は第二次世界大戦末期のことですから、本当の処、地主を無視して駅名を変える訳には行かなかったであるとか、駅名を変えている余裕はなかったであるという理由の方が信憑性があるのではないかと感じます。

また、この地名変更に伴っては、当時の豊平町字平岸の側から『平岸五区』とするよう求められたが、地元の強い要望によって『澄川』という独自の地名となったという経緯があり、この辺にも澄川民のコンプレックスや澄川と平岸のヒエラルキーを感じさせられます。

昭和24年8月に停留所から『北茨木駅』へと昇格し、翌昭和25年には昭和21年『自作農創設特別措置法』に基づく小作人への土地分配が実施され、澄川地区は一気に住宅化への舵を切ってゆくことになります。

これにより澄川では数々の住宅団地が造成されてゆきますが、それはまた別の機会で述べるとして、『北茨木駅』は昭和32年『澄川駅』へと改称されます。
やっぱり茨木與八郎氏とのしがらみで駅名を変えられなかったんだなー、などと思いつつ、そうこうしている間に札幌にもモータリゼーションの波が押し寄せます。

地上を走っていた定山渓鉄道は踏切を設置していましたから、周辺を走る自動車の交通に悪影響を与えており、渋滞踏切での交通事故も多発していました。

また、定山渓鉄道が鉄道を補完する目的で戦前から参入していたバス事業についても、戦時中燃料不足で休止していたものが再開され、需要が拡大してゆきます。
バスへの乗車率が高まるとともに鉄道の乗車率は悪化し、鉄道部門は慢性的な赤字経営となってゆきます。

その上、昭和40年9月には相次ぐ台風で線路を始めとする鉄道設備に甚大な被害があり、全線の復旧までに1ヶ月近くの期間を要しており、その間に更に客離れが進んだようです。

挙句、昭和42年には北海道警察本部から決定的な最後通告が突き付けられます。
これが『定山渓鉄道に関する交通問題の根本解決について』という文書です。
定山渓鉄道、札幌市長、北海道知事、北海道開発局長(=国)に対し、四者で協力し線路を高架化する事で渋滞を解消するか、さもなくば廃線するように求める文書です。
この文書は昭和47年に開催を控えた札幌オリンピックをも見据えたものだったようですが、この文章は当時の新聞にも取り上げられ、『定鉄は早く廃止を』などという見出しまで付けられています。

定山渓鉄道としても、赤字事業であったという事もあり、また、札幌オリンピックに合わせた札幌市営地下鉄との兼ね合いもあり、昭和44年定山渓鉄道は廃業され、線路用地は札幌市に譲渡されました。

そうして南区開発の礎となった定山渓鉄道は消え、時代は札幌市営地下鉄の時代に移ってゆきます。

長くなってしまいましたから、札幌市営地下鉄『澄川駅』になってからの記事は、またいつか、日を改めて気が向いた時に書かせて下さい。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』④ 澄川西側の大開拓『茨木農場』の顛末


当記事は平成28年9月5日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、澄川駅~自衛隊駅の範囲、
現在の澄川の西側・北側を開拓したのは茨木與八郎氏であり、
木挽山の東側・南側を桜山付近まで開拓したのが阿部与之助氏だと紹介しました。

2つの道路を絡めて説明すると、『平岸澄川線』側が茨木與八郎氏のエリア
『澄川厚別滝連絡船』(≒『器械場道路』)側が阿部与之助氏のエリアだという理解で良いでしょう。
ただし、『器械場道路』の北側部分(天神山~澄川駅付近)は茨木氏のエリアです。

今回は現在の澄川の中心部を成す、『茨木農場』がどのように始まりそして終わったのかを紹介します。

シリーズ『澄川』①では茨木氏について下記のように説明しています。
>茨木与八郎という人は小樽市祝津で鰊漁や海運と生業としていたものの、
>海難事故で船を失って以降は札幌の各地で農場経営を行なっていた人です。

(2016.03.15『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

これは『郷土史すみかわ』の記述を元にしたもので、この中では明治10年に北海道に渡って来たことになっていますが、小樽市祝津にある『茨木家中出張番屋』の展示と記載内容に齟齬があります。

以下では平成22年に修復され公開を開始した『中出張番屋』の展示を基に紹介します。

茨木與八郎氏は天保12年(1841年)に山形県で生まれた方で、

万延元年(安政7年)、19才で北海道に渡り、当初は雇われて鱈漁や鮭漁に携わっていたそうです。
明治3年になり、茨木氏29才の時、小樽の祝津に漁場を借り、鱈釣り漁師として独立し、その後、明治10年に多額の資金を投じて鰊漁場を開き、青山家や白鳥家と並ぶ『(小樽)祝津鰊御三家』と数えられるほどの隆盛を誇りました。

その後明治中期には札幌豊平、手稲(旧称:軽川)、旭川の北に所在する比布など、複数個所で農場経営を行なったものの大正中期に逝去。
その後は二代目茨木與八郎が襲名され、漁場や農場経営、造船業や倉庫業などの多角的経営を行なって来た、とされています。

2つの資料を照らし合わせると北海道に来た時期の他にも、
郷土史すみかわでは海難事故で船を失って農場経営に専念したと書かれている一方で、中出張番屋の展示では昭和3年に昭和天皇に鰊粕を献納した事になっており、ニシン漁をやめたとか、船を失ったというような話には言及されていません。

では、新しく作成された中出張番屋の展示の方が正しいかと言えば、そうとも言えません。
中出張番屋は祝津町会と振興団体であるNPO法人たなげ会によって運営されていますが、茨木家の代表的な農場の『茨木農場』が『札幌豊平』となっており、展示としての正確性を欠きます。

当初の茨木農場は『札幌郡平岸村』であって、明治35年以降は合併により『札幌郡豊平町(村)大字平岸』という地名になりました。
『平岸』ならばともかく『札幌豊平』と表現するのは、理解不足であると言わざるを得ないでしょう。

より正確を期すのであれば『札幌郡平岸村(現在の澄川)』とするのが妥当ではないでしょうか。
(おそらく、豊平町時代の資料を見て『札幌豊平』としたのではないかと思います。)

また、おなじ中出張番屋の展示とリーフレットの間で、北海道へ渡った時期が、万延元年と安政7年という風に、表記がブレてしまっています。
1860年の中途で改元した為、同一の年なのですが、表記ブレは少し困惑しますね。

実際のところ、郷土史というものは年配者の伝聞限られた資料から構成されているもので、こういった齟齬はやむを得ない部分がありますから、『そんなもんだ』という心構えでアバウトに行きましょう。

さて、ここからは『郷土史すみかわ』の記述を元に、茨木農場について見てゆきます。

当初、澄川一帯は開拓使に『官林』(=国有林)と定められ、一般人による伐採が禁じられていましたが、
明治15年の『開拓使官有物払下げ事件』をきっかけに、徐々に払い下げが始まってゆきました。

澄川の地を一番最初に開拓したのは茨木與八郎氏という訳ではなく、福岡から来た『筑前衆』やのちの丸井今井創始者と血族関係にある『石田開墾』など、澄川の開拓を試みた人々がいたのですが、多くの方が冷害によって澄川を去ってゆきました。

元手もなく身一つで北海道に来た人に、土地の痩せた澄川の開拓はあまりに厳しかったのでしょう。
そこで登場するのが大資本家である茨木與八郎氏です。

茨木農場は茨木與八郎氏が明治28年に現在の自衛隊前駅付近の土地の所有者と
水利権付きで土地の賃貸契約を結んだのが最初で、明治29年から次々に土地を買い増し、農場を展開してゆきました。

『水利権』とは、河川や用水路などの水を利用したり引き込む為の権利です。
茨木農場は毎年、水利権利用料として『水年貢』を阿部与之助氏と豊平の西藤喜作氏に米を支払っていたそうです。
阿部与之助氏と言えば『紅桜大擁壁』の記事でも紹介している、『緑ヶ丘団地』をはじめ、澄川の山間部を切り開いた大地主ですから、精進川上流の水利権を有していたという訳です。

明治期の札幌の農業というのは、ホーレス=ケプロンなどの所謂『お雇い外国人』が移入させた、欧米(主にアメリカ)から持ち込まれた日本にとって新しい品種の野菜を、北海道に適した作物は何かあれこれと試行錯誤するというスタイルでした。
現在も北海道の代表的な作物であるジャガイモ・タマネギもそうして持ち込まれたうちの一つです。

また、札幌の郷土に少し詳しい人には有名な話ですが、当時の札幌はリンゴの名産地でもありました。
特に平岸村で生産されたものは『平岸リンゴ』としてブランディングされ、日本全国に出荷された他、最盛期には海外への輸出がされた事もありました。
リンゴが育てられたのは、平岸村の周辺は土地が枯れており、他の作物は育たないとされた為だったそうです。

リンゴは病気に弱く手間がかかるものの、他の作物よりも高値で流通したため、珍重されたようです。
リンゴについても北海道では在来種ではなく、欧米種が栽培されました。

ですから、この地区の『農場』というとリンゴ農園なのかな、という処なのですが、『郷土史すみかわ』によると、茨木與八郎氏は当初リンゴの栽培を禁止していたと言うのです。

これは、リンゴが苗木を植えてから果実が出来るまでの期間が長い為、『畑作の収入が減り、小作料を減額しなければならない心配があった』(同81ページ)と記述されていますが、まぁ、経営的に考えて、初期投資が大きく回転率が低い作物を嫌った、という事なのでしょう。
他にも樹木を植える事によって『永小作権』が発生するのを避けた、という側面もあるようです。

それでは茨木農場では何を作ったのかと言えば、意外にも『米』を作っていたのです。

今でこそ『ゆめぴりか』がコシヒカリを抜くほどの勢いを持っている北海道米ですが、札幌を含む北海道は寒冷で、かつ当時の技術力はまだまだ未発達で、稲作には適していませんでした。
開拓から昭和頃に至るまで、札幌の農家の人々は何とか米を作ろうと試行錯誤していましたが、冷害や病害が発生し、本州に比べると米の収量は大きく劣っていたと言われています。

最たる例として、現在も残る地名に白石区『米里』(と東米里)があります。
稲作が繁栄するように、という願いを込めて付けられた地名ではあるものの、実際には稲作は困難を極め、結局タマネギの産地になってしまった、という切ない顛末です。

年配の農家の方に聞くと、それでもお米が食べたくて水田をやっていた、という家も多いのですが、収量が伸びずに自家用米だけの生産になる事が多く、あまり商売にはならなかったようです。

さて、ここで大正5年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

茨木農場の周辺にはリンゴ畑(果樹園の地図記号)は少なく水田が広がっている事が分かります。
しかし、ニシン漁網元の大資本をもってしても稲作の収量の改善は叶わなかったようで、大正14年にはそれまでの方針を転換してリンゴの生産を奨励するようになりました。
平岸リンゴの普及などで、『リンゴは儲かる』という常識が確立したためでもあるようです。
(前述したように、現在の澄川は平岸村の一部でしたから、澄川のリンゴも『平岸リンゴ』です。)

時代が下っても水田が無くなる訳ではありませんが、天神山付近や現在の自衛隊前駅付近などに果樹園が徐々に増えてゆきます。

このように、水田からリンゴ畑への転換が進んでゆく中で、第二次世界大戦が勃発します。
前述したように、リンゴは人手がかかり、肥料や農薬も多く必要な作物です。
その為、十分な肥料と人手がない戦時中には、手間がかかるリンゴは壊滅的な状態となってしまいました。

昭和20年の敗戦
を契機に、真駒内種畜場には米軍が進駐し、『キャンプ・クロフォード』とされました。
(のちに昭和30~34年に『キャンプ・クロフォード』は撤退し、現在は陸上自衛隊真駒内駐屯地となっています。

そして、GHQによる戦後改革の目玉、農地改革が実行されます。
農地改革の実行に至るまで農地調整法など戦後政府とGHQの間とで紆余曲折はあったものの、GHQの強い要請により昭和21年『自作農創設特別措置法』が成立します。

これは下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
 ・不在地主のすべての小作地
 ・在村地主の約1町(北海道4町を超える小作地
 ・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

1町の面積は3000坪(9900㎡)≒1ヘクタールですから、
北海道の小作人は相当に広大な土地を手に入れる事になったのです。
また、小作人は土地の代金を割安な利子で分割払いする事が出来ましたから、
土地代金については、数年で返済してしまう家が多かったそうです。

そして、茨木農場の地主は祝津に住む不在地主の茨木家でしたから、澄川一帯は茨木家に任され茨木農場を取り仕切る鳥居家を始めとした小作人たちに分配されたのです。
(前述の2代目茨木與八郎氏がいつ頃まで存命であったのかは、調べられませんでしたが、
 『郷土史すみかわ』によると終戦後、農地改革の時点で名前が挙がっている為、
 3代目への襲名がされていなければ存命であったようです。
 …まぁ、郷土史の正確性は前述の通りですが。)

『自作農創設特別措置法』の成立は昭和21年ですが、実際に再分配が行なわれたのは昭和22~27年の間です。
私の知る限りでは、札幌市での再分配は昭和25年に行われたものが多いようです。

茨木與八郎氏が澄川に所有していた78.2ヘクタールの土地が国に安価で買い上げられ、昭和10年時点での小作人は21世帯、この法律では世帯ごとに農地が割り当てられましたから、単純計算で、1世帯あたり3.7ヘクタール≒1万1千坪の土地が配分されたことになります。
(法律で自作農の面積の上限は12町とされていますから、この配分率は過大とはされません)

農地改革後、昭和28年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

稲作も継続して行われているものの、果樹園の地図記号がかなり増えています。
当時の農家の方の談でも、あまり良い米は取れなかったという事ですが、それでもかなりの面積が水田になっている事を考えると、日本人の白米信仰はかなり凄まじいものがある、と言えるかもしれません。

さて、分配された農地ですが、それから10年程度経過した昭和30年代以降、元小作人が土地を切り売り・分譲をして宅地化されてゆきます。
戦時中に充分な手入れが出来ずに荒廃したリンゴ畑を復興するより、都市化の進む札幌においては宅地化してしまった方がよい、という判断だったのでしょう。

そう考えると、豊平区・南区が戦後急速に宅地化していった背景には、案外『リンゴの産地であったから』という理由があるのかもしれません。
(タマネギが主要な作物である東区や白石区の宅地化が進むのはもっと後の話です。)

当時の造成分譲地は、通常1区画100坪で区画されますから、道路に10坪分を供用したとして、小作人世帯あたりで1万1千坪の土地は、100区画の宅地に化けた訳です。
澄川に限らず、このような農地改革と都市化の形態は札幌市の全域で見られ、それが現在における札幌の地主や富裕層の富の根源であると言えるでしょう。

昭和40年代に入ると、昭和47年の札幌オリンピックに対する期待で宅地化は更に進んみます。
昭和44年に定山渓鉄道が廃止されたのに代わり、昭和46年には札幌市営地下鉄が開業します。

こうして見てゆくと、初代茨木與八郎氏が雇われの漁師から身を興し、ニシン漁で成功し、
広大な茨木農場を築いたにも関わらず、そのすべてが国家に収用されて小作人に配分され、
それから僅か10~20年のうちに切り売りされた対価は全て元小作人の物になった、というのは、
現代の資本主義的・自由主義的な感覚からするとかなり酷な処遇であったように感じますが、
とはいえ、農地改革がなければ戦後日本の工業化・都市化もなかったと考えると、軽々に批判する事も出来ません。

ちなみに、茨木農場を取り仕切っていた鳥居家(初代:鳥居久五郎氏)は、その後、澄川駅周辺の地主となります。
『郷土史すみかわ』の編集の中心になった4代目の鳥居久徳氏は澄川2条1丁目に保育園を開園し、
現在、社会福祉法人札幌弘徳苑『澄川ひろのぶ保育園』の理事長である5代目:鳥居敬徳氏の代に移っています。

…今回は澄川の茨木農場の始まりから終わりに至るまでの経緯を紹介しました。
開拓使による開拓の限界と『官有物払下げ事件』による規制緩和、ニシン漁網元の大資本による大規模な農場経営と戦後GHQの農地改革、そして札幌オリンピックと連動した宅地造成…
澄川は歴史の大転換期に応じて姿を変えていった地区である、と言う事が出来るでしょう。

不定期連載、シリーズ『澄川』はまだまだ続きます。
次回は阿部与之助氏の開拓の記事や定山渓鉄道の記事などでしょうか・・・

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

最後にオマケとして、大正5年と昭和28年の地形図を比較してみましょう。

 

シリーズ『澄川』③ 『器械場道路』と『澄川通』の不思議な関係


当記事は平成28年8月29日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、現在の澄川を形づくった道路として、澄川で第1番目の道『本願寺道路』ではなく、特に第2番目の道『器械場道路』そして第3番目の道『平岸澄川線』に着眼して説明してきました。

と、言うのも『本願寺道路』は明治1年~4年に開発された道路で、天神山北端から現在の国道453号線を経由し、国道230号線のルートを辿る、札幌と函館方面(≒当時の本州へのルート)を結ぶ重要な街道でしたが、その後、明治6年に中心部から千歳方向へ向かい、苫小牧・帯広を経由する、札幌本道…またの名を室蘭街道、現在の国道36号線が主要な道路となり、『本願寺道路』はあまり使われなくなっていったという経緯があります。

また、『本願寺道路』自体の所在も澄川の外縁をなぞる形で、平岸や真駒内との境界線となっているという側面がありますから、澄川そのものの歴史を辿るにあたっては、必ずしも適切ではない、と判断したのです。

澄川の歴史は明治期の木材供給拠点としての役割に端を発しますから、その木材を滝野のアシリベツ器械場から運搬する為の『器械場道路』は、澄川の変遷を紐解いてゆくにあたって最適な道路であると言えるでしょう。
(現在の自衛隊前駅…『木挽小屋』は、第3の道路『平岸澄川線』の経路にあり、こちらも明治~戦前の澄川の移り変わりを追ってゆくのに最適な道路です。)

当初、私は郷土史を読み込むにつれ、『器械場道路』『平岸澄川線』について理解を深めてゆきました。
のちのち郷土史に加え、国土地理院地形図などを収集するにつれ、私に大きな思い違いがあった事が判明しましたので、この場でお詫びしなければなりません。

私は過去2回の記事で『器械場道路』のルートについてこのように記述しています。
>概ね現在の『澄川通』と同じルートと推定されますが、澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校までのルート以降は、そこから更に『澄川厚別滝連絡線』の山の中の一本道へ繋がります。この、アシリベツ器械場から澄川まで陸運ルートが通称『器械場道路』です。
『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

『木挽山』の東側を抜け、現在の『澄川通』とほぼ同様のルートで、澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校の付近を経由したのち、現在の『滝野すずらん丘陵公園』にあった『アシリベツ器械場』に至る道路です。
『シリーズ『澄川』② 大正の澄川を形成する『100年道路』の全容』より)

えーと、ごめんなさい。現在の『澄川通』のルートを誤解していました。
私は当時手元にあった資料から、『器械場道路』の大まかなルートを澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校→…→滝野すずらん公園という風に理解し、そこから『器械場道路』≒『澄川通』という前提を以って上記のような記述をしました。

大まかにはそのルートで間違いはない
のですが、大正5年版の国土地理院地形図と現在の地図を詳細まで照らし合わせると、『器械場道路』は『澄川通』ではないどころか、『澄川通』というものの定義自体が曖昧であるという事が分かってきました。

詳細な解説を文章にすると兎に角ややこしいですから、まず地図を見てみましょう。
現在の『澄川通』は、南平岸駅の坂を昇った頂上の『羊ケ丘通』から分岐し、平岸高校の東側→コープさっぽろ澄川店の東側→澄川学校の“東”側→五輪通と公差する旧『五差路』→澄川南小学校の“西”側→紅桜大擁壁…というルートを通っている道路の通称です。

しかし、道路法上の分類で市道を分別してゆくと『澄川通』自体が、以下の4つの市道の断片からなる道路で、道路法の上では一体の道路ではないのです。
(ただし、都市計画法の上では『澄川通』という一体の道路だったりするのでややこしいのですが…)
  ①市道『美園西岡線』
  ②市道『澄川通線』
  ③市道『澄川厚別滝連絡線』
  ④市道『澄川緑ヶ丘1号線』 (記載は北から順。)

更に現在の『澄川通』のルートのうち、②『澄川通線』のルートは、平成になってから新たに出来たバイパス道路であり、それまでの『澄川通』は、澄川中学校の“西”を走る③『澄川厚別滝連絡線』だったのです。
ですから、地元に古くから住む方は、澄川中学校の西側の旧道を『澄川通』と呼んでおり、私もそれに倣って、『澄川通』のルートを、澄川中学校の西側と認識していたのです。

その証拠に、1981年当時のゼンリンの住宅地図を見てみると、『澄川通』が澄川中学校の“西”を走っている事が分かります。
(行政文書はどんどん更新されてゆくので過去の名前など分からなくなってしまうのです。
 そういった意味で、民間の文書や古い資料が非常に役に立ってゆきます。)

うーん、文章にするととんでもなくややこしいですから、もう一度最初の地図を見て下さい。
赤線が市道『平岸澄川線』青線が市道『澄川厚別滝連絡線』黄色が青と重複しない範囲の『澄川通』です。

地図の『南区』と書いてある左上は『五差路』といい、澄川5条・6条・9丁目・10丁目の交差点です。

そこまでは一致した『澄川通』『澄川厚別滝連絡線』『五差路』から分岐し、『澄川通』澄川南小学校の“西”を通って『紅桜大擁壁』に終着します。
一方の『澄川厚別滝連絡線』は、澄川小学校の“東”を通って、10kmほど先滝野すずらん公園・滝野霊園(旧:アシリベツ器械場)で終着します。

…ここまで読んで下さった方にはもうお分かりでしょう。
そう、『器械場道路』≒市道『澄川厚別滝連絡線』なのです。

もちろん140年の間に微小な経路変更はありますから完全なイコールではありませんが、前回も紹介した大正5年版国土地理院地形図と見比べてみると、ほぼ同一のルートを通っている事が分かります。

…と、言いますか、市道の名称が既に『澄川厚別滝連絡線』な訳で、これは『澄川アシリベツ滝連絡線』と読むのですから、そのものズバリな名称なのです。

『五差路』より北側での『器械場道路』との経路の一致についても理解していたのに、『五差路』から南側のルートと『澄川通』の相違について考えが至らなかった自分の浅慮が恥ずかしいですね。

で、もう一度現在の地図を見てみましょう。

青い細線は法律上、現在の『澄川厚別滝連絡線』ではありませんが、過去に『器械場道路』だったルートです。
(赤い細線も同様で、過去に『平岸澄川線』だったルートを示しています。)

戦後から平成にかけて真っ直ぐに作り直された『澄川通』とは異なり、区画された住宅街をぐねぐねと這うように通っている事がよく分かりますね。
平面上でも蛇行していますが、実際には坂道・高低差もかなりのものです。

前回も書いた通り、元々が『尾根道』『沢道』であるこれらの道路は、自然の地形の通りやすいルートを通っていますから、人工的な区画によるものではないのです。

そして、一度拓かれた道路は、その後その周辺が宅地化されても、何か特別な事情がない限りは残り続けてゆくのです。
(戦後の農地解放などで道路が国有地、道路以外が民有地という色合いが強くなると、以降は国有地と民有地の交換などは行われず、大規模な区画整理がない限り、そのまま保たれる為。)

現在、交通の手段としての役割は『澄川通』に取って代わられて、どちらの道路もメインストリートとは言い難い在り様ですが、かつて、100年前はこれらの道路が札幌への木材供給を支えていたのです。

そう考えると、住宅街の中を通る何の変哲のない道路にも、愛着を感じられます。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』② 大正の澄川を形成する『100年道路』の全容


当記事は平成28年3月17日、8月18日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、前回は明治期の澄川の概要を紹介しましたが、その中で2つの道を紹介しました。
札幌開拓の当初に開削され、平岸を起点として伊達に到達する国道230号線の元となった道『東本願寺道路』
そして現在の滝野=アシリベツ器械場と札幌を結ぶ、木材の運搬路『器械場道路』
今回は澄川を形作った道路について、紹介してゆきましょう。

私が多用する資料、大日本帝国陸地測量部が大正5年に発行した地形図を見てみましょう。
広範囲に渡る為、地形図のうち『札幌』のほか『月寒』『石山』『輪厚』の、4つの地形図を合成したものです。
ちなみにこの100年前の地形図に記載されている道を私は『100年道路』と呼んでいます。

等高線が複雑で道路や河川との見分けが付きづらいですね。
どの位置に何が、というお話をするにあたっての説明もしづらいので、色を付けてゆきましょう。

緑色の線『本願寺道路』青色の線『機械場道路』赤色の線『平岸澄川線』に挟まれているのが木挽山です。

・・・『平岸澄川線』?(; ・`д・´)

ここで始めて出てくる道路の名前です。

実はこの『平岸澄川線』こそが、『本願寺道路』、『機械場道路』に次ぐ澄川で3つめの道路なのです。
明治29年に陸地測量部が作成した地形図では、『器械場道路』は記されていますが『平岸澄川線』の形跡は見当たりませんから、大正5年までの10年の間に開削された道路だという事のようです。
札幌は湿地帯であったので、明治15年以降、『官林』澄川が民間に払い下げられ、入植者が増えていってもしばらくの間は直線の道路が出来なかったそうです。
しかし、入植者が増えるにつれ、道路の必要性が増し、木挽山の東側を走る『器械場道路』とは逆…西側に道路が形成されてゆきました
これが『平岸澄川線』の始まりなのです。

現在の姿はどうなっているのか、現在の地図と見比べてみましょう。

現在の『平岸澄川線』は南平岸から東光ストアまで南北に真っすぐの道路ですが、大正時代の当時はこれが澄川駅南側付近で屈曲していました。
大正7年頃澄川駅南側付近の屈折が改められて直線となった訳ですが、それよりも奥地では、現在に至るまでくねくねと屈曲したルートを辿っています。
 
これは、もともと山道であることと寒冷地である為に路盤が悪く、道路整備が非常に難しかったが為に、少しでも水はけがよい所を選んで道にしているうち、直線とはならず屈曲したルートとなってしまったという事情があるようです。
 
大正から昭和に至る経緯を『郷土史すみかわ』のP201~202を引用しましょう。
”雪解けや雨降り後はすぐ泥濘になるので、これの手入れには随分と人手を要したという。
 昭和30年代に入り、定鉄の定期バスが通った時などは、修理に大変な苦労をしたという。
 このころから住宅も増え車の往来も多くなったので、昭和33年自衛隊の協力を得て、道路の拡幅と当時の定鉄真駒内駅までの延長工事が行われた。
 しかし路盤整備まではおよばなかったので、やはり泥濘に悩む光景はしばらくの間続いた。
 そして昭和38年簡易舗装が施され、ようやく土埃りの道から解放された。
 次いで冬季オリンピック大会を迎えるに当たり、主要幹線として真駒内団地まで改良工事が行われ、りっぱな道路となって今日の繁栄にいたっている。”
 
…と、まぁこれは平岸通に関する文書で、ルートとしては平岸澄川通と完全には一致しませんが、概ねこのような歴史的経緯があった訳です。
『平岸澄川線』でも『平岸通』以外の住宅地を通る区域に関しては、現在、特別な道路であるという印象もなく、他の道路と同じように扱われていますが、澄川の他の道路と比べても大変歴史の古い道であるという事が今回初めて分かりました。
 
『平岸澄川線』『ただの道』ではなく、澄川の礎になった三番目の道なのです。

ここまでのお話の中の『100年道路』を整理しましょう。

澄川第1の道は札幌でも有数の歴史のある道『本願寺道路』で、これは天神山の北端から西側を抜け、豊平川を渡り、中山峠を抜け、大まかには現在の国道230号線と同様のルートで伊達方面に至ります。
明治4年以降には平岸街道と接続し、中心部(本府)へ接続する道路となりました。

第2の道『器械場道路』は、『本願寺道路』を天神山北端で分岐し、東側を通り、『木挽山』の東側を抜け、現在の『澄川通』とほぼ同様のルートで、澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校の付近を経由したのち、現在の『滝野すずらん丘陵公園』にあった『アシリベツ器械場』に至る道路です。

そして、第3の道『平岸澄川線』は、本願寺道路と器械場道路に次ぐ古い道であり、『器械場道路』から現在の澄川駅南端付近で分岐『木挽山』の西側を通り、現在の東光ストア付近からニョロニョロと蛇行しながら桜山付近まで伸びてゆく道路です。

ところで、地形図を見ていて非常に興味深い事に気付きました。
『器械場道路』は『尾根道』『平岸澄川線』は『沢道』なのです。

地形図には標高が記載されていますが、『器械場道路』は必ず山の稜線…つまり『尾根』を辿っており、一番標高の高いルートを追って道が通っています。

一方で『平岸澄川線』は精進川に沿った低地…つまり『沢』を辿っています。

『尾根』は、一番標高が高いルートであり、古来から道としてよく利用されます。
一番有名な尾根道としては紀伊の熊野古道の中辺路があります。

何故、高低差の多い尾根が道として利用されるのか?
まず第一に、標高が高い事で、見晴しが良く、現在地が分かり易い。
山で道に迷ったら下山するのではなく、頂上へ向かう方が良い、というのと同じ理屈です。
当時の澄川は原生林の状態ですから、自分がどこを歩いているか把握するのも困難な環境です。
そのような中で季節を問わず道としての役割を果たす為には、まず位置関係が分かり易い事が重要です。

第二に、尾根は堅い岩盤で出来ている事が多く、地盤が良い。
地盤が良いという事は地形が変わりづらく、道としての信頼性が高いという事です。

ここまでが本州でも共通する尾根道のメリットですが、雪国である札幌では、それに加えて第三のメリットがあります。
それが尾根道は雪に強い、という事です。

雪は風に吹かれて窪みに溜まり、積れば崩れて低地に落ちますから、谷地は低地は自然に雪深くなり、冬季の人の通行には適しません。
一方で、尾根では風や雪崩によって雪が移動してゆきます。
また、本格的な冬が過ぎた後においても、気温の低い北海道においては地面は湿気を含み、足場は悪いままですから、冬の間に雪が積もる事が少ない尾根は、冬以外でも利用しやすい道であったと言えます。

そのような理由から、山地において道が拓かれるのは、まずは『尾根』なのです。
『器械場道路』には、そういった『尾根道』としての性質があるのです。

一方で、尾根のデメリットとして水場が遠いという点があります。
言うまでもなく水は低きに流れますから、高所である尾根には水場が少ないのです。

開拓が進み、土地を開墾して農業を営もうという時に、生活用水も農業用水もないというのでは話になりませんから、『尾根道』が拓かれた後には、水場に近い『沢道』が拓かれてゆきます。

『沢道』と言っても、河川改修の施されていない原始河川には、豪雨などによって氾濫したり、少しのきっかけで川の流れが変わりますし、低地であるほど湿気も多く、利用するに適さない状態にありましたから、あまり川に近い立地ではなく、川よりは一段標高の高い場所に位置します。
地形図の標高差をよく見ると、山よりは標高差がなだらかで、かつ川より高い場所を辿っている事がよく分かるはずです。

今ほど技術が発展しない時代に道が通るのは、昔の人の気まぐれや偶然ではなく、合理的な背景があっての事なのです。

このように古くから拓かれて来た立地は、自然地形として安全性が比較的高く、浸水被害や土砂災害などの自然災害に比較的強いと言えるでしょう。
(ただし、地形が造成によって変更されるなど、例外もあります。)

今回抜粋した国土地理院(旧:大日本帝国陸地測量部)の2万5千分の1地形図が、札幌のほぼ全域について詳細に整備されたのは大正5年(1916年)の事ですから、今からちょうど100年前の出来事である、と言えます。
(これ以前の地形図は縮尺が5万分の1で細かい道まで読み込むには難があります)

明治2年に開拓使が置かれてから40年以上が経過していた当時においても、100年前の札幌はまだまだ未開の地で、中心部以外は人家もまばらで農業を始めとした第一次産業が基盤でした。

そんな中でも、人々の生活にとって『道』は必要不可欠で、市街化によって住宅地となった現在においても、形を変えて使われ続けている『道』はいくつもあります。

私はこれらの郊外の道路を『100年道路』と定義付け、現在にどのような形で残されているのか…
メインストリートのままでいるのか、或いは別の道路に取って代わられたのか、そういった視点から市街形成や価格分布、未来予測といった、不動産のイデアというものに近付いてゆきたいと考えています。

次回は『器械場道路』が、100年を経て、現在どのような形になっているか、紹介してゆきたいと考えています。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった


当記事は平成28年3月15日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

いつかやる予定だった『澄川』地区のお話。 

気分で書いているとは嘯いているものの、それなりのページビュー数があり、同業者も多く閲覧している以上、あまりいい加減な事を書いていると問題がありますので、この一ヶ月、澄川地区の成り立ちと歴史について、郷土史を読み込んでいたのです。

澄川の郷土史で主だったものは下記の2つです。
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

これらの郷土史に記録されている澄川の歴史を簡単にまとめてゆきましょう。

現在の『澄川』という地区は地下鉄駅で考えるとかなり広範囲を指す地名で、市営地下鉄南北線の『澄川』駅と『自衛隊前』駅、更には『真駒内』駅と3駅に渡ります。

真駒内駅の東側は、市街化調整区域となっており、原則的に建物の建築が出来ない公有の山林となっていますが、明治初期の澄川は地区全体がそのような状態で、多くの人が住む場所ではありませんでした。

都市計画法という法律は昭和に出来たもので、市街化区域と市街化調整区域の区別は、それまでは存在しなかった訳ですが、北海道の開拓は大日本帝国の主導で行われた訳で、当然、開拓者に対して『ここを開拓しなさい』とか『ここは国家の所有です』といった、開拓計画は国家の主導と許認可のもと行われて来た経緯がありますから、現在の市街化調整区域のように、積極的に市街化されなかった地域である、という理解で間違いはありません。

明治初期の澄川―当時の地名は『精進川』と言い、これは昭和19年に改められます―は、『官林』―つまりは『国有林』―であり、これが木材の供給拠点として徐々に開拓されていったのです。

時系列順に見てゆきましょう。

明治2年に北海道開拓使が設置され、北海道の開拓が国家事業として本格化しましたが、当時の札幌は大部分が原野、山林であって、まずは現在の中央区にあたる札幌本府に道路や用水路といったインフラを整えるのが先決でした。

また、本州と札幌本府を結ぶ大規模な陸路は函館との間に敷かれた『本願寺道路』が最初ですが、『道路』とはいっても、郊外のそれは時代劇で見るように平らに整備されたものではなく、鬱蒼とした原生林を切り倒し、多少の地ならしをした程度の獣道同様の道で、それでも長距離に渡る道路開発は困難を極めたと言われています。

このように、郊外地である澄川は市街化とは無縁であった訳ですが、札幌本府の市街化に従って、大量の製材の供給が必要となりました。

そこで明治5年には、精進川沿いに『木挽小屋』と呼ばれる官営の製材所が建設され、中心部に木材を供給し始めたのが、澄川への定住の始まりとされています。
木挽小屋のあった場所は現在の自衛隊前駅の周辺と言われており、現在も山の名前として『木挽山(こびきやま)』が残っています。
『木挽山』には北側に私立新陽高校、南側に澄川公園が所在する小さな山です。
この『木挽山』を囲むように2つの道路が開拓されてゆきますが、そのことについては道路の記事の際に紹介してゆく予定です。

この後、明治6年には、木挽小屋の木材を利用した『開拓使本庁舎』が竣工します。
これは開拓使・札幌本府の中心となる役所…現在で言うところの北海道庁ですが、明治12年火災により焼失してしまいました。全国的に有名な『旧北海道庁本庁舎』…赤レンガ庁舎は、その後、明治21年に建築されたものなのです。
 火災を防止するよう、木造ではなくレンガ造となった訳ですね。
 しかし、明治42年にも火災が発生し、その復旧に2年を要しています。

 


写真は『北海道開拓の村』にある開拓使本庁舎のレプリカです。

さて、国家事業としての札幌の開拓は開拓使の主導で進んでゆき、木材の需要はますます拡大してゆきます。

そこで明治13年お雇い外国人のホーレス・ケプロン(アメリカ人)によって、現在の滝野すずらん丘陵公園に水力製材所『器械場』が建設されました。
これはアシリベツ(厚別)器械場とも呼ばれ、その周辺は現在も『アシリベツの滝』として観光地となっています。

器械場が設けられた理由の一つとして挙げられるのが、北1条西1丁目に建設された官営の西洋式ホテル『豊平館』建築です。
『豊平館』は中島公園に移築され、国の重要文化財に指定されています。

ところで、器械場のあった『滝野すずらん公園』は、札幌市外からかなり離れています。
参考までに現在の整備された道であっても札幌テレビ塔まで、車で約40分、徒歩で3時間30分程度かかりますから、器械場で加工された製材を札幌本府へ運搬するのは、非常に大変な作業です。
わざわざそんな遠くに製材所を設置しないでも…とは思いますが、当然そんなことは当時のケプロンや開拓使も考えたでしょうから、充分な水力を得るだけの傾斜と水量が得られる土地は、他になかったという事なのでしょう。

初期は製材を牛の背に乗せ、そのうちに馬車での運搬へ移行していったようです。
資料によっては、現在の澄川駅周辺からは豊平川での水運を行なったとありますが、どちらにせよ器械場から澄川駅周辺までは、陸運されていたようです。

この、アシリベツ器械場から澄川まで陸運ルートが通称『器械場道路』です。
概ね現在の『澄川通』と同じルートと推定されますが、澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校までのルート以降は、そこから更に『澄川厚別滝連絡線』の山の中の一本道へ繋がります。

この『器械場道路』が、澄川では『本願寺道路』に次ぐ2番目の道です。

この後、アシリベツ器械場は明治23年には閉鎖され、『官林』であった澄川地区も、明治15年以降から徐々に払下げ・貸下げとなっています。
実は明治15年開拓使が廃止された年でもあります。
開拓使の廃止に絡んで教科書にも載っている『開拓使官有物払下げ事件』が起こり、北海道を3県に分割するという処置が取られ、結果として澄川の『官林』が民間に払い下げられるようになった、という事のようなのです。

そのように、先に開拓されていた平岸村の人々への小規模な払下げ・貸下げはあったものの、大きく状況が変わり、大規模な払下げ・貸下げが行なわれたのが明治29年です。

まず、地下鉄南北線『澄川』~『自衛隊前』周辺を、明治29年頃に茨木与八郎が取得します。
茨木与八郎という人は小樽市祝津で鰊漁や海運と生業としていたものの、海難事故で船を失って以降は札幌の各地で農場経営を行なっていたとされる人です。

茨木氏は不在地主であり、管理人の鳥居久五郎という人が小作人を管理していたようです。

大正期に設立した定山渓鉄道が昭和8年『北茨木停留所』を設置していますが、これは茨木農場北部を鉄道用地に寄附した事を由来としています。
『北茨木停留所』昭和24年に駅となり、昭和32年に『澄川』駅へと改称され、昭和44年に定山渓鉄道廃線に伴い廃駅、昭和46年には地下鉄駅として生まれ変わります。

同明治29年茨木農場の東側、澄川小学校から紅桜公園にかけての広い区域が、阿部与之助に貸下げられ、カラマツ(落葉松)等の『阿部造林』事業を行ない、この広い一帯が『阿部造林山』と呼ばれる事になりました。

この『阿部造林山』の一部が昭和40年代に『緑ヶ丘団地』として造成された地域です。

阿部与之助氏は明治3年に単身北海道に渡り、雇われの漁師を経て、豊平地区で開拓と商売を行ない、のちに大地主となった人で、豊平地区に故郷の人々を呼び寄せるなどして地域の発展に貢献したそうです。
現在も月寒公園には『阿部与之助功労碑』が祀られています。

さて、明治期の澄川地区の歴史をざらっとまとめましたが、如何でしたでしょうか。

ポイントは大きく2つ…
 ◇澄川地区は『木挽小屋』『器械場道路』で木材供給と深く関わっていた。
 ◇明治29年、2人の地主によって大きく拓かれた。

澄川地区の開拓の始まりの概要を説明しておかないと、のちのちの記事が上滑りしてしまうので、
今回は予定を変更して明治期の澄川について紹介をしました。

大正・昭和・平成の澄川駅周辺についても資料を集めているので、のちのち紹介してゆく予定です。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

旧・調12 真駒内南アートの丘地区


当記事はこの度書き下ろしたものですが、写真は2014年の取材当時のものです。

今回紹介するのは決定番号:95『真駒内南アートの丘地区』です。
市街化区域に編入される前は決定番号:調12『真駒内南アートの丘地区』だった地区です。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

住所としては真駒内の番地地区でイメージとして常盤や芸術の森と言った方が市民の方には分かりやすいかもしれません。
ちなみに山を越えて北側には調5『真駒内駒岡団地』が所在しています。

北側からの入り口部分です。

北東側、北側の入口から見て左手側には雨水貯留池があります。

この地区は『真駒内アートパークタウン』という名前で分譲されていました。

ですが、雨水貯留池の名前は『真駒内エー・ビレッジ雨水貯留池』。
・・・なんか、混ざってませんか?(; ・`д・´)

調19『札幌アートヴィレッジ地区直線距離で2kmも離れています。

・・・排水の流路も違いますから、おそらくは単純ミスなのでしょう。

平成14年7月15日に都市計画法に基づく開発許可を得て造成され、
平成15年3月3日に地区計画決定がされました。
比較的新しい造成地で、建物もオシャレなものが多いように思います。
私も新興造成地を色々と見て歩いていますが、道が広いことも併せて個人的に結構好きな部類の街並みです。

さて、普段はここで終わるところですが、少し気になる事があったので航空写真を見てみましょう。
以下は2007年以降撮影の、国土地理院としては最新の航空写真です。
まだ住宅の建築はまばらですね。

同じ位置の昭和60前後の航空写真がこちら。Σ(゚Д゚;え・・・何これ・・・
採石場のような構造物が見えますが、年代的に見て明らかに団地の造成工事ではありません。

この辺りは駒岡清掃工場もある郊外地ですから、土木系の用途で使われていたのでしょうか。
ちょっと昔の住宅地図を調べてみましょう。

こちらが昭和60年=1985年のゼンリン地図です。
丸見産業火山灰採取場』という記載があります。
名古屋に丸“美”産業という会社が現存しますが、同一か否かは分かりません。
兎も角、航空写真の施設は火山灰の採取場だったという訳です。

火山灰の採取場であれば土壌汚染の心配は薄いかと思いますが、
一方で地盤を切り取ったり、上に土を乗せたりといった行為は、
盛土』『切土』・・・まとめて『盛切』と言い、
液状化現象不等沈下の原因になりがちです。

札幌市地図情報サービスのハザードマップを見てみましょう。

少なくとも札幌市のハザードマップでは、震度・建物倒壊・液状化等の評価は悪くないどころか、むしろかなり良好な評価のようです。
ハザードマップの評価がすべてとは限りませんし、心情的な部分もありますから、当社ではその土地の利用履歴については可能な限り調査して告知しています。

不動産の売買は一般の方にとっては非常に難解で、リスクの大きなものです。
我々不動産のプロフェッショナルであっても、完全にリスクを取り去ることは出来ません。
調べて、調べて、調べて、調べて、それでも足りないのが不動産なのです。

・・・さて、最後にお決まりの地区計画概要でも見てゆきましょうか。
実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

計画書 ・ 計画図

決定: 平成15年3月3日 変更:平成16年4月6日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

調19 札幌アートヴィレッジ地区 夜のアートヴィレッジと平成28年度の価格

当記事は2016年04月26日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

さて、このブログももう3年半を迎え、毎年恒例記事というのも増えて来ました。

特に役所関係の記事については、年度が替わると状況も変わりますから、
定期的にウォッチしてゆく必要があるのです。

今回の恒例記事は売れ残り26年目の産業団地『札幌アートヴィレッジ地区』です。

過去の記事はこちら
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 (平成26年)
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 夏の様子と平成27年度の価格

さて、夏と冬の様子は既に紹介しましたから、今回は趣向を変えて、夜の様子を紹介しつつ、平成28年度の価格を紹介してゆきましょう。
写真はいずれも平成28年4月上旬の夜7時30分ごろ撮影したものです。

さて、アートヴィレッジに行くには常盤・芸術の森側からのルートと、
石山六区側からのルートの2通りがありますが、
いずれも郊外で、山の中ですから夜は街灯もなく真っ暗です。

しかし、アートヴィレッジでは、5区画中1区画しか運営していないにも関わらず、区画内は街灯が煌々と照っています。

運営中の『芸森スタジオ』が不便しないようにという配慮かもしれませんが、
アートヴィレッジまでの山道は真っ暗なのですから、
街灯がなかったとしてもさほど不便ではないと思うのですが…

確認していませんが、明け方まで点灯している『常夜灯』でしょうしね。

札幌IT立国の夢の跡、『ハドソン中央研究所』跡地も相変わらずそのままです。
購入したい、という方は所有者を探して連絡しますからお問い合わせ下さい。

有名な『廃墟』になりつつありますが、現地は立入禁止です。

『廃墟』とされているものであっても、あくまで私有財産ですから、無断での侵入については刑事罰の対象となります。
勝手に立ち入るような真似は絶対にしてはなりません。

空き家となってから11年が経過しますが、
ハドソンの創業者、工藤裕司氏が設置したと言われるミニSLの駅『ニセコ』が窓からのぞきます。
資金が有り余っていれば、私もこの旧社屋を購入して、芸術的不動産会社を設立するのですが…

まぁ、アートヴィレッジ地区は非常に厳しい地区計画によって、
その運営事業が芸術目的に限定されていますから、営業が許可されない可能性の方が高そう
です。

さて、そんな非常に厳しい地区計画で誰も買えない・買っても事業を運営出来ない事で有名な・・・
というか、私が有名にしようとしている『札幌アートヴィレッジ地区』ですが、
平成28年4月1日の年度替わりに価格が更新されましたので、それも見てゆきましょう。

昨年はこのような公示価格も無視した不自然な値動きで、
札幌市ってホントはこの土地売りたくない事情があるんじゃないの?というお話をしました。
 第1区画  分譲価格:前年比 3.3%↑    賃貸価格:16.9%↓
 第2区画  分譲価格:前年比11.6%↑    賃貸価格: 6.9%↓

いや、だって南区の公示価格は前年比で0.2%下がっているにも関わらず、
分譲価格がこの水準に設定する札幌市役所の担当者ってどんなバブル脳だ、って話ですからね。
そりゃあ私もウラの事情を勘ぐってしまいます。

そしてこの一年、私は色々な場で市政関係者に会う度に、
アートヴィレッジについてチクチクとイヤミを言い続けてみたり、
一般の市民の方に前回のブログ記事をことあるごとに薦めてみたりと、
イヤガ…もとい、適正な市政運営への働きかけを行なってきました。

今年の南区の公示価格は前年比0.1%の下落と、下げ幅は昨年より小さくなっていますが、
やはり南区の凋落は収まらず、と言った処でしょうか。

焦らしましたが、今年の価格を見てゆきましょう。

 第1区画  分譲価格:前年比 6.6%↓    賃貸価格:14.0%↓
 第2区画  分譲価格:前年比 6.4%↓    賃貸価格:13.9%↓

おお、分譲価格も賃貸価格も軒並み下がりました。
私のイヤガラ…もとい、適正な市政運営への働きかけの成果でしょうか。

…ただ、それでもまだまだ高い。
今年の価格と一昨年の価格とを比較してみましょう。

 第1区画  分譲価格:前年比 0.3%↓    賃貸価格:16.9%↓
 第2区画  分譲価格:前年比 4.4%↑    賃貸価格: 6.9%↓


分譲価格については、実は一昨年並みか若干高い程度の価格設定なのです。
一昨年…平成26年4月といえば、消費税増税前後で土地が高騰した年です。
26年間売れ残っている産業団地がその地価高騰期と同水準の価格のままである、というのは、
如何に異常な価格設定であるか、という事を担当者はきちんと考えて頂きたい。

賃貸価格については二年連続で大きく下落している訳ですが、
地区計画の内容からして、短期利用をするような使い方が想定されていませんから、賃貸価格が下がった処で大した意味はないのです。

そして、今年も夏になれば雑草は刈り取られ、綺麗な分譲団地の姿が保たれます。
芸森スタジオ以外に訪れる人のない団地は、毎夜、街灯によって煌々と照らされます。

その為の維持費は、どこから出てくるのでしょうか。

高い、高い、と言っていますが、これは単に値下げをしろと言っているのではありません。
市内の建物が建築可能な土地が坪1万円前後というのは破格です。
しかし、実際には地区計画によって、建物が建たない・転売価値の薄い土地な訳です。

銀行だって、こんな土地が担保ならロクに融資してくれませんよ。
(転売価値≒担保価値が低い為)

3年間繰り返しの主張になりますが、すべての原因は厳しすぎる地区計画なのです。
(まー、そもそもこんな辺鄙な場所を造成したのが誤り、とも言えますが、
 26年間売れ残り続けている事の原因は、地区計画にあると考えます。)

芸術や文化活動といったものを大切にする事は大事ですが、
あまりに現実的でない制限を続ける事は、役人の保身と自己満足に他なりません。

最後に、この地区に設置してはいけない建造物を例示しましょう。(分譲・賃貸共通)
 ① 建築基準法別表第二(と)項第1号、2号、4号に掲げるもの
    =準住居地域内に建築してはならない建築物→一定規模以上の工場や商業施設
 ② 住宅
 ③ 学校(大学、高等専門学校、専修学校その他これに類するものを除く。)
 ④ 神社、寺院、教会その他これらに類するもの
 ⑤ 老人ホーム、保育所、身体障害者福祉ホームその他これらに類するもの
   (就業者のための付帯設備として建築物内に設けるものを除く。)
 ⑥ 老人福祉センター、児童厚生施設その他これに類するもの
 ⑦ 病院、診療所(就業者のための付帯施設として建築物内に設けるものを除く。)
 ⑧ 店舗、飲食店その他これらに類するものでその用途に供する部分の床面積の合計が500㎡を超えるもの
 ⑨ ボーリング場、スケート場、水泳場、スキー場、ゴルフ練習場又はバッティング練習場
 ⑩ 遊技場、勝馬投票券発売所、場外車券売場その他これらに類するもの
 ⑪ 自動車教習所
 ⑫ 畜舎
 ⑬ カラオケボックスその他これに類するもの
 ⑭ 自動車修理工場
 ⑮ 工場(美術品又は工芸品の制作を行うもの及び建築基準法施行令第130条の6に掲げるものを除く。)
    建基法施工令130条6→50㎡以内の食品工場。例)パン屋、米屋、豆腐屋、菓子屋。

こういった数々の制限に該当せず、かつ、文化的・芸術的な商売採算を取れる方で、銀行の融資に頼らずに不動産を購入出来る場合には、アートヴィレッジ地区をお薦めします。

その際には是非仲介をさせて頂きたいと思います(笑)

調19 札幌アートヴィレッジ地区 夏の様子と平成27年度の価格

当記事は2015年05月15日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

平成27年4月12日の札幌市長選挙を受け、平成27年5月2日には、新市長 秋元 克広氏が就任しました。
3期12年を務めた上田 文雄前市長の副市長でもあった新市長ですから、今後の札幌市の行政は上田市政を発展させたものになる、と言われています。

さて、今後の市政には除雪問題や地下鉄延伸の有無、市電の再延伸を始め、
都市計画上、不動産流通上にもさまざまな影響が出てくると思われますが、
今回はいくつもある懸案事項のうち、非常に注目度が低いもの…
『札幌アートヴィレッジ地区』を再び取り上げてゆきましょう。

過去の記事はこちら
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区

前篇では都市計画上の歴史、後篇では各区画の具体的経緯を紹介しましたが、一言で言ってしまえば、鳴かず飛ばずの産業団地ですね。

平成2年からずっと札幌市が分譲・賃貸を行なっていますが、
芸術の森にちなんで、利用は芸術関係の業種に限定されているため、
現在運営されているのは『芸森スタジオ』だけという体たらくなのです。

かつては地場のゲームメーカー、ハドソンの中央研究所がありましたが、
ハドソンの子会社化とブランド消滅に伴って閉鎖され、現在は転売先を探しているところです。

アートヴィレッジには未利用区画が2区画ありますが、この価格は年度ごとに改定されます。
  札幌市 札幌アートヴィレッジ:分譲・賃貸区画
   http://www.city.sapporo.jp/keizai/biz_info/danchi/art-kukaku.html

さて、もう25年も売れ残っている団地、どのような値動きをしているのでしょうか。
前年対比でみてゆきましょう。(具体的な価格は札幌市のホームページをご参照下さい)

 第1区画  分譲価格:前年比 3.3%↑    賃貸価格:16.9%↓
 第2区画  分譲価格:前年比11.6%↑    賃貸価格: 6.9%↓

Σ(゚Д゚,,)札幌市サンよ、ホントに売る気あんのか?

20年以上売れ残っている土地の分譲価格が今更値上がりするなんて馬鹿げているでしょう。

この値上がりの原因はどこにあるのでしょうか?
札幌市に限らず、自治体が不動産…特に土地の取引をする場合、
まずもって価格の根拠として重要視されるのが『公示地価』ですから、
もしかしたら公示地価が大幅に上昇した影響なのかもしれません。

札幌市の場合は、公示地価が区ごとに分かりやすくまとめられていますから、
その資料『土地価格地図』を見てみましょう。 
  札幌市 土地価格地図
   http://www.city.sapporo.jp/keikaku/chika/chika.html

・・・え?札幌市の地価って全体でも0.9%しか上昇してないし、
南区に至っては0.2%のマイナスなんですけど!(;´∀`)
ちなみに平成26年は全市で1.3%の上昇、南区は±0%(変動なし)。
更に、芸術の森に一番近い地点の地価も、横這いか下落で、上昇はしていません。

つまり、アートヴィレッジの分譲価格上昇の根拠は公示地価ではない、という事です。
賃料は値下がりしているものの、前回説明した通り、アートヴィレッジ地区は、芸術事業用の建物を建設することが念頭に置かれていますから、基本的に、賃貸での利用というのはあまり考えられていないのです。

・・・っていうか、あの山奥に建物も建てずに何をやるんだって話がありますからね。

ここまで来ると札幌市にアートヴィレッジを売りたくない事情があるのでは?と勘ぐってしまいます。
造成費と維持費がかかっている状態で売却してしまうと、赤字が計上されるので、会計上の資産として残しておいて『含み損』のままにしておこう、という腹積もりなのでしょうか。
もしそうだとしたら、官僚主義・民主主義両面の悪しき側面と言わざるを得ません。

今後も道路整備や未利用地の草刈などに市の予算が使われる事になりそうです。

・・・と、このように、札幌アートヴィレッジは山奥にあるものの、
税金を使って綺麗に造成され、今も分譲地として良好な状態を保っています。

繰り返しますが、ネックとなるのはあまりに厳しすぎる用途制限なのです。

ぶっちゃけ、もう失敗してしまった事は灯を見るより明らかなのですから、
失敗は失敗として受け止めた上で、塩漬けにするのではなく、
きちんと『損切り』出来るように、都市計画を改める事が必要なのではないでしょうか?

そうでなくては、これから20年後も、30年後も、
この山奥の産業団地に累積的な赤字が計上されていくことになってしまいます。

【関連記事】
私は毎年、この地区の推移を見守っています。関連記事はこちら。
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 (平成26年)
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 夏の様子と平成27年度の価格
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 夜のアートヴィレッジと平成28年度の価格

調19 札幌アートヴィレッジ地区

当記事は2014年04月16日および2014年04月17日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

市街化調整区域内の地区計画を現地の写真を交えて紹介するという、(自称)画期的なコンテンツ、これまでに4回を重ねてきましたから、全18地区のうち今回も含めると既に四分の一以上を取り上げた事になります。

今回は『既存宅地制度の代替としての地区計画』ではない地区計画です。
大変興味深い経緯を辿った地区ですから、みっちりと紹介してゆきます。
その名も決定番号:調19『札幌アートヴィレッジ地区』

『そんなもん聞いた事ない』という人もいるかと思いますが、住所としては『札幌市南区芸術の森3丁目』、地区計画の範囲はこんな感じです。

Googleマップではこんな風になっています。

『芸術の森○丁目』というのは割とスゴい住所ですが、厚別区にある『下野幌テクノパーク』に比べれば幾分常識的かもしれません。
芸術の森1丁目には札幌市立大学 宮の森キャンパス(本部)があります。
芸術の杜2丁目には市民にも馴染み深い、美術館やホールなどがあります。
いわゆる『芸術の森』としてイメージされるのはこの2丁目ですね。
更に南に行くと、芸術の森3丁目、今回紹介する『札幌アートヴィレッジ地区』です。
芸術の森を表すキーワードはズバリ『バブル景気』です。
というのも、この地区の大きな転換点は平成3年平成18~19年
ちょうど第一次平成不況の始まりとなったバブル崩壊と、
リーマンショックを契機としたファンドバブルの崩壊と重なります。

どんな経緯があったのかは、この地区計画の目標に詳しいです。
 当地区は、南区の大自然と芸術文化が調和した環境づくりとして芸術の森の南端に位置し、
 本市の芸術文化活動の領域を広め、新しい芸術文化を創造するとともに、
 札幌市の個性ある産業の育成を図るため、平成2年に札幌市が造成した団地である。
 さらに平成19年にはその分譲方針を見直し市立大学や芸術の森との連携のもと、
 従来の芸術文化産業の振興に加え、芸術文化活動の発信や集客交流、
 人材育成などの幅広い事業展開を対象とした企業や団体等を誘致していくこととしている。
 そこで本計画では、札幌アートヴィレッジ地区の開発理念、
 分譲・賃貸方針に基づく土地利用及び建築物の配置等の誘導と、
 併せて周辺環境との調和のとれた良好な市街地の形成を図ることを目標とする。

地区計画の目的というと、いつもはテンプレートのコピペ文書ですが、今回は大変参考になる内容ですね。

昭和56年から平成3年にかけて造成された芸術の森地区のうち、
平成2年5区画が造成された芸術の森3丁目は、
札幌市を主体として分譲を行い、企業などの誘致を行ってきましたが、
3区画については分譲出来ず、2区画にのみ建物が建っている状態が15年ほど続きます。
(うち数区画についてはどうやら、関東の大手企業による事業計画もあったようです。)
札幌市もこんな状態ではイカンと奮起し、ファンドバブル全盛平成19年10月3日、地区計画決定がなされます。
リーマンショックは平成20年9月の出来事ですから丁度その前年という事になります。

ちなみに、芸術の森1丁目にある札幌市立大学は平成18年4月開学です。
更に母体の学校法人『札幌市立高等専門学校』は平成3年設立ですから、
どちらも札幌市の事業とはいえ、ホントにアートヴィレッジと同じような経緯を辿っているんですね。

より細かい話をすると、平成18年の都市計画法の改正によって、
以前は許可不要だった公的機関が行う開発行為について、
平成19年11月30日以降、許可が必要になってしまったという事情があるのですが、地区計画の内容や当時の議事録を見るに、この地区計画の決定は、やはり起死回生の策であったような印象を受けます。
バブルに踊って造成した芸術の森ですが、再起を図る為のプロジェクトは、リーマンショック以前のファンドバブルの波に乗せられてしまっただけなのかもしれません。

私自身、ファンドバブルとリーマンショックのアオリを大きく受けた世代です。
ファンドバブルの就職活動超売り手市場と、その後の大不況を重ねると感慨深いものがあります。
商売もギャンブルも政策も、そして人生も、人間はいつだって同じような落とし穴に嵌ってしまうものなのかもしれませんね・・・

そんなアートヴィレッジ地区、現在どのような状況になっているかと言えば、
5区画中2件が分譲・賃貸中、1件が賃貸中の空き地、
1件が売却済の建物で空き地、稼働しているのは残りの1件のみ
です。
分譲情報については札幌市のホームページを確認して下さい。
 札幌市 札幌アートヴィレッジ:分譲・賃貸区画 【リンク切れ】
  http://www.city.sapporo.jp/keizai/biz_info/danchi/art-kukaku.html

 さっぽろ産業ポータル 札幌アートヴィレッジ
   http://www.sec.jp/iarea/view/id/19

価格は毎年変わるという事なので、写真では黒塗りにさせて頂きました。
いつも好き勝手言っている私ですが、これでも時計台の鐘が鳴る札幌の市民ですから、札幌市の事業を妨害する意図はありません。

価格も市街化調整地域らしいお値段で、道路も整備されています。
何故こんなにも利用が進んでいないのでしょうか?

それは、この地区に建築できる建物に厳しい制限が課せられているからです。
以下は売買の場合、賃貸の場合ともに、この地区に設置してはいけない建造物です。
 ① 建築基準法別表第二(と)項第1号、2号、4号に掲げるもの
    =準住居地域内に建築してはならない建築物
       →一定規模以上の工場や商業施設
 ② 住宅
 ③ 学校(大学、高等専門学校、専修学校その他これに類するものを除く。)
 ④ 神社、寺院、教会その他これらに類するもの
 ⑤ 老人ホーム、保育所、身体障害者福祉ホームその他これらに類するもの
   (就業者のための付帯設備として建築物内に設けるものを除く。)
 ⑥ 老人福祉センター、児童厚生施設その他これに類するもの
 ⑦ 病院、診療所(就業者のための付帯施設として建築物内に設けるものを除く。)
 ⑧ 店舗、飲食店その他これらに類するものでその用途に供する部分の床面積の合計が500㎡を超えるもの
 ⑨ ボーリング場、スケート場、水泳場、スキー場、ゴルフ練習場又はバッティング練習場
 ⑩ 遊技場、勝馬投票券発売所、場外車券売場その他これらに類するもの
 ⑪ 自動車教習所
 ⑫ 畜舎
 ⑬ カラオケボックスその他これに類するもの
 ⑭ 自動車修理工場
 ⑮ 工場(美術品又は工芸品の制作を行うもの及び建築基準法施行令第130条の6に掲げるものを除く。)
    建基法施工令130条6→50㎡以内の食品工場。例)パン屋、米屋、豆腐屋、菓子屋。

・・・一体何をやれと言うのか!( ゚Д゚)
(芸術関係の施設を運営して下さいという話です。)
これ、かなり厳しい制限でして、事業を行う予定で売買しても、実際に事業を開始しない場合には、札幌市に土地を返さなければならなくなります。
(10年間の『買戻特約』が登記されます。)
一度買ったものを他人に転売する場合でもこの特約は有効ですから、もうアートなヴィレッジになるしかない訳です。
しかも、最低でも一区画5000㎡はある土地で、規模の制限があるというのはどういう了見なんでしょう。
5000㎡の土地500㎡の芸術的飲食店50㎡の芸術的パン屋さんでもやれというつもりなのでしょうか。

『これだけ広いんだからメガソーラーでもやれば?』という訳には行かないんでしょうねぇ…

<現在分譲中の空き地にホテル建設の予定があった>
 平成20年3月1日の北海道新聞の記事を引用します。
 建設不動産コンサルティングの都市デザインシステム(東京)は、
 未利用の分譲地約一万平方メートルにホテル建設を決め、六月に正式契約する。
 二~三階の低層で延べ床面積約三千五百平方メートル。
 三十室の客室ほか、芸術作品のギャラリーも複数設ける。
 この夏着工、来年夏開業の予定だ。
 同社は「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)などに
 訪れるアーティストも多く、収益も十分見込める」と話す。

なんとも明るいニュースですが、その土地は現在も更地です。
(面積から類推するに、一番西側の区画・・・市の分譲資料の番号②の土地と思われます。)
株式会社 都市デザインシステムはコーポラティブハウスの企画やホテル経営で躍進した企業ですが、
平成20年8月に経営破綻し、民事再生法の適用を申請しています。
(民事再生を経てコクヨの子会社となり、現在はUDS株式会社として建築企画を行っています。)
当時の報道では、沖縄の大規模リゾート開発に頓挫したという事ですが・・・
同年の9月にはリーマンショックがありましたから、まぁ遅かれ早かれ・・・という事なのでしょうね。

<地場産業の栄枯盛衰>
札幌アートヴィレッジで特に有名なのは『株式会社ハドソン中央研究所』です。
私としては色々と守秘義務の問題が出てくるので正直あまり取り上げたくありません。

ただ、地区計画を紹介するにあたってその地区を代表する建物を紹介しないというのは、資料的価値に劣ります。
守秘義務の対象は『業務上知りえた秘密』ですから、その点には触れずに、『芸術の森 ハドソン 中央研究所』で出てきた検索結果を元に記述したいと思います。

この建物は桃太郎電鉄ボンバーマンで有名な、株式会社ハドソンの中央研究所でした。
ハドソンは札幌を代表するIT企業でしたが、拓銀破たんを機に資金繰りが悪化、平成17年にコナミグループの子会社となり、平成24年に吸収合併され消滅しました。

『中央研究所』は、創業者・工藤裕司氏の趣味ハドソンの自由な社風がよく現れた施設だったそうです。
建物内外をミニSLが走り回り、古銭の展示室などもあったという事がインターネット上に書かれています。

向かって右側にある柵が、ミニSLのレールだったという事です。
しかし、コナミの子会社となった直後、平成17年3月末でこの建物から撤退。
子会社化→吸収合併→そして平成26年のハドソンブランド完全消滅まで、わずか9年
高橋名人桃太郎電鉄など、一世を風靡した企業の歴史は40年足らずで幕を閉じたのです。

建物前にある回収時刻が白紙の私設ポストと建物の窓からのぞくミニSLの駅『ニセコ』が切ないですね。

<アートヴィレッジ 最後の砦>
そして、現在も残っているのは株式会社SAVEが運営する『芸森スタジオ』のみです。

この施設は、各種音響機材とスタジオを貸し出し、音楽のレコーディングを泊まり掛けで行う事が出来る施設で、運営会社の株式会社SAVEは、歌手の松山千春氏の事務所、オフィス・ゲンキ株式会社ボーカロイド『初音ミク』クリプトン・フューチャー・メディア株式会社、地場の音楽会社、株式会社ウエスなどが株主となっているようです。(芸森スタジオHPより)

前述のホテル開発計画と同日の北海道新聞の記事を引用します。
 イベント企画のウエス(札幌、小島紳次郎社長)と
 歌手の松山千春さんが社長を務めるオフィス・ゲンキ(東京)は
 二月中旬、九三年にファンハウス(現BMGジャパン、東京)が開設したスタジオを約一億円で購入。
 二階建て約千九百平方メートル。客室七室も備え、小田和正さんやビーズが録音を 行ったこともある。
 両社はスタジオを国内外のアーティストらに利用してもらうほか、
 道内の若手歌手やクリエーターらを発掘、育成する拠点とする計画。

・・・と、まぁ、それから6年が経過した現在も運営は継続されているようで、何よりです。
わたくし細丼善太郎はアートヴィレッジ最後の砦 『芸森スタジオ』 を心から応援しています。
   ◆ 芸森スタジオの公式ホームページはこちら

<アートヴィレッジの未来>
前述の北海道新聞の〆の部分を引用しましょう。
 札幌市は新年度、有識者会議を発展させる形で同地区の活性化や市民の利活用促進を検討する協議会を関係者らと設立
 三カ年の事業計画などを策定し、世界に札幌の芸術制作環境をPRしていく考えだ。

これが平成20年の記事ですが、平成26年の現在に至るまで、
平成19年に決定された地区計画が見直されたという話は耳にしていません。

昨今、アベノミクスや東京オリンピックに浮足立ちつつある不動産業界・建設業界ですが、札幌市にはバブル崩壊やリーマンショックの教訓を重く受け止め、浮足立たず、堅実な自治体運営を行って頂きたいものです。

具体的には、どう考えても制限が厳しすぎる地区計画と分譲条件を見直した方がよろしいんじゃーありませんかねぇ?
造成費用と整備費用っつったって市民の税金と地方債(借金)から出ているんでございましょ?

まかり間違っても、札幌オリンピックの招致に成功したなどと言って、
アートヴィレッジに追加投資をするような真似はしてほしくないものです。

決定:平成19年10月3日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

【関連記事】
私は毎年、この地区の推移を見守っています。関連記事はこちら。
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 夏の様子と平成27年度の価格
 ◇ 調19 札幌アートヴィレッジ地区 夜のアートヴィレッジと平成28年度の価格

調15 石山六区西地区

当記事は2014年05月02日および2014年07月08日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:調15『石山六区西地区』です。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

札幌市民であれば『石山』という地名は、一応知っているというも多いでしょう。
国道230号線『石山通』は、中心部と札幌の温泉地『定山渓』を結ぶ幹線道路で、札幌市の道路の中では有数の知名度がある『道』だからです。

中心部から定山渓までの地名は下記のようになっています。
南○条西○丁目→|→川沿→石山→藤野→簾舞→|→豊滝→小金湯→定山渓

札幌市南区の郊外は、傾斜地ではあるものの古くから安価な住宅街として造成され、多くの人が住んでいますし、その中では『石山』は比較的中心部に近いエリアです。

公共交通機関はバス以外にはありません。
かつては『定山渓鉄道(じょうてつ)』現在の石山通に沿って敷設されており、
これらの地区も、当初の段階では定山渓鉄道があって発展してきたのですが、昭和44年に廃線となり、以後、札幌に私鉄は存在していません。
(より正確に言うと、定山渓鉄道の廃線と、この地区の『宅地化』は順番として若干前後するようです)

現在の『石山』旧・定山渓鉄道『石切山』駅を中心とした一画です。
(お察しの通り石山という地名は採石場があることから付けられた地名です。)

石山通にほど近い部分には住居表示が実施されており、石山1条~4条に区分されていますが、石山通から離れた南側の部分は住居表示も実施されていない市街化調整区域の広大な範囲となります。

『南区石山』の範囲はこんな具合に相当広いのですが、南北に走る市道『石山穴の沢線』以外の部分は、殆どが山である、というのが実態です。

そんな中『石山六区とは何かというと、住居表示が実施される前、この地区の地名は『石山○区』という風に区分されたものが、取り残されているものです。
現在の石山一条~石山四条、また石山東に改編された市街化区域の部分と、市街化調整区域として住居表示が実施されず、単なる『石山』のままとなっている部分に分かれます。

石山は一区から八区まであったのですが、このうち人が住み続けている石山六区地区だけがバスの路線名や地区計画などで地名に残っています。
勿論、地元の方はいまだに『〇区』と呼ぶこともあるようですが、バス停からも『〇区』という呼称は絶滅しており、公式に使われているのは石山六区だけであるようです。
詳細については末尾で項目を設けて紹介しています。

中央バス『石山六区』停留所『石山六区会館』は、今回の地区計画『石山六区西地区』の区域より、
もっと南側にありますから『石山六区』という地区を考えた場合には、これもかなり広い範囲であるという事が出来るでしょう。

さて、現地は『石山穴の沢線』の西側と東側に分かれ、東側には河川『穴の川』が流れています。

西側はかなり急な坂道となっており、二本ある道路(どちらも『石山77号線』)のうち、
北側に関しては、冬の間の通行は禁止されているようです。北側には建物も殆どありません。

東側に関してはゆるやかな傾斜になっており、そこそこの密度で住宅が建築されています。
新しい建物や、売地もちらほらとあるのは、この地区計画が決定された結果の事でしょう。

穴の川は『砂防指定地』となっています。
これは山の崖崩れや川の氾濫の恐れがあるため、土を掘ったり盛ったりしてはいけませんよ、という地域です。
既存の敷地をそのまま使う分には影響がありませんが、土地の形を大きく変更する場合には制限がかかります。

地区計画の目標は以下の通り。
 当地区は、都心部より南方約12㎞の市街化調整区域に位置し、
 昭和42年及び45年に道の位置の指定を受けた道路によって構成される一団の地区であり、
 現在、比較的良好な住宅市街地を形成している。
 そこで、本計画では、地区の特性に応じた土地利用と建築物等に関するルールを定め、
 現在の良好な住環境の維持増進を図ることを目標とする。

『既存宅地制度の代替としての建物建築可能な地区計画』です。
これは再三取り上げてきましたが、既存の土地所有者に対する救済措置という意味合いが強いものです。
そもそも、当時建築可能だった土地が、昭和43年の都市計画法の制定によって、市街化調整区域という区割りとなり、建替や新築も出来なくなってしまった、という事情があり、かつ、これをそのままにしておくと高齢化によって限界集落のようになりかねない、という配慮から、建物の再建築が可能なように地区計画を設定しているのです。

しかし、これって市街地を密集させて効率的な都市運用を行うという、
『都市計画法』や札幌市の『コンパクトシティ構想』『都市計画マスタープラン』とは真逆の発想です。

この地区計画を決定する前段の『都市計画審議会』の議事録を見てみると、
この点について、市の職員に強く問題提起をしている市民委員の方がいます。

氏名を検索すると有限会社 市村都市環境研究所の代表者 市村一志氏のようです。
 第26回 自然エネルギー普及 市村一志さん|札幌人図鑑

また、その際の議事録は第22回(事前説明)第24回(本決定)から見る事が出来ます。

まー、このような問題提起をしても、審議会の議題に上る頃には、
住民説明会も済ませてしまっていて、根回しは万全な訳で、賛成多数で採決され、現在に至ります。
デュープロセス(適正手続)というのも、なかなか難しいものだなぁ、と実感します。

あ、今日は思いのほか長くなってしまい、いつものを忘れていました。
実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

計画書 ・ 計画図 ・ 解説書

_

決定:平成16年10月8日 変更:平成18年3月31日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

【石山一区~八区の区割りについて】
石山六区というのは、旧来の住所区画による呼称であるというのは前述したとおりですが、それでは、石山一区って具体的にどこなの?何区まであるの?

当然の疑問なのですが、実はこれを容易に調べる事は出来ません。
『石山○区』というのは旧地名ですが、あくまで俗称であって、正式な行政区分ではありません。

では、どうやって調べるのかといえば、名前の残っている町内会から調べてゆくのです。
石山二区町内会、石山三区町内会など、区制の名残は今は町内会にだけ残っています。
とはいえ、町内会も統廃合や名称変更がありますから、そこはちまちまと家系図を追うように、データを抽出した上でマッピングをしたのが、この地図です。

具体的な施設や道路を挙げるとこのような区分になります。
 石山一区…藻南公園、啓北商業高校
 石山二区…石山郵便局、旧定山渓鉄道石切山駅
 石山三区…石山小学校、石山消防局
 石山四区…国道453号線『真駒内通』の東側、現在の『石山東』
 石山五区…石山南小学校、石山中学校
 石山六区…市道『石山穴の沢線』の東西に渡る広大な地域
 石山七区…現在の石山3条5丁目、石山3条6丁目
 石山八区…石山開拓神社、介護施設『静山荘』『和幸園』

こうしてみると、現在の石山の住宅街は石山五区が中心となっていて、旧定山渓鉄道の頃の中心地、石山一区と石山二区は若干なりを潜めています。
・・・こうなったのは国道230号線『石山通』のルートによる処が大きいのでしょう。

恐らく大きな誤りはありませんが、他で分かりやすい地図などがあったら教えて下さい。

市内中心部であればまだ資料が出てくるのですが、郊外の古い地名や俗称については、なかなか洗い出しが難しく、石山の区制について取り上げている資料など、簡単には見つけられません。

今後もインターネットに上がらないマイナーな郷土史を編纂してゆければと思います。

調7 北ノ沢静涼苑地区

当記事は2014年05月22日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:調7『北ノ沢静涼苑地区』です。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

バス停はじょうてつバス『静涼苑団地前』
『静涼苑』というのが何の事なのか、ハッキリとした根拠資料は見つかっていないのですが、
どうやらマンションやアパートの建物名のような、分譲時のネーミングのようですね。

『五輪通』がほど近く、地図上の配置としてはそんなに不便な印象はありませんが、
何せ山の中ですから、自動車がないとニッチもサッチも行きません。

『北の沢小学校』へは徒歩15分程度、『藻岩中学校』40~50分かかってしまうようです。

中学からはバス通学でしょうか。子供たちは友達と遊ぶのも一苦労ですね。

本当に静かな住宅街という風で、立地以外にはあまり特徴という特徴がありません。
南区、西区、清田区といった札幌の西方面では珍しくありませんが、若干の傾斜地になっています。
傾斜地としては『調5 真駒内駒岡団地』や『調15 石山六区地区』ほどのインパクトはありません。

建物を合法的に建築出来る土地としては、メチャクチャ安いです。

これまで、不動産の価格については抽象的な事ばかりで具体的には書いてきませんでした。
経済情勢によって毎年毎年変わるものですし、『相場』としてウェブ上に載せるのは、土地所有者にとって色々な不利益が発生する可能性が高いため、あえてそうしてきました。
しかし、公的に発表されているものについてはインターネット上でいくらでも見れる訳ですから、『土地総合情報システム – 国土交通省』の鑑定評価を引用してみましょう。
http://www.land.mlit.go.jp/landPrice_/pdf/2013/01/2013011060036.pdf

同一需給圏は南区の市街化調整区域のうち、第三者による住宅の再建築が可能な戸建住宅地域である。
需要者は札幌市の居住者が大半を占めており、同一需給圏外からの転入者はほとんど見られない。
札幌市の住宅地は居住の都心回帰傾向が鮮明であり、交通接近条件が劣る当該地域の宅地需要は脆弱である。
土地取引は少なく、需要の中心となる価格帯は見いだせない状況である。

う~ん、手厳しい。平成25年は坪3万円台での鑑定となっています。
坪3万円というと、平地かつ地区計画のない普通の市街化調整区域と同等のイメージですね。
とにかく安く土地が欲しい!とか、西区・南区・中央区を頻繁に行き来する、という方ならば、良いかもしれませんね。
西区へは、盤渓を経由して福井・平和方面へ出て、西野へ抜ける事が出来ます。

地区計画の目標は以下の通り。

 当地区は、都心部より南西約7㎞の市街化調整区域に位置し、
 昭和40年代に道の位置の指定を受けた道路によって構成される一団の地区であり、
 現在、比較的良好な住宅市街地を形成している。
 そこで、本計画では、地区の特性に応じた土地利用と建築物等に関するルールを定め、
 現在の良好な住環境の維持増進を図ることを目標とする。

既存宅地制度の代替としての『建物が建てられる市街化調整区域』です。
実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

計画書 ・ 計画図 ・ 解説書

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決定:平成11年6月23日 変更:平成18年3月31日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。