胆振東部地震から1年、里塚の大規模被害は『液状化』が原因ではなかった?!

厚真を中心として甚大な被害を生じた北海道胆振東部地震の発生から今日で丁度1年となります。
札幌市における胆振東部地震での被害は、完全復旧までに二日を要した大規模停電と『液状化』被害であったと言われています。
液状化被害については、特に里塚1~2条や東豊線直上の東15丁目通の一部地域が甚大な被害が生じました。

しかし、今になってこれがいわゆる『液状化』による被害ではない可能性が出てきたのです。

シリーズ『胆振東部地震』

 ◇胆振東部地震で被災した札幌市内の不動産の流通について
 ◇清田区里塚で生じた大きな液状化被害と『防災カルト』の蠱惑
 ◇『液状化、里塚』の現実を見よう、夢想は不要だ
 ◇デマで市域の5.3%を貶めた札幌市民の敵、池上彰氏をどうしてくれようか。
 ◇胆振東部地震から9ヶ月、『液状化、里塚』はどうなった?

地震当時の報道



土砂崩れによって山肌が露わになった厚真地区の山林とともに、里塚で土砂が噴出し、1~2mの高さの汚泥で道路が埋め尽くされ、多数の建物が傾斜した光景は非常なショッキングなものとして報道されました。

更に池上彰の特番では、全国ネットでその原因が『清田区』が水田であったことによる『液状化』であると大々的に報じられました。

まぁ、これはひどいデマだった訳ですが、その辺りの事情は『デマで市域の5.3%を貶めた札幌市民の敵、池上彰氏をどうしてくれようか。』で言及しました。
Google検索で『池上彰 デマ』で検索をすると1年経ってもこの記事が表示される平均検索順位は10.2位との事です。

私の指摘

インターネット上では、地震から数日で『この地震はハザードマップで予知されていた』とか池上彰の番組に影響されたのか『この地帯は水田地帯だったので液状化した』という言説が散見されました。
確かに、この地域の一部は札幌市のハザードマップで『液状化の可能性が高い』と判定されていますが、一方で他に幾らでも赤いエリアはあるのに、他では深刻な液状化被害は生じていない事が説明出来ません。

また、水田であったから液状化した、という点については、池上彰の特番の他に戦前から戦後にかけての地形図で水田の地図記号が並んでいたことに端を発していたようです。

しかしながら、航空写真を見るに一定規模以上の営農が行なわれていたようには見えません。
傾斜地で出来る間に合わせの農業として、わずかに棚田があっただけのように見えます。

また、被害甚大な部分が三里川暗渠に沿っていたことから原因として浮上してきたのが、暗渠が液状化の原因であるというもの。

 
しかし、 同様の暗渠は近隣の『三里東排水』『里塚西排水』など多数あるのに、そちらでは『三里川』ほど大きな被害は出ていません。

つまり、胆振東部地震では、三里川暗渠の流域に集中的な被害が生じた事からも、三里川暗渠に何らかの個別的な問題が生じたのではないか。

あくまで個人的見解ではありますが、その『個別的な問題』とは、老朽化による決壊だったのではないか?と推察し、札幌オリンピックから50年を経過する札幌市では問題となっているインフラの老朽化について指摘しました。

札幌市の発表

しかしながら、札幌市の発表では、この被害をあくまでも単なる液状化として取り扱っています。
以下は札幌市ホームページで公表されている里塚の住民説明会の資料を抜粋したものです。

液状化した土砂が三里川排水に流入して土砂が流出し、地中が空洞化したという説明で、なぜ局地的な被害が生じたのか、という説明はなされていないように思います。

暗渠の排水が漏れ出していたのが原因?

今年6月に、この被害について新たな原因を示す記事が掲載されました。
あまり取り上げられていない記事ですが、重要な知見と考えます。
令和元年6月2日の北海道新聞の記事を引用します。(朱筆は私によるものです。)

土砂流出、空洞が原因か 里塚液状化 現地調査の教授報告
昨年9月の胆振東部地震による液状化で、地盤被害などが出た札幌市清田区里塚1で、地下水を集めて下流に流す地下排水溝(暗きょ)の上に地震前から空洞があり、この空洞が大規模な土砂流出を起こした可能性のあることが1日、札幌市内で開かれた「欠陥住宅被害全国連絡協議会」全国大会で報告された。調査に当たった国士舘大の橋本隆雄教授(防災工学)は「全国的にも例が少ない現象」と話した。

 協議会は地震被害などに取り組む全国の弁護士や建築士らでつくる。

 橋本教授は地震直後から土木学会のメンバーとして現地調査を重ね、開発事業に伴う地盤被害を防ぐ「宅地防災マニュアル」ができる1989年以前は、地下排水溝同士の接続方法が簡易だったと説明。「地震前から地下排水溝の水が漏れ、地中の空洞に多くの水が滞留し、その水を含んだ土砂が地震によって大量に流動した」と取材に対し指摘した。その証拠として、一般的な液状化で見られる「噴砂」が里塚では少なく、土砂が地中で水平方向に動いたと分析した。

 札幌市によると、液状化の地盤沈下被害があった里塚1の地下排水溝は78~84年に宅地造成した民間業者が市の許可を得て設置。市の推計では地震後約1時間で約1万立方メートルの土砂が流出した。これまで市は液状化による大量の土砂流出は、地下水位より下の盛り土部分の軟弱地盤が地震で液状化し、緩い傾斜地に沿って土砂が帯状に流動したと分析している。(久保吉史)

以上が引用です。

ごく簡単に説明をすると三里川暗渠では排水溝同士の接続が簡易であり、その隙間に水が入り込み、土砂を流出させて地下に空洞を生じさせていたものが、台風と地震のダブルパンチで急激に悪化したということです。
つまり、暗渠に個別的な問題・欠陥が生じていたのではないか、という私の推測を補強するものと考えます。

河川の維持管理は札幌市の責任、と責任転嫁するのは簡単ですが

三里川暗渠は札幌市河川管理課が管理する河川です。
しかし、この災害の責任を札幌市に求める考え方には賛同出来かねます。

そもそも、昭和54年に札幌市から許認可を得て三里川暗渠を設置したのは株式会社じょうてつであって、その施工の仕様について、札幌市が管理するのは困難であったでしょう。
竣工から40年が経って老朽化している部分もあるでしょうから、株式会社じょうてつに責任を求めるのも、筋違いと感じます。

では何が出来たのか、と考えたときに、札幌市に瑕疵があったと言えるのか、ということです。
例えば、基準が甘かった1989年以前の暗渠すべてを点検・補修することが出来たのでしょうか。
上記の河川網図でも分かる通り、実は暗渠というものはかなり多く存在しています。
自治体は限られた予算の中で運営していますから、その分他の予算が割を食ってしまいます。
仮に点検の結果、補修の必要が出たとして、約2m四方のコンクリートで出来た暗渠を補修するのに、地面を掘り返すのですから、自動車の通行は一定期間不可能になりますし、公共工事費も多額に上るでしょう。

これは不幸な河川災害ではありますが、それ以上でもそれ以下でもない、というのが私の考えです。
例えば堤防が決壊したであるとか、津波に襲われたという時に、国や自治体に明らかな不備がない状態なのに、恨み言を言い続けるというのは、怒りの宛所がないのは理解出来ますがちょっとどうなのかな、と言わざるを得ません。

自然災害の被害者に対して『仕方ない』で片付けるのは非情ですが、だからといって被害者が国や自治体に何を言ってもいいという話にはならないと思うのです。

ニュースソースとさせてもらって恐縮ですが、北海道新聞の報道姿勢にも、疑問を感じています。

この災害が、次の災害を生まない教訓になることを願います。

胆振東部地震から9ヶ月、『液状化、里塚』はどうなった?

シリーズ『胆振東部地震』
 ◇胆振東部地震で被災した札幌市内の不動産の流通について
 ◇清田区里塚で生じた大きな液状化被害と『防災カルト』の蠱惑
 ◇『液状化、里塚』の現実を見よう、夢想は不要だ
 ◇デマで市域の5.3%を貶めた札幌市民の敵、池上彰氏をどうしてくれようか。

『液状化、里塚』から9ヶ月

平成30年9月6日、北海道全土を大停電に巻き込んだ『胆振東部地震』から、9ヶ月が経過します。
『震災』というのは言葉の定義があるので、私は使いたくないのですが、札幌では簡単に『地震災害』の略として『震災』と使っている方が多いですね。
厚真を中心とした土砂崩れの被害は本当に痛々しいものがありましたが、実は札幌市周辺の被害は全然大したことがない、と当時からあえて言っていました。
震源地を除く北海道全土の問題は、2日に渡る大停電であって、かつて起こった平成のどんな大きな地震でもこのようなことはありませんでした。
これは北海道という島は本州よりも電力の相互的融通が出来ないという事情にもよるそうですが、それ以前の問題として北海道電力の危機管理の問題であると考えています。

そんな中で、札幌市内で甚大な被害が生じたのが札幌市清田区里塚1条1~2丁目での液状化現象です。

池上彰氏のデマ報道もひどいもので、『池上彰 デマ』の検索結果では当ブログもかなり高い位置にいるような状況です。

車まで埋まる汚泥と建物の大きな傾斜はかなりのショックを与えました。
札幌市民としては、里塚の液状化と東豊線の地盤沈下によって、地盤の良し悪しや不動産価値が話題となりました。

雪解け以降は、三里川暗渠や里塚東排水などの上流でも液状化が確認されたとの報道があります。

報道されない里塚のその後と住民の自警活動

しかしながら、その後の状況については、9ヶ月を経過しても詳しいことは全く分からないままです。
基本的にテレビを見ない人なので、北海道ローカル局での扱いはよくわかりませんが、インターネットで『里塚 液状化』と検索をしても昨年9月当時の報道しか表示されないのを鑑みるに、その後の報道はほとんどされていないようです。

北海道新聞の電子版を見るに年が明けてからも何度か記事が出ていますが、現地の写真などは見られません。
詳細な報道と言えばUHBの特集番組『傾き続ける我が家 ~がんばるべぇさとづか~』程度でしょうか。

以前紹介した通り、元々、地震発生当時から、旧国道36号線を除く液状化発生箇所には非常線が張られ、立入禁止になっていました。

SNSなどでは、立入禁止区域に入り込んで現地の写真を撮影する人や、災害時に多く見られる火事場泥棒などが問題視されていました。
それだけではなく、放火やいたずらなどの恐れがありますし、悪気がなくとも地盤の陥没などで怪我をしてしまう可能性もあります。

その為、被災時から平成31年3月7日までの間、通行規制が行われていました。
これはやむを得ない・・・というか当然の措置であったと考えています。

また、防犯の為、平成30年12月13日から4台のカメラが設置されました。

北海道文化放送(HBC)の報道によると防犯カメラは令和元年5月28日に8台が増設されたそうです。
「知らない人に自分の家が撮られて…(SNSに上げられたと)実際に聞いたこともありますから。残念というか、さみしくなりますよね」(里塚中央災害復興委員会・今北秀樹さん)
『液状化とは“別の悩み”…防犯カメラ8台増設 地震で被害の札幌市清田区里塚地区 北海道』https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190528-00000011-hbcv-hokより引用

封鎖が解除された里塚1条2丁目に立ち入る

公的な交通規制が敷かれている中で立入禁止区域に立ち入ることは言語道断です。
また、住居の敷地に許可なく立ち入ることは住居侵入罪にあたります。

しかしながら、前述の通り今年3月に交通規制は既に解除されている中で、住居の敷地に立ち入らないのであればそれは合法な行為です。
被災地の状況がその後どうなったのか、という事が調べてもほとんど分からないような現状は、健全であるとは思えません。

不動産流通の健全性を担保する為には、少なくとも下記の3つが明確化されていなければならないと考えます。
 ①どのような原因で現象が生じたか
 ②どのような被害があったのか
 ③それらの被害はどのように対策されて復興したのか

①原因については当時推察をしたのに加え、後日別途記事を用意します。
③対策についても、札幌市の住民説明会資料を中心に後日別途記事を用意します。

今回は②被害について、その状況を紹介してゆきます。

地震の当時、大量の汚泥にまみれた様子が報道された旧国道36号線沿いは、ほとんど回復しています。
ただ、泥が噴出した痕跡や歩道の縁石のズレなどは生じています。

ここから、液状化の原因となった『三里川暗渠』沿いの住宅地に入ってゆきましょう。
各所に道路の陥没が見られ、それが土嚢で応急処置されています。



ブロック塀や擁壁ごと沈み込んでいる
箇所が多く見られます。
更には、擁壁ごと崩壊している宅地も多数あり、重力で支えた地盤が地中から空洞化してしまった場合の危うさを思い知らされます。

併せて、復旧した地盤と宅地との間の高低差が1m程にもなっている箇所も複数あります。

公園は、道路や民有宅地内とは異なった復旧方法を採って水はけを良くして水を溜め込む雨水調整池のような用途とするようで、現在、砂利敷きを行なっています。

住民による自警活動の是非

前述の通り、交通規制は解除されていますが、現在も警備の為に『里塚中央ぽぷら公園』には札幌市の現地事務所の脇に警察車両が停まっています。

警察による警備以上に、町内会の有志による自警活動が盛んなようです。
各種の報道でも防犯の為に町内会の自警活動を行っている事が触れられていますし、前述の通り、町内会の負担で監視カメラを増設しているようです。

私も、現地を歩いていた処、遠くから大声で『オイ、アンタ』と高齢の男性に呼び止められました。

男性:『あんた、なにもんだ?』
私:『不動産業者の者です。』
男性:『何しに来たの』
私:『地震後の周辺状況を確認しに来ました。将来このエリアの土地を取り扱うこともありますので。』
男性:『どこの会社の人?』
私:『株式会社○○○○○○○○の細井と申します』
男性:『身分証明書出して』
私:『え?』
男性:『身分証ないの?』
私:『いや、いきなり一方的に身分証を見せろと言われてもアンフェアな気がするんですが・・・』
男性:『(町内会の腕章を見せて)私ね、ここの町内会の○○ってもんです』
私:『(ポケットに何も入っていないジェスチャーをして)すみません、今、身分証持ち歩いていませんで

(これは嘘ではなくスマホ以外は手ブラで行動しており、本当に持ち歩いていませんでした。)
男性:『この辺、物騒だからね、警察も毎日来てるし、アンタも気を付けなよ
私:『はぁ・・・』

別に手荷物検査を受けたとか身分証の提示を強制されたという訳ではないですし、身体的拘束を受けたという訳ではありませんから、これはギリギリ通常のコミュニケーションの範疇と考えます。
ただ、かなりピリピリとしていた様子で、攻撃的な対応であったことは間違いなありません。
いや、まぁ、私自身、不審者扱いされるのは致し方ないとは思うのですが、こういった自警活動がどこまで正当化されるのか、という疑問は正直あります。

勿論、前述の通り、火事場泥棒や放火、住居侵入などの犯罪の恐れがある以上、それを防ぐ目的で警察でカバー出来ない部分を自警活動で補おうというのは、至極当然の事です。

しかしながら、これだけ大きな被害があったエリアの被害状況がほとんど表に出てこないというのは、異常でしょう。
過去の十勝沖地震の際には、同じ清田区の美しが丘地区で液状化被害が発生しましたが、その際には『大ごとにしないでほしい』との住民からの要望があったという報道があります。

また、今回の里塚地区でも、住民からの札幌市や分譲業者への厳しい責任追及がある一方で、現地への立入りや報道の拒否があるそうです。

里塚で何が起こったのかが覆い隠されたままでいいのでしょうか?
果たして、このまま里塚の被害状況が覆い隠されたままでいいのでしょうか?
 

仮に、将来このエリアの土地を買おうという人がいた場合に、どのような被害があったのか、そしてどのような対策がされたのかという事が明確化されていなければ、安心して購入することは出来ないでしょう。

一方で、広く清田区の土地を購入したいという人がいたとして、どのエリアでどのような被害が生じたのかが明確化されていなければ、清田区の土地を買おうという気が起こらず清田区全体の不動産価値が下落してしまいます。

この町内の人々はご自身の所有する土地を将来売りに出そうという時に、こういった事実を覆い隠したまま売却しようというのでしょうか。

私は、池上彰氏がいい加減な情報で清田区全体の財産価値を棄損した際、それをこのブログで糾弾しました。

今回の記事では法令を遵守したほか、極力建物本体が写り込んでいない写真を選んで掲載していましたが、恐らくはこのような記事も自警活動を行っている町内会の方にとっては不愉快な存在であろうかと思います。

ただ、事実を明確化して社会として共有することが、里塚1条2丁目の方にとっても、それ以外の里塚や清田区の方にとっても、これから不動産を購入しようという方にとっても、仲介をする不動産業者にとっても・・・それが結果的に公益に資すると信じ、この記事を公開する次第です。

シリーズ『東雁来』⑤ 東雁来の歴史 ~戦後から平成まで~


さて、前回は明治から戦前までの雁来村・・・現在の東雁来の歴史を紹介しました。
戦前までの雁来村は牧畜が盛んな農村でしたが、それが平成最後の区画整理地、そして札幌市が自ら大規模に分譲するおそらく最後の住宅地である『ウェルピアひかりの』となるのか、紹介してゆきましょう。

前回までは終戦時点の牧草地帯であった雁来村を紹介しました。
明治23年頃として郷土史に記される雁来村の写真は、砂利舗装がされ、半円筒型の倉庫が立ち並んでいます。
また、左手前の倉庫には牧草の山と思われるものが積みあがっています。

前回も紹介した昭和27年の地形図ではこの通り、雁来村は一帯が牧草地帯になっています。
この後、昭和30年には雁来村が所属する札幌が札幌へ編入されます。
さらにその後に豊平町や手稲町が編入されて現在の札幌市域になります。

そして昭和34年には戦前から棚ざらしになってしまっていた鉄骨トラス橋の『雁来橋』が完成します。

明治からの計画であった鉄橋による雁来橋がようやく完成したという事です。

戦後の雁来村・・・改め、雁来では東区の他の地域に遅れ、ようやくタマネギの生産が広まりました。
昭和30年代の札幌では農地解放の影響もあり、宅地の造成分譲が進んでゆきますが、雁来ではとりあえずそういった兆候は見られません。

昭和40年代には、『ライラック団地』が造成されます。
これは現在の東雁来9~10条4丁目にあたるエリアです。
形状から、農地解放によって土地の払い下げを受けた元小作人の地主による開発だと思われますが、郷土史やインターネットでもその記録は見つけることは出来ません。(このサイトが表示されてしまいます。)
区画整理によって、現在は公園や町内会の名前に名残を残すのみです。

昭和50年代には、東雁来地区に再び大きな波が訪れます。
昭和50年従来は豊平川沿いを通っていた国道275号線を現在のルートへ変更する『雁来バイパス』が着工します。
それに伴って、昭和55年に国道275号線のルートの一部でもある『雁来橋』が完成します。

昭和58年には『東雁来地区区画整理事業』が着工します。
これは赤枠で囲まれた区画『ウェルピアひかりの』である『第二地区』ではなく、左下の赤枠の欠けた部分、東雁来6~8条1丁目と東雁来8条3丁目のごく狭いエリアで行われたものです。

昭和50年代の航空写真を見ると、まだまだ畑が多くなっていることが分かりますね。
戦前はほぼすべてが『草地』でしたが、航空写真からは北側が牧草地、南側が畑になっているように見えますね。
また、ライラック団地以外には、旧・国道275号線に沿って人家がぽつぽつと建っています。

昭和60年には雁来村から『東雁来』へ町名変更、ただし、条丁目が付いた部分と付かない部分がありました。
平成元年には東雁来地区区画整理事業の換地が完了します。
6年程度で完了する規模という事で上記の航空写真でも家がみっちりと立ち並んでいます。

平成3年には、一帯が都市計画の見直しに伴い市街化調整区域から市街化区域に編入され、住宅街として、より開拓のしやすい下地が作られてゆきます。
平成8年には『東雁来第二地区土地区画整理事業』が開始します。

事業の開始時点でかなりの畑が所在していたものが、土地区画整理事業によって農地が減少してゆきます。
元々の地権者から札幌市が土地を収用し、道路や公園を設けて住宅地を造成する作業が始まってゆきます。
そして、事業の開始から7年を経た平成15年度から『ウェルピアひかりの』として保留地分譲が始まります。
名前の由来はがしかりき』から、との事ですが、このネーミングセンスは・・・

平成15年に始まった『ウェルピアひかりの』の住宅分譲はその後14年に渡って少しずつエリアを拡大して分譲がされました。
一気に販売をするという手法では、将来、同時期に一気に高齢化・過疎化が進むということから、その対策という意味もあったのでしょう。
(まぁ、事業費の関係というのも大きなところですが。)

分譲から少し年数が経った南側のエリアですね。

公園もよく整備されており、広々とした街並みになっています。

この航空写真は平成20年前後のものと思われますが、まだ現在ほど開拓が進んでいません。
ここから更に、次から次へと宅地の造成分譲がされてゆきます。
札幌市による保留地の分譲の他、元々の地主さんによる仮換地の売却や、仮換地の上にアパートやテラスハウスを建築する、という動きも活発になります。

ウェルピアひかりのひかりのはバブル崩壊後に始まった土地区画整理事業であり、失われた20年とも言われる情勢下で分譲されましたが、終盤の開発には追い風が吹いたように思います。

国道275号線の両側にはDCMホーマック東雁来店を始め、スーパーや100円均一などの他、マクドナルドやゆで太郎など飲食店等、住民の生活に直結施設が充実してゆきます。
また、南側から国道275号線にかけて、工業地として数々の倉庫・物流センターが開業します。
そういった『働く場所』が出来ることで地域内で経済が循環し、住民のサイクルが形成されることで街が長寿命化する、という狙いもあるのでしょう。

さて、平成26年には消費税8%への増税があるということで、住宅やアパートなどの建築の駆け込み需要がありました。
平成27年には相続税増税によって、地主さんが土地を更地のまま所有しているリスクが高まり、貸家建築がブームとなりました。

平成29年には日本郵政の一大物流拠点『道央札幌郵便局』が開業します。
『郵便局』とは言いますが、窓口やATMは設置されていないロジスティクスセンターです。

そのような経緯を経て、平成30年1月には『東雁来第二地区土地区画整理事業』の換地が指定され、これまで『仮換地』であったものが、正式な土地として確定されました。
これを区画整理事業の用語で『換地処分』と言います。
実際に換地処分をされた1月は年が明けていますが平成29年度内なので、記録上は『平成29年度事業完了』とされています。

東雁来の現在の姿は、国土地理院の航空写真ではまだ開拓途上のものですが、Yahoo地図では、もう少し開発が進んだ状態が見て取れます。


東雁来地区には、まだ元々の地主さんが所有している畑や、換地処分を受けたものの、遠隔地におり手付かずの宅地が数多く残されています。

土地区画整理事業が完了した事で、不動産業者やハウスメーカーも、こぞって東雁来エリアの土地所有者の方に、売却やアパート建築の営業をかけているようです。

そういった意味で、これからもまだ伸び代のある地域であると考えてはいますが、一方で、過去にあった少子高齢化による住宅団地の空疎化と同じ轍を踏んではなりません。
今後も、『東雁来』『ウェルピアひかりの』の動きを注視してゆきます。

◆シリーズ『東雁来』関連記事

◇ シリーズ『東雁来』① 札幌市が分譲する『ウェルピアひかりの』ってどうなの?
◇ シリーズ『東雁来』② 『ウェルピアひかりの』ではどのような販促がされていたか
◇ シリーズ『東雁来』③ 東雁来『ウェルピアひかりの』の仮換地を売りたい人はどうすればいいの?
◇ シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~
◇ シリーズ『東雁来』⑤ 東雁来の歴史 ~戦後から平成まで~

シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~


さて、昨年ようやく札幌市による土地区画整理事業が完了した『東雁来』エリア、通称『ウェルピアひかりの』について何度か紹介してきました。 
このエリアが土地区画整理がされる以前、明治からどのような経緯を経てきたのかについて改めて紹介したいと思います。

今回は『東雁来』全体ではなくそのうちの一部、『ウェルピアひかりの』の範囲を地図で赤く囲み、比較してゆきますが、歴史の記述については概ね東雁来全域の歴史であるとご理解頂ければと思います。

東雁来地区の以前の名称は雁来村と言いますが、ここに最初に入植をした人々は、明治6年対雁村があまりに不便なので開拓地を替えて欲しい、と開拓使に要望をした人々でした。
彼らは明治4年に陸前国遠田郡馬場村(現在の宮城県遠田郡涌谷町)から入植した人々の一部です。
当初は同じく対雁村と呼んでいたそうですが、開拓使から紛らわしいので『雁来村』と改称するようにと命令が下りました。

そうして手に入れた代替の土地でしたが、豊平川は当時から氾濫を繰り返しており、土質も泥炭地(現在も札幌市の北側はほとんどがそうなのですが)で水はけが悪く、農業を営むには難しい土地でありました。
その為、当初対雁村から移ってきた人々は徐々に雁来村を離れ、最終的に残った人はほとんどいなかったという事です。

豊平川の氾濫や泥炭地質は他の札幌市北部の地域でも営農の支障となり、離散する開拓地が多かったようです。
寒冷地では細菌の働きが弱く、枯れた植物が十分に分解されずに冬になるという事を繰り返して土は泥炭となり、その泥炭はべたべたと粘土のように水を含みます。

国防と富国強兵のために北海道を開拓したい国としては、開拓民が離散することは避けねばなりません。
明治18~19年、北海道庁が樺戸へ向かう道路、現在の国道275号線を整備し、併せて明治19年には豊平川の雁来村付近にも築堤が出来、豊平川の氾濫が緩和されました。

明治28年には札幌監獄の囚人の労役として、雁来付近に堤防が築造されます。

こうして明治20年代になって若干堤防のようになって安定してきたため、雁来村には富山県や福井県などから入植した人々が定住するようになったとのことです。


こちらは明治29年に大日本帝国陸地測量部が発行した地形図に彩色をしたものです。
国道は現在よりも川寄りのルートを通っており、豊平川も蛇行しています。
また、地図左下の三角点通はまだ途中で止まっています。

また、地図の右上・北東側にはがこの付近に明治の早いうちから『牧場の茶屋』と呼ばれる場所があり、ここに売店や休憩所があったそうで、立ち寄った人々は必ず立ち寄っていたそうです。
今でいうところのパーキングエリアや道の駅ですね。
この後の時代、大正の地形図にも『牧場』と記載されていますが、ぼくじょうではなく、マキバと読むそうです。

この頃の産業というと主に農業ですが特にこの地域では燕麦が生産されていました。
札幌市東区といえば現在もタマネギが有名ですが、この頃の雁来村ではまだ生産されていなかったようです。
また、毎年秋にはサケが遡上しており、サケやマスを漁獲することもあったようです。

明治35年には雁来村が札幌村に統合され、札幌村字雁来村という町名になりました。(本文では継続して雁来村と呼称します。)
札幌の歴史に詳しくない方の為に解説しますと、ここで言う『札幌』は現在の札幌市東区にあたるエリアで、現在の中央区にあたる中心街のエリアは『札幌』といいます。

同じく明治35年には、雁来村で乳牛の飼育が始まり、雁来村ではその後酪農が盛んになってゆきます。
併せて、この周辺の農作物として牧草の生産が始まります。

雁来村では他にジャガイモデントコーンが生産されていました。
デントコーンとは、主にデンプンの利用や飼料としての利用を中心として生産されるトウモロコシです。
いわゆるトウモロコシとして食用されるものはスイートコーンと呼びます。

この頃の雁来村の農家さんは川を挟んで東側である現在の札幌市白石区米里や江別市に畑を持っていた方が多く、豊平川を渡るために、渡し船を持っている方が何人もいたようです。
豊平川に架かる最寄りの橋と言えば白石本通(現在の国道12号線)に架かる東橋であって、雁来村から直線距離で最低でも2kmありますから、普段使いをするわけにはゆきませんでした。(目的地が逆方向の為、単純計算で倍の4km移動距離が増える訳です。)

その為、当時から橋を架けたいという計画があったようで、北海道開発局は明治43年頃の設計図面を公開しています。
実際に建築が始まるのは明治、大正を経て昭和になってからです。


こちらが大正15年、大日本帝国陸地測量図発行の地図です。
『雁来』のほかで分かる事として『三角』として三角点通りが開通していること、画像中央右側の『場』という文字は『牧場』の一部であることなどがあります。
画像左下には『大谷地原野』の文字、大谷地と言えば現在、札幌市厚別区の中心地の地名ですが、場所としてまったく離れています。
元々『大谷地原野』現在の白石区米里、東米里、北郷、川北、川下などを含む一帯で、雁来を超える泥炭地・軟弱地盤地でしばらく開拓が進みませんでした。
元々『厚別』も札幌市南区の奥地を指す呼称ですから、札幌の歴史においては元々の地名と現在の地名の位置がズレでしまっている事が多いのです。

画像の中央左側の『興農園』は、北海道最初のデパート『五番館』の創業者、札幌農学校出身の小川二郎氏の会社で、種苗や農機具の販売を行なっていました。
店舗は中心部にあり、この場所では牧草の生産をしていました。
記録にはありませんがもしかしたら、出張所のような形で種苗や農機具も販売していたかもしれませんね。

さて、堤防が築造されたことによってマシになったとはいえ、その後も依然、豊平川は度々氾濫していました。
ネタバレをしてしまうと豊平川は昭和56年になるまで氾濫を繰り返していたのですが、豊平川の治水というのはそれほどに困難な課題であったと言えるでしょう。

北海道開発局によると昭和7~16年、郷土史によると昭和8~19年にかけて、豊平川の河川の付け替え=ルート変更が行われます。

川が氾濫は水の流れが激しくなり、川の各部分での水量が一定ではなく、主にカーブ部分から水が溢れてしまうことで起こります。
ですから、川の深さを一定にしてカーブを直線化する、という大工事が行われます。
第二次世界大戦中をも通して行われた大工事で、戦時下でも実行するほどまでに非常に重要な意味を持っていたと言えるでしょう。

併せて明治43年から計画のあった『雁来橋』の計画も30年近くを経てようやく動き出します。
前掲の設計図に従って鉄骨トラス橋の建築が昭和13年に開始されます。
しかしながら、大東亜戦争の勃発から鉄材が不足し、橋脚(ピア、ピーア、ピアー等と言います)を設置した段階で工事は頓挫してしまいます。

やむを得ず、昭和15年には『雁来橋』として木造の橋が設置されます。

このようにして戦時中にも関わらず、豊平川の整備が進んでいきます。
そして、昭和9年には雁来村のうち、国鉄の鉄道を超えた東橋周辺(現在の札幌市中央区の東12~20丁目付近)が札幌市に編入されます。

そして昭和20年には終戦を迎えます。
上は戦後昭和27年発行の内務省地理調査所の地形図です。
地図に記載の『雁来橋』は木造のものですが、白石区と結ばれました。
雁来村一帯には牧草地が広がっているように見えます。
逆に、燕麦やジャガイモ、デントコーンなども生産されているはずなのですが、地図記号は『畑』ではなく『草地』となっています。
また、酪農では乳牛だけではなく羊も育てていたようです。

どちらにせよ、戦後の時点で純粋な農村であった東雁来村は、どのようにして札幌で平成最後の区画整理事業地『ウェルピアひかりの』となったのでしょうか?
次回の記事では戦後から平成に至る歴史を紹介してゆきましょう。

◆シリーズ『東雁来』関連記事

◇ シリーズ『東雁来』① 札幌市が分譲する『ウェルピアひかりの』ってどうなの?
◇ シリーズ『東雁来』② 『ウェルピアひかりの』ではどのような販促がされていたか
◇ シリーズ『東雁来』③ 東雁来『ウェルピアひかりの』の仮換地を売りたい人はどうすればいいの?
◇ シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~
◇ シリーズ『東雁来』⑤ 東雁来の歴史 ~戦後から平成まで~

シリーズ『東雁来』③ 東雁来『ウェルピアひかりの』の仮換地を売りたい人はどうすればいいの?


当記事は平成28年5月9日の記事を一部改訂の上、再録したものです。
現在、ウェルピアひかりのの札幌市による保留地分譲は完了しており、民間で流通しています。
札幌市の分譲当時の状況を示す資料として、本記事を公開します。

さて、今回取り上げるのは東雁来『ウェルピアひかりの』です。

『ウェルピアひかりの』は、明日、平成28年5月10日から一週間に渡り公開抽選会が開始され、その後、公開抽選会で抽選とならなかった土地の先着順分譲受付が始まります。

既にゴールデンウィークには『ウェルピアひかりのゴールデンウィーク住宅祭』として、公開抽選会に先立ってプロモーションイベントが開催されました。

札幌の不動産市況は在庫の枯渇から、停滞ムードが漂いつつあるようですが、ありがたい事に私の身辺では新規の案件も安定的に依頼頂いており、長方形の更地から超難易度の無道路地や欠陥だらけの建物まで、バリエーションに富んだ仕事をさせてもらっており、楽しく過ごしております。

ただ、中古マンションの一般流通は在庫不足から下火になってしまっており、また、アパート・マンションなどの収益用・投資用の不動産に関しても、あまりに高値となってしまって売主側・買主側の双方とも身動きが取りづらい、というのが正直な処です。

そんなこんなで忙しくしており、ブログの更新もままならない状況ですが、『ウェルピアひかりの』に関しては毎年恒例の記事ですから、今年も書きましょう。

『ウェルピアひかりの』は、札幌市が唯一分譲しているニュータウンであり、
札幌市の戸建分野では今最も注目度の高い地区です。

平成26年から紹介してきた地区ですが、この地区の『土地区画整理事業』の完了予定は、平成29年度ですから、あと丸2年しかないという事になります。ちょっと寂しいですね。
(平成30年度~平成35年度は『清算期間』といい、いわば後処理の期間になります。)

さて、ここで『土地区画整理事業』という言葉について簡単に紹介しましょう。
『土地区画整理事業』とは『土地区画整理法』に基づいて行われる事業で、ざっと言えば、キタナイ市街地をキレイにして価値の向上を目指す事業
もっと言えば、道路や公園の整備を含む区画整理をする事で、土地や道路を直線に整え、利便性や財産価値の向上を目指す事業です。

『土地を切り貼りして四角く整理する』とでも言いましょうか。
その『区画整理の施行者が切れ端を集めた土地』『保留地』と言い、『元の地主が持っていた土地を切って四角く整理した土地』『仮換地』と言います。

まー、これはあくまでイメージの話であって、『保留地』『仮換地』四角い更地である事に変わりはありませんし、『仮換地』と言っても、元の土地とは遠く離れた場所になる事も多々あります。

そして、ぶっちゃけた話、整理する前と後で、土地の面積は、当然に小さくなります。
そりゃーそうです、道を広くして、公園などの公共用地を確保する事が『区画整理』なのですから。
この、目減りする部分を『減歩(げんぶ)』と言い、目減りの割合を『減歩率』と言います。

『ウェルピアひかりの』では、なんとその目減りの割合…『減歩率』は、50.70%にもなります。
つまり、土地区画整理事業によって、土地の面積は半分以下になる、という事です。
別の側面から見れば、土地の面積単価が2倍以上になる、とも言えます。 
これは別に不適当な数値という訳ではなく、区画整理前の状況を見てみると納得の行く数値です。

『ウェルピアひかりの』全体のうち『保留地』となった土地の割合は20.18%、
道路や公園となった土地…『公共減歩』の割合は31.53%ですから、残り48.29%が『仮換地』…『元の地主が持っていた土地を切って四角く整理した土地』です。
(数値については札幌市公式サイトの最新年度のデータから引用しています。)

そして、札幌市が冒頭に紹介したようなプロモーションイベントを開催したり、
SUUMOに特設コーナーを設置したりして分譲している土地は、区画整理によって『区画整理の施行者(札幌市)が切れ端を集めた土地』である『保留地』なのです。

区画整理の施行者(札幌市)はこの『保留地』を売却することによって、区画整理の為に支出した費用を回収する、というのが土地区画整理法のメソッドです。

道路や公園となった『公共減歩』、札幌市(施行者)によって分譲される『保留地』
それでは『仮換地』はどうなっているのでしょうか?

『仮換地』は『元の地主が持っていた土地を切って四角く整理した土地』ですが、
元の地主というのはどのような人々なのでしょうか?

既に事業が開始して12年が経過している平成20年当時の航空写真を見ても、この地域に関してはさほど人口密度が高かった訳ではない、という事が分かります。

更に昭和50年頃の航空写真を見ると、殆どが農地であった事が分かるでしょう。

ですから、『仮換地』のうちの大部分は、当時から東雁来で農業を営んでいた方々が取得しました。
広大な畑の半分程度の面積とはいえ、かなり大きな宅地が『仮換地』となってでしょうが、土壌改良の為に土壌の入れ替えが行なわれたり、道路が整備されたりしていますから、農業を継続していくことは現実的ではありません。

ご自身の住居を大きめに建てたり、アパート経営を行なっている方が多いように見受けられます。
都市計画上、事務所や店舗、倉庫などはごく限られたエリアにしか建設する事が出来ませんから、更地にしておくと税金が高く付きますからアパート経営をしていく、というのが王道でしょう。

区画整理事業が始まる以前にこの地区に住んでいたのは、農家の方だけではありません。
航空写真を見るとさほど世帯数が多い訳ではありませんが、雁来川沿いに民家が立ち並んでいます。
また、昭和40年代には現在の東雁来9条~10条周辺『ライラック団地』が形成され、当時流行りだった中規模な宅地造成が行なわれていた事が分かります。
(ちなみに、現在も『ライラック町内会』や『ライラック公園』といった地名が残されています。)

こういった、一般的な規模の宅地にお住まいだった方々も、区画整理事業に伴って、相応の移転補償金を受け取り、自宅を明け渡し、『仮換地』を取得する事になります。

『仮換地』に戸建を新築する人もいたでしょうが、それなりに高齢化の進んだ地区ですから、『仮換地』を売却した資金を元手に、マンションや施設に移るという方も多かったのではないでしょうか。

そして、第三の『仮換地』の取得者として、『不在地主』がいます。
地元の農家の方の血縁者が相続で引き継いだ土地が『仮換地』になったケースもあれば、原野商法のような『将来値上がりするかも…』という投機的な目的で購入されたケースもあります。

特に後者に関しては、ライラック団地などが形成された昭和40~50年前後に、道路もなく地盤が軟弱で、建物が建つ見込みが薄いにも関わらず札幌市外に分譲されたような形跡があり、
『どうにもならない土地をつかまされてしまった』人が多くいたようです。

そういった『不在地主』の方々にとって、この土地区画整理事業はまさに福音と言えるでしょう。
建物が建築不能だった土地が、多少目減りしても、ニュータウンの四角い更地に生まれ変わるのですから。
『仮換地』であっても『保留地』と同様に売却する事は可能ですから、開発中のニュータウンとして注目度が高いうちに売却して換金してしまうのも賢い手段です。

ただし、『不在地主』の方が取得する『仮換地』を売却するにあたっては、いくつかハードルがあります。

1.売却を依頼する業者は自分で見つける必要がある。
これは不動産を売却するにあたって共通のハードルですが、信頼できる不動産業者を探す必要がある、というのが第一段階です。
特に『不在地主』の『仮換地』は通常より特殊な取扱いが多くなる為、通常の売却よりも慎重に不動産業者を選んでゆく必要があります。

2.『仮換地』の取引は法律的に特殊な取扱いが必要になる。
ここまでに説明してきたように、土地区画整理法というのは、非常に厄介な法律です。
不動産業者の必須国家資格である宅地建物取引士試験では、土地区画整理法に関するテーマが必ず出題されるほどの重要項目ですが、実務上では、札幌でさほど多くが実施されていない都合、きちんと取引をこなせる不動産営業マンがどの程度いるか、未知数です。

3.札幌市の『保留地』がライバルになる。
これまでに書いて来た通り、札幌市は『保留地』を大々的に広告費を投入して分譲しています。
同じエリアで更地を売る、という事は必然的に札幌市の『保留地』がライバルになる、という事です。
『保留地』の価格はインターネット上で公開されてしまっていますから、様々な条件を勘案して多少上回る価格で成約する事は可能ですが、『保留地』の分譲価格を大幅に上回る価格での成約は見込めません。
価格がある程度固定している点、比較対象となってしまう土地が多く存在する点がネックです。

ただし、札幌市が大々的に広告してくれている分、エリアの認知度は高いですし、極論、札幌市の『保留地』よりも安い価格設定にしてしまえば、割安感があってかなり売りやすくなる、という事でもあります。

4.不動産売買には『本人確認』が必要になる。
実はこれが一番のネックとなり得るハードルです。
札幌近郊にお住まいの『不在地主』の場合にはさほど問題にはなりませんが、北海道外にお住まいの方が『仮換地』を所有している場合には、ちょっと問題となります。

不動産業者が売却を受託するにあたっては『本人確認』が必要になります。
どんな事を確認するかといえば『その人が間違いなく本人か』、『その人が不動産の所有権を本当に持っているか』、『不動産を売却する意志があるか』などです。

普通の感覚では考えられませんが『売主のなりすまし』『所有権がない売却』というのが、不動産業界ではよくあるトラブルとして、業界紙などで取り上げられています。

印鑑証明や権利証を偽造した完全に詐欺的ななりすましもあれば、他に相続人がいるのに自分だけで売却を決めてしまったり、という事もあります。
不動産業者が『本人確認』を怠ると、買主から損害賠償を求められる場合もあります。

そういった意味で、不動産業者としても『不在地主』との業務は慎重に薦めてゆく必要があります。
業者とケースによっては、遠方のお客様をお断りする場合もあるかもしれませんね。

『仮換地』を売却する場合、これらのポイントに留意する必要があります。
私としては、土地区画整理法の取り扱いや不在地主とのやり取り、可能な限り高値で成約するよう販売戦略を組んでゆく事を大前提に業務を遂行していますから、東雁来の『仮換地』を所有する『不在地主』の方からの依頼も受けています。

ウェルピアひかりのの『仮換地』の売却相談をご希望の方問合せフォームからご連絡下さい。
ブログへのメッセージでも対応致しますが、個人情報を含む事になるのでコメントはご遠慮下さい。

◆シリーズ『東雁来』関連記事

◇ シリーズ『東雁来』① 札幌市が分譲する『ウェルピアひかりの』ってどうなの?
◇ シリーズ『東雁来』② 『ウェルピアひかりの』ではどのような販促がされていたか
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◇ シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~
◇ シリーズ『東雁来』⑤ 東雁来の歴史 ~戦後から平成まで~

シリーズ『東雁来』② 『ウェルピアひかりの』ではどのような販促がされていたか


当記事は平成27年1月10日の記事を一部改訂の上、再録したものです。
現在、ウェルピアひかりのの札幌市による保留地分譲は完了しており、民間で流通しています。
札幌市の分譲当時の状況を示す資料として、本記事を公開します。

さて本日、1月10日から1月12日まで、多くの人は三連休が始まりました。
そこで、新築を検討している方への私からの提案なのですが、『ウェルピアひかりの』の新春住宅祭へ行ってみては如何でしょうか?

新築を検討している方でなくとも、不動産を勉強している方にお勧めです。

『ウェルピアひかりの』とは、札幌市東区東雁来にある、札幌市の新規分譲団地の名称で札幌市の新築市場では非常に注目度の高いエリアです。

まぁ、『注目度が高い』というのは、賛美両論あるという事でもありますが、その辺、私が不動産のプロとしてどう考えているかは、過去の記事を参照して下さい。

さて、その『ウェルピアひかりの』ですが、本日1月10日から成人の日の1月12日まで、『ウェルピアひかりの 新春住宅祭』なるイベントを開催しています。

これ、毎年シーズンごとに定期的に開催しているイベントではあるのですが、キャンペーンのための景品が、結構豪華です。

1.招運!!初夢抽選会
 計10組に1万円相当の金券、旅行券、食事券のいずれかをプレゼント
2.福袋プレゼント!
 毎日先着10名に生活雑貨3500円相当をプレゼント
3.開運!ぴかりん おみくじ抽選会
 抽選の小吉、中吉、大吉に応じてぴかりんグッズをプレゼント
4.W見学プレゼント!
 指定のモデルハウスを見学すると、『あったかブランケット』をプレゼント

※各プレゼントの応募の為には指定された数のモデルハウスを見学する必要があります。
 また、景品の応募には期間中1家族1セットのみなどの制限があります。

さて、私はなぜ札幌市やハウスメーカーの太鼓持ちのような記事を書いたのでしょうか?
それは当然、他にはない、面白い情報があるからです。

広告であれこれプレゼントと言われても、具体的に何なのか分からなければ、行く気も失せる
というものです。

本日、初日に来場をした知人から、景品の写真を預かりましたので、この際、景品の中身、見せてしまいます(∩´∀`)∩

まずは、『2.福袋プレゼント!
モデルハウス3軒を内覧してスタンプを集める事で、受け取る事ができます。
左上から紹介しましょう。
 ・マルチオープナー(栓抜き、キャップ明け等)
 ・折り畳み水切りボウル
 ・掃除用マイクロファイバーセット
 ・ミニ湯たんぽ
 ・ディズニー魔法瓶
 ・万能ピーラー
 ・折り畳みバケツ

年末のビンゴゲームの景品のようですが、割と役に立ちそうですね。

次に『3.開運!ぴかりん おみくじ抽選会
これはモデルハウス3軒ごとに1回、計3回までくじを引いた結果に応じて、小吉、中吉、大吉があるそうですが、知人は大吉を引き当てたそうです。

これも左上から紹介します。
 ・ぴかりんエコバッグ
 ・ぴかりんボールペン 3本
 ・ぴかりんメモ帳 2冊
 ・ぴかりんボックスティッシュ 2箱
 ・ぴかりんミニフラットホイッスル 2個
 ・ぴかりん反射ステッカー
 ・ぴかりんてぶくろ 2組
 ・ぴかりん絆創膏 5組

『ぴかりん』は『ウェルピアひかりの』のマスコットキャラクターです。

…うーん、大吉でこれですか…まぁ、しょうがないですよね。
小吉や中吉は、数の差こそあれぴかりんグッズの詰め合わせでしょうね。

4.W見学プレゼント!』は、茶色くて落ち着いた柄のブランケットだったようです。
これは、モデルハウスのうち指定された2種類を内覧した方に、もれなくプレゼントされるものですが、知人は受け取らなかったとの事です。

…と、いう訳で、明日と明後日の2日しか有効ではない情報ですが、札幌市が主導する住宅地分譲事業でどのようなキャンペーンがあったのか、今後のためにも大変資料性の高い情報であると考え、掲載しました。

最後に『1.招運!!初夢抽選会』ですが、モデルハウスを3軒内覧した後5つの景品のうちから1つを選び、後日、各2名の計10名に1万円相当のプレゼントが当選します。
5つの景品は下記の通り。
 ・全国共通すし券
 ・こども商品券
 ・温泉入浴回数券
 ・ガソリンカード
 ・札幌グランドホテルレストラン食事券

これは、それぞれ2名ずつの当選者しかいない訳ですから、如何に競争率の低い景品を選ぶかが、当選のカギになるでしょう。

すし券やガソリンカードは汎用性も換金性も高いですから、競争率は高いはずです。
こども商品券は子供服や玩具を買えるという事なので、これは微妙です。
狙い目は温泉券か食事券のどちらかでしょう。

まぁ、札幌市が税金を使ってこのように豪華なキャンペーンを実施している事には、あまり良い気持がしない市民の方もいらっしゃるのではないかと思います。

しかし、原発に反対して停止させたところで、それまでに原発を建設するためにかかった費用や、これから停止した後の原発を維持するためにかかる費用がゼロになる訳ではありません。

物事というのは、途上にあるものを瞬時にゼロにすることは出来ません。
それが現実的な考え方であって、良識ある人の了見というものです。

そういった意味では、私は札幌市の『ウェルピアひかりの』の分譲事業が、自身のビジネスと関係なく、一市民として成功してほしいと考えています。

まぁ、そんなこんなで、この連休に時間がある方で、
 ・住宅の新築を検討している方
 ・不動産業や建築業を勉強したい方
 ・都市計画と都市政策のフィールドワークをしたい方
 ・結構豪華なキャンペーン景品をタダでもらいたい方
・・・などは、『ウェルピアひかりの』へ行くことを個人的にお勧めします。

参加方法は至って簡単。
明日と明後日の10:00~16:00までに、現地事務所に行きましょう。
そしてスタンプラリーのカードを受け取って、各モデルハウスを内覧します。
現地事務所にもモデルルームにも駐車場がありますから、車でも安心です。
 ・ウェルピアひかりの 現場事務所
   北海道札幌市東区東雁来11条2丁目(街区番号2)



※ 前述の通り現在は保留地分譲は終了しており、現地事務所も現存しません。

◆シリーズ『東雁来』関連記事

◇ シリーズ『東雁来』① 札幌市が分譲する『ウェルピアひかりの』ってどうなの?
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◇ シリーズ『東雁来』⑤ 東雁来の歴史 ~戦後から平成まで~

シリーズ『東雁来』① 札幌市が分譲する『ウェルピアひかりの』ってどうなの?


当記事は平成26年4月7日の記事を一部改訂の上、再録したものです。
現在、ウェルピアひかりのの札幌市による保留地分譲は完了しており、民間で流通しています。
札幌市の分譲当時の状況を示す資料として、本記事を公開します。

一週間後、平成26年4月14日(月)から東雁来『ウェルピアひかりの』の保留地分譲が始まります。
毎年毎年の恒例行事でもあるのですが、この日から同地区の現地事務所が開き、資料も解禁になります。
『ウェルピアひかりの』札幌市の戸建分野で今最も注目度の高い地区です。

注目度が高い、というのは好評悪評色んな意味で…ですね。

好評としては『札幌市が分譲する新しい街並みで商業施設も充実』
悪評としては『泥炭地でとにかく地盤が悪い、水はけ最悪』
それぞれまったく別のところを見ているので、こればかりは相容れないんですよね。

私は商売柄、交通の利便と収益性・処分価値しか見ない人なので、自分自身が買いたいとは思いませんが、そういう選択肢もアリなんじゃないかな、とは思います。
ただ、自分が納得して購入したものであれば、それで良いのですが、情報を集めずになんとなく買ってしまって後で後悔、というのはあんまりだと思いますので、情報の一つとして『東雁来』『ウェルピアひかりの』について私なりにまとめてみます。

◆事業の概要

『ウェルピアひかりの』は地区計画『東雁来第二地区地区』区域で、平成3年度見直しに伴い市街化区域に編入、平成8年から土地区画整理事業を開始し、平成30年に完了予定です。
現在、札幌市と協賛業者が分譲を行っています。

余談ですが、第一区画にあたる地区計画『東雁来地区』は、昭和53年度見直しに伴い市街化区域に編入、昭和58年から平成元年まで土地区画整理事業により整理されました。

◆地盤の悪さ

さて、批判の対象となっている『地盤の悪さ』ですが、札幌市が提供する地震防災マップ液状化危険度図を見ると、あまり地盤が強いとは言えませんが、周辺にはもっと悪い状況の土地も多く、市内でここだけが極端に地盤が悪い土地である、という客観的根拠はありません。
まぁ、売主である札幌市の出した資料が客観的かは置いておいて、札幌市の公開する各種資料を否定する第三者的資料も公開されてはいませんからね。
(数値が良いのは、泥炭地の上に盛り土をしているから、という見解も聞きますが、それにしたって数値的な調査データを見たことがないのです。
 ただ、建築業・不動産業に携わる人間の経験則としては一考の余地があります。)

とはいえ、当の札幌市自身も、土地の概要に『軟弱地盤』と小さく書いて販売しています。
批判している方は、『札幌市主導で軟弱地盤の土地を売りさばくのか』という、良心的・道義的批判によるところが大きいように思います。

◆ニュータウンゆえの宿命

また『ウェルピアひかりの』の各種広告に記載されているようにこういったニュータウンには『子育てファミリー世代の皆さんが暮らしています』これはもちろん良いところでもありますが、短所ともなり得ます。

私自身がそういう造成地の出身なのでよくわかるのですが、山の中を切り裂いて造った住宅街や、地の果てを埋め立てて造った住宅街は、同世代・同所得層の方が同時期に購入する関係上、20年後、30年後には、地域全体としての高齢化に見舞われ、過疎化と地価下落が発生します。
そして、人口が減れば、民間資本のショッピング施設は容赦なく閉店してゆきます。

札幌市は『ウェルピアひかりの』のバス網を充実させると掲げていますし、高齢者や障碍者に優しい福祉の整った地域とする事も目標として掲げています。
地下鉄からもJRからも遠く離れた地区が、将来的に便利な街であり続けられるのか、どちらかといえば疑問符が付くと感じるのは、私だけではないでしょう。

札幌市主導で行った事業だから大丈夫、という保証も当然ながら出来ません。
札幌市は過去にも都市計画の大失敗と批判されるような事業をいくつも手掛けて来たのですから。

◆とはいえ、当面は便利な状態だと思いますよ

色々悪口みたいな事を書いてしまいましたが、どんな財産にだって不確定要素やリスクは必ず付いて回るものですし、そのリスクは原則、価格に反映しているのが資本主義社会です。
そういった視点から見ると、ウェルピアひかりのの分譲価格は不当に高額と言う事も出来ません。

また、今後、平成30年まで事業が継続してゆきますから、(こういう言い方が適当かは分かりませんが)今よりは便利になってゆくことが見込まれます。
『東雁来流通工業系業務地区』として、軽工業や配送センターも誘致しているところです。
札幌市としても意地と見栄がありますから、当面はこの地区の発展に注力していくのではないでしょうか。
そういった意味で、ここ十数年単位極端に状況が悪化するかと言えば、私はNOと答えます。

いつ大地震が来るか、20年後、30年後の地価がどうなっているのか、そんなことは誰にも保証出来ませんし、そんな事を言っていたら財産なんて持てません。
どのような資産を買うにせよ、『割り切り』『納得』が肝要です。

4月14日の分譲開始に伴い、各種販売資料も公開されますので、何か興味を惹くような内容があれば、またこの地区を取り上げます。

◆個人的には…

ウェルピアひかりのは『スポーツのまち』だそうですが、計5面あるサッカーコート(+2面のフットサルコート)に時代を感じてしまいますね。

1面がコンサドーレ札幌ユース、2面が札幌サッカーアミューズメントパーク、2面が東雁来公園サッカー場だそうで、それぞれに所有者は違うそうです。

これらのコートは平成10年代の後半に開業したようですが、平成10年がコンサドーレ札幌のJリーグ加盟平成14年がワールドカップですから、本当に、時代背景がよく出ているなぁという印象ですね。

昭和の頃にも各地の広場に野球場を造って、現在その野球場がどうなっているのかを考えれば、もうちょっと合理的なものの考え方をしてくれてもよいような気がするんですけどねぇ…

◆シリーズ『東雁来』関連記事

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◇ シリーズ『東雁来』③ 東雁来『ウェルピアひかりの』の仮換地を売りたい人はどうすればいいの?
◇ シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~
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シリーズ『澄川』⑨ 器械場道路でアシリベツ器械場に行ってみよう!


さてはて、散逸的ではありますが澄川の歴史に関することを色々と紹介して来ましたシリーズ澄川ですが、9回目を迎えました。
3年前からのシリーズのリブート記事が多くなっていましたが、今回は完全新規書き下ろしの記事となります。

澄川で第一の道路『本願寺道路』、第二の道路『器械場道路』、第三の道路『平岸澄川線』のうち、明治の澄川の木材供給拠点としての在り方を示す道路として、最も重要な道路は『器械場道路』である、と紹介しました。

現在の滝野に当たる『アシリベツ器械場』にはお雇い外国人ホーレス=ケプロン氏が設置した水力式器械製材所があり、そこで製材された木材を札幌市街の中心部へ運び出す為の道路が『器械場道路』であった訳です。
大正5年の地形図を見てみましょう。

次に、現在の地図にルートを落とし込んだものを見比べてみましょう。

現在の『平岸街道』の一部となっている『本願寺道路』を南平岸の南側で分岐したのち、地下鉄澄川駅の東側を経由、澄川小学校、澄川中学校、澄川南小学校を経由して滝野方向に抜けてゆく長い道です。

なお、青線の中が抜けている部分は市道『福住桑園通』の指定区域、太い青線となっている部分は市道『澄川厚別滝連絡線』の指定区域です。
『澄川厚別(アシリベツ)滝連絡線』は、ほぼ器械場道路のルートを辿っていると言っていいでしょう。

では、『器械場道路』は現在どのような姿になっているのでしょうか?
実際に『器械場』に行ってみよう、というのが本記事の趣旨です。

まず、本願寺道路との分岐部分、南平岸駅の南西側ですね。
市内でも有名なホビーショップである『オーム模型店』が写真左手にあたります。

左側が『器械場道路』、右側が『本願寺道路』で、間にある緑の木々は『天神山』のものです。

同じ地点から北方向を振り返った写真です。
左手側にはこのあたりの小学校としては最も古い『平岸小学校』があります。
平岸全域は勿論、昭和40年代までは澄川の奥地からここまで通学してきていたと言います。

そこからまっすぐ澄川駅の東側を経由し、澄川小学校を経由してゆくと、澄川5条5丁目付近で右手側に分岐をします。
ここで左手側の道路を通ると先ほど触れた『福住桑園通』のルートで、クラーク博士像のある羊ヶ丘展望台、そして札幌ドームのある福住へと到達します。

ここからが現在の市道の枠組みでは『澄川厚別滝連絡線』となります。

旧『機械場道路』の区間でも、ここからは片道1車線となります。

左手側には『澄川北緑地』が広がります。
かなり広い緑地ですが、遊具や設備はそんなにありません。


左手奥に見える緑色のフェンスが澄川中学校の敷地です。

左手側は『木挽山』の傾斜で、かなり急な坂道になっています。
看板にも書かれている通り、除雪車が登れない為、冬期間通行止めになっています。

さらに進んでゆきますと澄川5条・6条と9丁目・10丁目の交差点にぶつかります。
この交差点を地元の方は『五差路(ごさろ)』と呼びますが、実際の交差点は通常の十字路(四差路)になっています。
実はこの交差点はオリンピック頃に整理されるまで実際に5本の道路による交差点≒五差路だったのです。
現在は、その姿を偲び『五差路記念公園』が設置されています。

かなり大きな滑り台がある立派な公園ですが、周囲の通行量が多いのにも関わらずフェンスは設置されておらず、ボール遊びなどには適さない造りになっていますね。

ここでメインストリートは『澄川通』にバトンタッチして、『器械場道路』は五差路記念公園を東側に迂回したルートを通ってゆくことになります。

『器械場道路』は元々が尾根道ですから、くねくねとアップダウンしながら進んでいくことになります。

札幌オリンピックの際に真駒内競技場への道として整備された『五輪通り』と陸橋で立体交差します。
『五輪通り』は札幌オリンピックの際に整備された、真駒内競技場へ通じる道です。

橋を下り方向に進んだ時左手側(東側)から西岡方向を見た写真です。
逆の右手側(西側)、真駒内方向を見下ろした写真です。
そこから『器械場道路』は澄川5条と6条の間を10丁目~13丁目の住宅街を進んでゆきます。

住宅街の南端、都市計画道路『水源地通』との交点に到達しました。
ここから先は市街化調整区域の山林になります。

アシリベツ器械場の跡地にある滝野霊園の案内板も掲出されています。
ここから9km山林

下には市内各所のラブホテルの立て看板が打ち捨てられているのがなんとも・・・

市街化調整区域側、南東角には介護施設『ライフふくまつ』があります。

そこから少し南に進むと光塩女子短期大学西岡キャンパスが。
インターネットで検索をしても何をやっている校舎なのか分かりません。
1987年、昭和62年完成とのこと。

光塩学園周辺の路肩は道路との高低差が大きく、路肩軟弱の看板が立っています。

ここからしばらくはゴルフ場の裏道となっている山林をひたすら9km進むのみ。

中間には陸上自衛隊真駒内射撃場があります。
ちなみにこちらは豊平区西岡の市街化調整区域に所在しており、『器械場道路』は南区と豊平区の境界ともなっています。
古い道路ほど、境界線となるという部分もありますが他に目印がない、というのもあるかと。

スポーツ競技で射撃をやるような場合には許可を得て立ち入ることも出来るそうです。

あとは器械場までひたすら山林、山林、山林・・・


道路の舗装状況がかなり悪くなっている箇所も多くなっています。
この坂を下ると、滝野すずらん丘陵公園に到達します。

この写真の撮影は平成28年9月で、記事執筆現在から2年半前になりますが、この頃は器械場に対する理解が十分ではなく(今も十分ではありませんが)、この周辺の事が分からずに写真を撮っていました。

その為、器械場の跡地とされる場所にある記念碑『厚別水車器械跡』について、撮影が漏れてしまいました。
これも平成10年に建立されたもので、少ない資料からはおそらくアシリベツの滝の周辺であろう、という程度の推察しか出来ません。
明治期の地図がない場所ですからもしかしたら、別の場所に存在していたという事もあるかもしれません。

余談ですが、『器械場』で検索した際に出てくる『器械場入口』というバス停。



南区や澄川図書館の記述では『器械場の名前を平成に残す』ものとされています。
嘘ではないのですが、こちらは道道341号『真駒内御料札幌線』に所在するバス停ですから、『器械場道路』とは関係ありません。
現在、滝野へはこの道道341号線がメインのアクセス道路となっており、滝野霊園のメインの入口もこちら。

先ほど看板にも描かれていた滝野霊園のシンボルのモアイ像も道道341号線側にあります。

この道道341号線は戦後の昭和36年に制定された道で、それまでの地図を見ると道路形状がかなり怪しい部分があります。
昭和19年にこの周辺の地名が『滝野』に改められるまでは『器械場』という地名でしたから、元々にアシリベツ器械場に由来するとはいえ、バス停に関しては地名としての『器械場』の入口であると考えた方がよいでしょう。

・・・えーと、ちょっと分かりづらいですかね。
バス停『器械場入口』は、アシリベツ器械場の入口という意味ではなく、器械場が閉鎖された後の集落『器械場』の入口なのではないか、という事です。

まー、アシリベツ器械場は明治19年に閉鎖していますから、当たり前っちゃ当たり前なんですけどね。

さて、今回は2年半も寝かせていた写真を引っ張り出してきて器械場道路のルートを辿ってみました。
道路を辿る記事って、撮影の為に車を停めるのはなかなか憚られますし、冗長になりがちなのでどうかと思いましたが、また機会があればやってみたいと思います。

シリーズ『澄川』⑧ 澄川南部の大開発『緑ヶ丘団地』


当記事は平成29年2月16日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、前回のおさらいに昭和36年~昭和39年の航空写真を見てみましょう。

この写真は阿部造林山の最後の姿を写したものであると言えます。
東西に走る『真駒内養護学校線』の南側については、森林となっており、まだ開発が進んでいませんが、これが昭和39年にすべて伐採され、跡地は土地区画整理法に基づき造成され、分譲されていきます。

昭和45年『札幌市緑ヶ丘区画整理組合』が発足し、『緑ヶ丘団地』の計画が始まります。
これには北海道・札幌市ともに行政が深く関わっていたようですが、実際の造成事業は丸紅株式会社が受注しました。

組合の理事長は 阿部則宏といいますから、阿部与之助氏の親族であろうかと思います。
(ただ、札幌市の開拓初期には他にも阿部姓の有力者が数名いますし、阿部則宏氏の氏名で出てくる資料がないので、はっきりとしたことは言えません。)

『緑ヶ丘団地』昭和45年のうちに着工し、昭和48年に完成しました。
札幌市によると施工面積37.0ha、総事業費18億566万円という、大事業です。
『郷土史すみかわ』によれば施工面積は37.2ヘクタールとされていますが、坪に換算すれば11万2529坪という事になりますから、これは定山渓鉄道が澄川で分譲したすべての団地の約3.2倍の施工面積となります。
定鉄団地の15箇所分とんでもない規模の造成であったという事が出来ますね。

造成途中の様子です。次に現在の様子を同じ角度からGoogleアースで見てみましょう。

郷土史によると造成工事中は舞い上がった火山灰が周囲に降り注いで大変な事になったそうです。
重機騒音やら、下水の問題もあって周辺住民は反対運動を起こしたようです。

この造成で出来上がったのが『紅桜大擁壁』です。
他にも西岡側や器械場道路の西側にいくつか擁壁が築造されていますが、私の中では、紅桜大擁壁が一番面白いという風に感じています。(あくまで個人の主観です。)

『郷土史すみかわ』256ページの記載によると、『境界の石垣などは本道最初の西ドイツ特許の特殊カラースプリットンブロックを使用するなど、造成にも工夫が凝らされている』と書かれているので、大擁壁に利用されているのでは?と考えて調べてみましたが、スプリットンブロックとは石のような風合いを表現したブロックのようですから、鉄筋コンクリート打ちっぱなしの大擁壁に使われた工法ではないようです。

どうやら、先に述べた器械場道路の西側の擁壁が、カラースプリットンブロックであるようです。
(西岡側の擁壁はカラースプリットンブロックによるものと、コンクリート打ちっぱなしによるものが混在しています。)

造成によって阿部造林山の在り様は大きく様変わりしました。

昭和48年に完成した『緑ヶ丘団地』は、昭和47年に開催された札幌オリンピックによる、札幌の急激な人口増加の影響もあって、ベッドタウンとして発展を始めます。
ただ、以前も紹介したように、現在の13丁目以南の桜山の部分に関しては、当初、宅地開発の計画があったものの、給水等の事情によって宅地開発が頓挫し、市立澄川南小学校の校区が南側に著しく偏っているという現状を引き起こしていますから、これは高度経済成長後の札幌オリンピック開催をもってしても、人口増加は予想より控えめであった、という事なのでしょう。

また、昭和43年公布・昭和45年施行の『都市計画法』によって、市街化区域と市街化調整区域に枠組みが設定される事で、市街化調整区域である阿部造林山の南側エリアの開発が出来なくなった、という事情もあるでしょう。

札幌オリンピック前後の負債というのは現在にも繋がっていて、不動産屋である私を悩ませています。

まー、そんなこんなで完成した『緑ヶ丘団地』なのですが、実は『緑ヶ丘団地』という名称がどこからきているのか、分かっていません。

普通に考えれば、造成事業者である『札幌市緑ヶ丘区画整理組合』による命名だと思いますが、それより以前の昭和36年、定山渓鉄道が最後に設置した停留所に『緑ヶ丘停留所』があり、これは現在の『真駒内駅』の南端付近(かなり南側です)に位置するというのですから、昭和48年に完成した『緑ヶ丘団地』と同一視してよいものかどうか、時系列的にも立地的にもどう判断してよいものか、正直なところ皆目見当が付かないのです。

緑ヶ丘という地名は全国各地にありますから、
高台の住宅地に付ける昭和当時の流行りの名称が偶然一致しただけで、深い意味はないのかもしれません。

また、今となっては、札幌市内でも丸紅が分譲した清田区里塚の『緑ヶ丘団地』の方が有名かもしれません
『里塚緑ヶ丘』は地名としてもはっきり設定されていますし、
丸紅の『平岡公園ベニータウン ライブヒルズ』は、商社ならではの圧倒的な広告費とブランディングにより、
今や『きよたネーゼ』なる造語を生み出し、挙句は清田区が公式にきよたネーゼを嘱託するに至りました。
 平成27年1月15日 きよたネーゼ委嘱式
  http://www.city.sapporo.jp/kiyota/kocho/event/150115.html
 ※ 他にも中央区には緑丘小学校があります。

奇しくも、澄川の緑ヶ丘団地平岡の緑ヶ丘団地同じ丸紅が関与した分譲地です。
40年以上が経っているとはいえ、同じ自治体内で同じ会社が同名の分譲団地を造成するな!と思うのですが、
まぁ、澄川の緑ヶ丘団地に関しては正式な地名でもなく、いわゆる愛称であって、
しかも少しずつ忘れられつつある、というのですから、あまり強く言ってはいけないのかもしれません。

ともかく、そのようにして、阿部造林山は緑ヶ丘団地へと生まれ変わった訳です。
それに伴って、数々の擁壁が築造され、その中の一つとして『桜山大擁壁』がある訳ですが、
これも造成から45年を経過し、老朽化しつつあります。
札幌オリンピックの頃にこの地区に移り住んだ人々も高齢化し、徐々に住民も移り変わって来ました。

『形あるものはいつか壊れる』というのは慣用句でもありますが、一つの真理です。
紅桜大擁壁も含め、この一帯の擁壁の大半は札幌市が道路区域として管理していますが、
半世紀を迎え、また災害発生リスクも高まる昨今、どのように管理されてゆくのか、気になる処です。

ところで、紅桜大擁壁の低地(西)側『緑ヶ丘団地』には含まれていません。
澄川4条11丁目~12丁目の範囲は『桜ヶ山団地』として、別の分譲事業者によって分譲されたものですが、下水が設備されないとか道路の権利関係やらで分譲事業者と住民間で裁判となり、その恨み節がたっぷりと『郷土史澄川ものがたり』に記録されています。

分譲から裁判による解決までに20年以上を要したこのトラブルについては、分譲事業者の名称をウェブ検索しても現在は出てこないこともあり、当然に住民と分譲事業者の双方に言い分があったものと思いますから、あえてここで記載して情報をインターネットに分散させる事はせずにおきます。

ご興味のある方は『郷土史澄川ものがたり』123~127ページをご覧下さい。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』⑦ 宅地造成の巨大構造物『紅桜大擁壁』と『土砂災害警戒区域』


当記事は平成28年2月2日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

皆さんは『擁壁』や『土留め』と言った言葉をご存じでしょうか?
『擁壁』や『土留め』は通常の『塀』と異なり、土地同士に高低差がある場合に、高い位置にある土の重さを支える壁で、これが軟弱な構造であった場合には、高所にある土砂が崩れ落ちてしまいますから、その構造については建築基準法などで、一定の制限が加えられています。

私は不動産業に就くまで『擁壁』や『土留め』という言葉の意味をよく理解していませんでしたが、土地を取り扱う際に、その所有権や維持管理について十分に調査しなければ、大きなトラブルになりかねませんから、非常にデリケートな問題であると言えるでしょう。

札幌で高低差の多い地域といえば南区、中央区(藻岩山・円山方面)、西区、豊平区が挙げられます。
その中でも特に南区は崖地が多い事で知られています。

それは、南区が札幌市の6割に達する非常に広い面積を有する区である事と、
古くは明治期から『札幌軟石』を産出する石山・穴の沢地区から中心部まで本願寺道路(現在の石山通)に沿って『馬車鉄道(馬鉄)』が敷設され、大正~昭和にかけて定山渓温泉までの『定山渓鉄道(じょうてつ)』が敷かれた事もあり、札幌の郊外地の中でも特異な発展を遂げた古い街である、という歴史が根底にあるのです。

その結果、札幌市内に411箇所を指定された『土砂災害警戒区域』のうち、なんと過半数の221箇所が南区に集中しているという状態にもなっています。

そのように擁壁の多い札幌市南区の中でも、住宅地にあっては最大級とも言えるものが、澄川4条11丁目~澄川5条13丁目に所在する長さ400m、高さ10m以上もある巨大構築物です。

GoogleEarthで見てみると、かなり異様な光景ではないでしょうか。

まぁ、写真で見ても結構異様な光景なんですけどね。

私はこれを便宜上『紅桜大擁壁』と名付け、紹介してゆく事にしました。
命名由来ですが、まず、この『擁壁』には正式な名称が付いていないという前提があります。
この擁壁は『緑ヶ丘団地』造成と同時期に築造されたものですが、
現在は都市計画道路『水源地通』(≒市道『石山西岡線』)と市道『平岸澄川線』で形成される、道路区域として札幌市が管理している擁壁であるという以上の情報が、現在までの調査では判明していない・・・というか、恐らくそれ以上の情報は出てこないと思います。

そこで、分かり易い名称をと考えたのですが、この地区は『澄川』という地名のイメージから少し離れてしまいますから、近隣にある『紅桜公園』から名前を拝借した、という訳です。

どこにあってどのように出来たか
札幌市南区、南北線真駒内駅の裏(東側)には『桜山』という山があります。
行政上は『真駒内健康保安林』という名称ですが、地元の人間はみな『桜山』と呼んでいます。
※ 桜山の真駒内側には『桜山小学校』があります。

『桜山』を超えて更に東側は『澄川』4~6条となっており、昭和40年代後半に造成された『緑ヶ丘団地』です。

地名は『澄川』ですが、南北線澄川駅からは1.5~2駅相当の距離です。
南北線真駒内駅へも桜山を大きく迂回しなければなりませんから、最寄り駅は南北線自衛隊前駅という事になります、徒歩15分程度ですね。
地区としては『西岡』とも隣接しており、更に東へ少し行くと『西岡水源地』もあります。

小学校としては昭和47年に設置された澄川南小学校があり、この澄川南小学校を中心とした地区、とも言えるでしょう。
『桜山』を始め、この地区は周囲をぐるりと市街化調整区域に囲まれた住宅地です。

過去には、現在市街化調整区域となっている山林についても、宅地造成の計画があったそうですが、上水道給水の問題や、札幌オリンピック前後の人口動向から、計画は立ち消えになったようです。
澄川南小学校の学校区が大きく北側に偏っている事は、立ち消えになった宅地開発計画による影響だと言われています。

地下鉄南北線の開通は昭和46年、札幌オリンピックの開催は昭和47年ですから、『緑ヶ丘地区』や『澄川南小学校』への影響が事がよくわかります。
この時期の開発と発展のダイナミズムというのは本当に面白いですね。

さて、『紅桜大擁壁』は北海道によって『土砂災害警戒区域』に指定されています。
北海道が公開する指定図面を見てみましょう。

 土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域区域図(その1)I-0-577-2995
  http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/designated_PDF/I-0-577-2995_kuikizu.pdf

う~ん、擁壁中心の傾斜が緩い部分以外はすっぽりと指定されていますね。
ちなみに、傾斜が緩い部分はこのようになっています。

それでは、『土砂災害警戒区域』に指定された『紅桜大擁壁』は危険な擁壁なのでしょうか?
また、指定されてしまったこの一帯の不動産は無価値となってしまうのでしょうか?
具体的に制度を見てゆきながら解説しましょう。

『土砂災害警戒区域』とは、平成13年4月に施行された土砂災害防止法に定められた地域です。
(正式には『土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律』と言います。)

崖崩れ(急傾斜地の崩壊)、土石流、地すべりなどが発生する可能性がある地域が指定され、この指定を受けた地域について、自治体は住民に危険を周知し、避難体制を確保しなければなりません。

更に法律では、『土砂災害“特別”警戒区域』も定められており、周知や避難体制の確保に加え、区域内の土地建物の所有者に対しても、厳しい制限が加えられます。

◇建築物の構造規制
土砂災害の影響を受ける基礎や柱、外壁などを鉄筋コンクリートなどの耐久性の強い構造が必要とされます。
建物とは別に、土砂に耐える擁壁を設けるなどの方法もありますが、
どちらにせよ、それ以外の地域に建築するより工費は高くなってしまいます。

◇特定の開発行為に対する許可制
宅地造成を行なったり、子供や高齢者が集まる施設(幼稚園や病院、介護施設)を建設しようとする場合には、
自治体の指導に従った造成や建築を行なわなければならない事とされています。

◇建築物の移転 
危険な箇所に所在する建物について、自治体は移転の勧告をする事が出来ます。
勧告に従った場合には、その為の費用の一部について『社会資本整備総合交付金』が支給されます。
更に『住宅金融支援機構』からの融資(地すべり等関連住宅融資)が受けられますが、金利は民間の銀行から住宅ローンを受ける場合とさほど変わりません。

『特別』警戒区域の場合には総じて、対応の為にそれなりの費用が発生する訳ですね。

国交省や自治体は『土砂災害警戒区域』をイエローゾーン『土砂災害特別警戒区域』をレッドゾーンと通称し、資料でも主に黄色と赤で色分けしています。

さて、もう一度『紅桜大擁壁』の図面を見てみましょう。

黄色で『土砂災害警戒区域』はありますが、レッドゾーンの指定はありません。

つまり、住民に対して危険を周知し、避難体制を整える必要はあるものの、土地建物の所有者がアレコレしなくてはならないという制限は一切ないのです。

ただし、『土砂災害警戒区域』は、重要事項説明で特に説明しなければならない項目ですから、不動産を売買したり賃貸する場合には、相手方に対して土砂災害の危険が周知されます。
ですから、必然的に不動産の価格は指定を受けてない場合と比較すると、若干下落してしまうでしょう。

土砂災害の危険を周知する目的でイエローゾーンに指定されている訳ですが、どういった基準を持って『危険である』とされているかについても、見ておきましょう。
イエローゾーンに指定される基準は下記の通りです。

■急傾斜地の崩壊
 イ 傾斜度が30度以上高さが5m以上の区域
 ロ 急傾斜地の上端から水平距離が10m以内の区域
 ハ 急傾斜地の下端から急傾斜地高さの2倍(50mを超える場合は50m)以内の区域

■土石流
 土石流の発生のおそれのある渓流において、
 扇頂部から下流で勾配が2度以上の区域

■地滑り
 イ 地滑り区域(地滑りしている区域または地滑りするおそれのある区域)
 ロ 地滑り区域下端から地滑り地塊の長さに相当する距離
   (250mを超える場合は、250m)の範囲内の区域

『紅桜大擁壁』の場合、傾斜度は30度どころか90度、高さ10m超ですから当然指定されますね。
そして、その傾斜地の上側と下側の所定の範囲が区域として指定された訳です。

例えば、擁壁の構造や老朽化の度合いを検査して『危険』と指定されたり、
現地の地盤の状況をボーリング調査で調べて軟弱度を判定したり、
具体的に災害のシミュレーションを行なった上で個別的に指定されている訳ではなく高さと角度といった、土地の形状が指定の基準である、という事は覚えておきましょう。

土地の形状が公的に『危険』とされている訳ですから、安全と反論することは出来ませんが、どのような基準をもって指定されているかを理解し、リスクを分析すべきでしょう。

ちなみに、『紅桜大擁壁』はほぼ垂直の巨大な擁壁であって、かなり威圧感がありますが、それでもレッドゾーンには指定されていない訳です。

土地所有者に実際に制限が課せられるレッドゾーン、『土砂災害特別警戒区域』はどのような状況であれば指定されるのでしょうか?

この最寄りの指定区域に、紅桜公園に隣接する寺院『慧照寺』があります。
『条丁目』が施行されていない市街化調整区域、澄川458番10に所在する寺院です。

 土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域区域図(その1)I-0-576-2994
  http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/designated_PDF/I-0-576-2994_kuikizu.pdf
うーん、スゴイですね。
恐らくは岩石や土砂の採掘が原因と思われる、白い岩壁があらわになっています。
レッドゾーン、土砂災害特別警戒区域というのはこのレベルの危険度という訳です。

南区では札幌市内の411か所のうち、過半数の211箇所を占めていますから、実は意外と身近にあるのが、この『土砂災害警戒区域』です。

北海道では土砂災害警戒区域の情報を下記のサイトで紹介していますから、
不動産を所有されている方は一度目を通しておくとよいでしょう。
  北海道土砂災害警戒情報システム 土砂災害警戒区域等指定状況
   http://www.njwa.jp/hokkaido-sabou/others/displayDesignatedMap.do

イエローゾーンであり、土砂災害防止法上ではそこまで危険度はないとされている紅桜大擁壁ではありますが、築造からじきに50年を迎え、老朽化が進行していることは間違いありません。

各所にコンクリートの剥落やクラック、鉄骨のサビなどが見られます。
前述の通り、この擁壁は札幌市が市道の一部として管理していますから大事に至ることはないでしょうが、コンクリートの寿命を考えると、いずれ大修繕が必要になるでしょうね。

シリーズ『澄川』⑥ 澄川の東側を切り開いた阿部与之助氏の『阿部造林山』


当記事は平成29年2月15日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』では、現在の澄川は明治後期に2人の大地主によって拓かれた地区であり、西を茨木農場の茨木與八郎が、東を阿部造林の阿部与之助が所有していた、と紹介しました。

澄川は南へ行くほど『丁目』が増え、東へ行くほど『条』が増えます。
概ね、1~3条が茨木氏の、5条が阿部氏のエリアとなります。
澄川4条に関しては双方の中間のエリアと考えてよい区域ですが、だいたい、4条7丁目くらいまでが茨木氏、4条8丁目以降が阿部氏というところでしょうか。
東西に幅があるのが茨木氏、南北に幅があるのが阿部氏、とも言えます。

紅桜大擁壁は澄川4~5条・11~13丁目のエリアですから、
明治期には阿部与之助氏のエリアであった、という事になります。

明治29年豊平村の阿部与之助氏が澄川南東に広がる山間部の『官林』の貸下げを受け、
この一帯に落葉松=カラマツの植樹を開始しました。

阿部与之助氏は現在の国道36号線(室蘭街道)沿い・豊平区豊平で商店を営んだ実業家で、
豊平区においては小中学校の設立、神社の整備などに私財を投じた篤志家として有名な方です。

現在でも月寒公園には『阿部与之助功労碑』が祀られています。
『郷土史すみかわ』に添付されている阿部造林山の図面を見てみましょう。

この土地は『木挽山』から『紅桜公園』までも含む広大なもので、貸下げ以後、大正元年には苗木の植え付けを完了した、と言いますが、明治は45年まである訳ですから、全面に植樹するまで15年も掛かるほど広大な土地であった、という事です。

精進川上流の水利が良く傾斜がなだらかな部分では造林と並行して農業が営まれており、地主の阿部与之助氏に代わり、林業と農業の管理は小作人の吉田庄蔵が行ないました。

吉田庄蔵氏は富山県出身、明治28年、20歳の時(つまり明治8~9年生まれ)に渡道。
豊平村の阿部商店の従業員で珠算・計数に長けた人だったと言います。
現在でも澄川では吉田姓の地主さんが多くいますが、幾人かはこの吉田庄蔵氏の子孫であるとの事です。

現在から約100年前、大正5年の大日本帝国陸地測量部作成の地形図を見てみましょう。

…う~ん、すがすがしいまでに何もないですね。
位置関係を分かり易くするために注釈を加えていますが、この当時実際に存在しているのは『器械場道路』のみです。
一応、注釈には加えていませんが、『平岸澄川線』も存在しています。
平岸街道すら、ほとんどの部分存在していないのですから、驚きですね。

阿部造林山には、針葉樹の地図記号がちらほら見えるだけで、畑も水田も人家も見当たりません。(地図左手に水田があるのは茨木農場の部分です。)

阿部与之助氏は大正2年に亡くなっていますから、この地図はその直後の状況、という事になります。
以後、阿部与之助氏の子孫のことを一纏めにして『阿部家』と言います。

造林されたカラマツは昭和9年炭坑用の木材として半分以上が一括買い上げされ伐採された半分のうち3分の2(≒6分の2)には再度植樹がされますが、残りの3分の1(≒6分の1)は開墾され、ジャガイモなどが生産されました。
(アジア太平洋戦争の食糧不足により、時間のかかる植樹よりも畑とすることが望まれたのでしょう。)

昭和20年の終戦を迎え、澄川にも名物『農地改革』『財閥解体』の波が到来します。

茨木農場の記事の際にも紹介しましたが、おさらいをしましょう。
昭和21年に成立した『自作農創設特別措置法』による『農地改革』とは、下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
 ・不在地主のすべての小作地
 ・在村地主の約1町(北海道4町)を超える小作地
 ・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

阿部家を不在地主というべきか、在村地主というべきか、私は歴史や風俗史の専門家ではないのではっきりとは断定できませんが、同じ豊平町にいたのですから、当時の距離感も考えれば在村地主にあたるのではないかと思います。
※ 当時、澄川地区は豊平町大字平岸の一部分でした。

北海道の場合、在村地主では4町を超える小作地が農地改革の対象となりました。
そして、前述の通り阿部家は元々が商店主であって、農作業は吉田氏などの小作人が行なっていました。

更に、阿部与之助氏が存命中に所有していた土地は140町を超えていたというのですから、時代が阿部与之助氏の後の世代に移ったとはいえ、小作地の大半は買い上げられたと考えるのが自然でしょう。

ところで、『郷土史すみかわ』87ページにおいてもこのような記載があります。
『昭和22年占領軍指令による農地改革により、これら農場の田畑は地主から入植者に解放された。
(『これら農場の田畑』とは、文脈上、昭和9年以後開墾され、ジャガイモなどが植えられた畑を指します。)

しかし、私は阿部家が農地改革によってすべての土地を失った訳ではないと考えています。

札幌におけるすべての土地を失った茨木農場の茨木與八郎氏との違いはどこにあったのでしょうか?

それは、阿部造林山の大半は『山林』であって『農地』ではなかったから、なのです。

従来、『山林』に関しては、『農地』という捉え方をされてこなかった側面があります。
現在においても、林業に関する法律は『森林・林業基本法』であって『農地法』ではありません。
林業を行なうには大資本と長期間が必要であり、人的資源も多く要しますから、農地とは性質が異なるのです。
(いざ山林を小作人に分け与えても適正な運営をしてゆく事は出来ない、という理由も考えられます。)

その為、農地改革においても山林は対象とならなかったとする文献がいくつかあります。
前述の郷土史すみかわの記載も『農場の田畑は(中略)解放された』とされており、それを裏付けています。

さて、農地改革後、先んじて小作人達に分け与えられた澄川地区の西側、旧:茨木農場のエリアと、阿部造林山のうち、昭和9年以後農地化された6分の1…澄川4~5条・3~9丁目のエリアは、昭和35年以降、ハウスメーカーや造成業者によって数々の分譲団地に変貌してゆきます。

『シリーズ『澄川』⑤ 定山渓鉄道と『北茨木』そして『澄川』駅』で紹介した通り、澄川は元々、定山渓鉄道(じょうてつ)のエリアですから、宅地分譲にあたっては、定山渓鉄道が非常に力を注いでおり、計5箇所・3万4552坪もの造成を行なったとされています。

定鉄以外の各社もそれぞれのブランドで宅地造成分譲を行なってゆきますが、それも9丁目までの北側のエリアに留まります。
現在の10丁目~13丁目、そして条丁目のない番地エリアは阿部造林山が存在していたからです。

ここで、昭和36年~昭和39年の航空写真を見てみましょう。

現在の道路、施設の位置を入れ込んでいますが、当時あったのは『器械場道路』『平岸街道』のみです。
東西に走る『真駒内養護学校線』現在の9丁目と10丁目の境界ですから、10丁目以南については、まだ阿部造林山で林業が営まれていた様子が分かるでしょう。

そして、現在の姿に繋がる大きなターニングポイントは昭和39年に訪れます。

昭和39年阿部造林山はパルプ材として伐採され、売却されます。
跡地のうち現在の10丁目~13丁目に関しては『緑ヶ丘団地』として生まれ変わるのです。
(更に南側の番地エリアに関しては、再度落葉松が植樹され、市街化調整区域のまま現在に至っています。)

昭和39年の伐採ののち、その跡地が昭和45年以降、土地区画整理法に基づき、『緑ヶ丘団地』として開発・分譲されていく訳ですが、これについては、次回以降で紹介したいと思います。

それではまた次回。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

シリーズ『澄川』⑤ 定山渓鉄道と『北茨木』そして『澄川』駅


当記事は平成28年10月17日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、今日は現在の札幌市営地下鉄南北線『澄川駅』の歴史を見てゆきましょう。

一般に札幌の方に『澄川』と言えば、この『澄川駅』周辺を指しますが、『澄川』という地名は『自衛隊前駅』、『真駒内駅』付近までを含む更に広い範囲を指す地名です。
まー、範囲が広い地名というのは札幌では結構あって、澄川はまだ一般的な部類です。
関東であれ関西であれ、『字(あざ)≒町名』から非常に多くて位置関係が掴みづらいですが、札幌は町名の中に”条”が組み込まれているので法則さえ分かれば位置関係が掴み易いですね。

“札幌は”と書いていますが北海道の他の市町村になると、やはり”条”を使っておらず多数の町名が入り乱れていたり、”条”を使っていても人家がまばらで住居表示がなく番地表示だったりと、まぁ独特です。

とはいえ、どの地域でも地元の方には位置関係が把握出来る訳で、掴みやすい・掴みづらいと表現するよりは法則性がある、と表現すべきかもしれません。

澄川駅は、天神山の南側から現在の自衛隊駅付近まで続く茨木農場の一部から始まりました。

しかしまず、鉄道路線自体のお話から始めなければならないでしょう。
現在の札幌市営地下鉄南北線は南区真駒内駅を発し、中央区大通駅を経由し、北区麻生へ到達しますが、
このうち真駒内駅から南平岸駅(正確には平岸駅との中間付近)までのルートは、かつて存在した鉄道路線『定山渓鉄道線』のルートを札幌市が買い取って地下鉄路線にしたものです。

かつての定山渓鉄道はその名の通り定山渓温泉が到達点であり、石切山(現在の石山)、藤の沢(現在の藤野)、簾舞などの南区郊外を経由したことも有名な話ですが、一方で定山渓温泉とは反対側の終点については、郷土史に少し詳しい人間でないと分かりません。

定山渓鉄道の始発駅はというと、これは少し詳しい程度では明確な回答が出ないほど複雑なのですが、開業当初は現在のJR函館本線白石駅と同じ場所の、国鉄函館本線白石駅で国鉄(当時)からの乗り換えが可能でした。
蒸気機関車から電気に変わると国鉄への乗り入れなども始まり、便宜上、国鉄千歳線東札幌駅(現在は札幌コンベンションセンターが所在)が始発駅という事になりますが、時代を追うごとに国鉄函館本線苗穂駅国鉄札幌駅などからの乗り入れも可能になり、訳が分からないので、多くの郷土史家は定山渓鉄道だけの駅であり、定山渓鉄道の本社所在地でもあった、定鉄『豊平駅』が始発であった、と便宜上表現する事があります。

『豊平駅』は現在の東豊線『豊平公園駅』とは別の場所にあり、具体的には国道36号線沿い、現在分譲マンション『じょうてつドエルアイム豊平』が所在している場所にありました。

ちなみに『豊平駅』付近には市電(路面電車)豊平線の『豊平駅前停留場』がありました。
市電豊平線とはすすきのから国道36号線に沿って路面を走っていた路線で、これも大変便利なルートです。
…っと、話が逸れてしまいました。

ここで定山渓鉄道の始発部分について詳しく説明をしたのは、定山渓鉄道というのは、何も温泉地に行くためだけの鉄道という訳ではなく、南区の住人が札幌の中心部に出る為に利用する事が出来る鉄道であった、という事です。

さて、それでは澄川駅の成り立ちに話を移してゆきましょう。
まずは鉄道敷設直前の姿として、大正5年当時の国土地理院地形図を見てみましょう。

定山渓鉄道は大正6年に開通し、白石駅と定山渓駅とを結びましたが、開業~大正時代は澄川地区の人口は少なく、茨木農場や阿部造林を通り抜けてゆくのみでした。
…と、言いますか、開業当時は豊平駅から石切山駅の間に駅は1つもありませんでした。

開業当初、定山渓鉄道は蒸気機関車でしたが、高低差やカーブの多いコースの為、蒸気機関車ではパワー不足により登坂が困難となる場合が多く、運行本数も少ない上にトラブルも多い、非常に難儀していたようです。

その為、昭和4年には電化され、定山渓鉄道は”電車”となりました。
これに伴って、前述した始発駅の問題も出てくる訳ですが、それと同時期の昭和5年茨木與八郎周辺の地主の連名で、澄川…当時の精進川地区に駅の設置を求める陳情書が定山渓鉄道に対して提出されます。

条件としては定山渓鉄道側に駅の用地を無償で提供するというもので、昭和8年、陳情書に基づき茨木農場の北側の一部が駅の用地とされ、『北茨木停留所』が設置されたのです。
これこそが、現在の澄川駅とほぼ同一位置に所在する、現在の澄川駅のルーツなのです。

現在マックスバリュがある場所はかつてフードセンターでしたが、更にその前は別の建物で定山渓鉄道駅員の社宅があったようです。

駅名は俗説として既に“関に”『茨木駅』があったため、茨木停留所とされたとされています。
これは『郷土史すみかわ』に記載された内容で、色々な書籍にも引用されていますが、インターネットで検索してみると関東に『茨木駅』なる駅があった記録は見当たりません。
一方で、大阪府茨木市にはJR西日本『茨木駅』があり、こちらは明治9年開業ですから、『郷土史すみかわ』の記載は恐らく誤っているのではないか、と考えています。

前回も書きましたが、まー、郷土史ってのはそんなモンなのです。
『郷土史すみかわ』も昭和56年の著書ですし、地元の有志が中心となって作成されたものですから、過剰に神聖化してはいけません。

同様の経緯で頭に『北』の文字が付いた駅として、当時の広島町・現在の北広島市にある『北広島駅』があります。
(広島県広島市に広島駅がある為、駅名が同一となるのを避けて『北広島駅』とした。)
また、本筋は以上のような経緯でしょうが、茨木農場の北側、という意味もあるのではなかろうか、とも考えています。

停留所開設の翌年、昭和9年には市立札幌病院付属静療院が開院します。
これは誤解を恐れずに言ってしまえば精神科の病棟で、『窓に鉄格子がある病院』です。
郷土史においては悪印象を持つ人もいたようですが、一般の外来患者も診察してくれた、という話も残っています。

時代は前後しますが昭和25年当時の国土地理院地形図を見てみましょう。

…戦後になっても静療院以外の建物は殆どなく、北茨木の周辺は水田とリンゴ畑だけです。

この地区が住宅化されるのは戦後の農地解放があってからの事ですから、駅の利用の殆どは医師などの病院関係者や外来患者、見舞客によってされていたそうです。
また、茨木農場の小作人家族たちが利用する事も多かったようですが、
当時の地元の住民達によっても事情はそれぞれで、
お金がもったいないのでほとんど電車には乗らなかった、という人もいれば、
中心部へは馬車で直行していたのであまり利用しなかった、という人もいれば、
豊平駅を経由して中心部へ行く事が出来たので大変便利だった、という人もいます。

この辺りの主観の入りっぷりを楽しむのも、郷土史を読む醍醐味ですね。

住人達の家庭の事情は置いておいて、定山渓鉄道が廃線するまで、豊平から北茨木の間に停留所はありませんでしたから、これは当時としてはかなり便利な立地である、と言えるでしょう。

従来、澄川地区は平岸村(平岸町)の一部であって、また、平岸開拓使当初に士族達に分け与えられた自作農地であったのに対し、澄川明治後期に茨木氏らが土地の払下げを受けて小作人に開拓させた小作農地です。
小作人となる人々は戊辰戦争で敗れた士族よりも階級が下の農民の次男三男だったようです。
『郷土史すみかわ』では『平岸の人たちには”精進川”や”澄川”ではなく“山の上”と呼ばれていた』という、澄川と平岸の間でのヒエラルキーを感じさせるような逸話も記録されています。

平岸と澄川の利便性が逆転し、対等の地位に立ったのはこの頃であると言ってもいいかもしれません。
(定山渓鉄道から地下鉄になってから平岸駅と霊園前駅が設置されますが、先に設置されていた澄川駅はバスターミナルと西岡方面へのバス網があるため、利便性で勝り、澄川駅の乗降客数は平岸駅や南平岸駅を上回る結果となっています。)

昭和19年周辺の地名は精進川から『澄川』へと変わりますが、駅名はそのまま『北茨木』でした。
これは公式には『茨木與八郎氏の功績を称える為』とされていますが、農地解放は翌々年の昭和21年の事で、昭和19年は第二次世界大戦末期のことですから、本当の処、地主を無視して駅名を変える訳には行かなかったであるとか、駅名を変えている余裕はなかったであるという理由の方が信憑性があるのではないかと感じます。

また、この地名変更に伴っては、当時の豊平町字平岸の側から『平岸五区』とするよう求められたが、地元の強い要望によって『澄川』という独自の地名となったという経緯があり、この辺にも澄川民のコンプレックスや澄川と平岸のヒエラルキーを感じさせられます。

昭和24年8月に停留所から『北茨木駅』へと昇格し、翌昭和25年には昭和21年『自作農創設特別措置法』に基づく小作人への土地分配が実施され、澄川地区は一気に住宅化への舵を切ってゆくことになります。

これにより澄川では数々の住宅団地が造成されてゆきますが、それはまた別の機会で述べるとして、『北茨木駅』は昭和32年『澄川駅』へと改称されます。
やっぱり茨木與八郎氏とのしがらみで駅名を変えられなかったんだなー、などと思いつつ、そうこうしている間に札幌にもモータリゼーションの波が押し寄せます。

地上を走っていた定山渓鉄道は踏切を設置していましたから、周辺を走る自動車の交通に悪影響を与えており、渋滞踏切での交通事故も多発していました。

また、定山渓鉄道が鉄道を補完する目的で戦前から参入していたバス事業についても、戦時中燃料不足で休止していたものが再開され、需要が拡大してゆきます。
バスへの乗車率が高まるとともに鉄道の乗車率は悪化し、鉄道部門は慢性的な赤字経営となってゆきます。

その上、昭和40年9月には相次ぐ台風で線路を始めとする鉄道設備に甚大な被害があり、全線の復旧までに1ヶ月近くの期間を要しており、その間に更に客離れが進んだようです。

挙句、昭和42年には北海道警察本部から決定的な最後通告が突き付けられます。
これが『定山渓鉄道に関する交通問題の根本解決について』という文書です。
定山渓鉄道、札幌市長、北海道知事、北海道開発局長(=国)に対し、四者で協力し線路を高架化する事で渋滞を解消するか、さもなくば廃線するように求める文書です。
この文書は昭和47年に開催を控えた札幌オリンピックをも見据えたものだったようですが、この文章は当時の新聞にも取り上げられ、『定鉄は早く廃止を』などという見出しまで付けられています。

定山渓鉄道としても、赤字事業であったという事もあり、また、札幌オリンピックに合わせた札幌市営地下鉄との兼ね合いもあり、昭和44年定山渓鉄道は廃業され、線路用地は札幌市に譲渡されました。

そうして南区開発の礎となった定山渓鉄道は消え、時代は札幌市営地下鉄の時代に移ってゆきます。

長くなってしまいましたから、札幌市営地下鉄『澄川駅』になってからの記事は、またいつか、日を改めて気が向いた時に書かせて下さい。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』④ 澄川西側の大開拓『茨木農場』の顛末


当記事は平成28年9月5日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、澄川駅~自衛隊駅の範囲、
現在の澄川の西側・北側を開拓したのは茨木與八郎氏であり、
木挽山の東側・南側を桜山付近まで開拓したのが阿部与之助氏だと紹介しました。

2つの道路を絡めて説明すると、『平岸澄川線』側が茨木與八郎氏のエリア
『澄川厚別滝連絡船』(≒『器械場道路』)側が阿部与之助氏のエリアだという理解で良いでしょう。
ただし、『器械場道路』の北側部分(天神山~澄川駅付近)は茨木氏のエリアです。

今回は現在の澄川の中心部を成す、『茨木農場』がどのように始まりそして終わったのかを紹介します。

シリーズ『澄川』①では茨木氏について下記のように説明しています。
>茨木与八郎という人は小樽市祝津で鰊漁や海運と生業としていたものの、
>海難事故で船を失って以降は札幌の各地で農場経営を行なっていた人です。

(2016.03.15『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

これは『郷土史すみかわ』の記述を元にしたもので、この中では明治10年に北海道に渡って来たことになっていますが、小樽市祝津にある『茨木家中出張番屋』の展示と記載内容に齟齬があります。

以下では平成22年に修復され公開を開始した『中出張番屋』の展示を基に紹介します。

茨木與八郎氏は天保12年(1841年)に山形県で生まれた方で、

万延元年(安政7年)、19才で北海道に渡り、当初は雇われて鱈漁や鮭漁に携わっていたそうです。
明治3年になり、茨木氏29才の時、小樽の祝津に漁場を借り、鱈釣り漁師として独立し、その後、明治10年に多額の資金を投じて鰊漁場を開き、青山家や白鳥家と並ぶ『(小樽)祝津鰊御三家』と数えられるほどの隆盛を誇りました。

その後明治中期には札幌豊平、手稲(旧称:軽川)、旭川の北に所在する比布など、複数個所で農場経営を行なったものの大正中期に逝去。
その後は二代目茨木與八郎が襲名され、漁場や農場経営、造船業や倉庫業などの多角的経営を行なって来た、とされています。

2つの資料を照らし合わせると北海道に来た時期の他にも、
郷土史すみかわでは海難事故で船を失って農場経営に専念したと書かれている一方で、中出張番屋の展示では昭和3年に昭和天皇に鰊粕を献納した事になっており、ニシン漁をやめたとか、船を失ったというような話には言及されていません。

では、新しく作成された中出張番屋の展示の方が正しいかと言えば、そうとも言えません。
中出張番屋は祝津町会と振興団体であるNPO法人たなげ会によって運営されていますが、茨木家の代表的な農場の『茨木農場』が『札幌豊平』となっており、展示としての正確性を欠きます。

当初の茨木農場は『札幌郡平岸村』であって、明治35年以降は合併により『札幌郡豊平町(村)大字平岸』という地名になりました。
『平岸』ならばともかく『札幌豊平』と表現するのは、理解不足であると言わざるを得ないでしょう。

より正確を期すのであれば『札幌郡平岸村(現在の澄川)』とするのが妥当ではないでしょうか。
(おそらく、豊平町時代の資料を見て『札幌豊平』としたのではないかと思います。)

また、おなじ中出張番屋の展示とリーフレットの間で、北海道へ渡った時期が、万延元年と安政7年という風に、表記がブレてしまっています。
1860年の中途で改元した為、同一の年なのですが、表記ブレは少し困惑しますね。

実際のところ、郷土史というものは年配者の伝聞限られた資料から構成されているもので、こういった齟齬はやむを得ない部分がありますから、『そんなもんだ』という心構えでアバウトに行きましょう。

さて、ここからは『郷土史すみかわ』の記述を元に、茨木農場について見てゆきます。

当初、澄川一帯は開拓使に『官林』(=国有林)と定められ、一般人による伐採が禁じられていましたが、
明治15年の『開拓使官有物払下げ事件』をきっかけに、徐々に払い下げが始まってゆきました。

澄川の地を一番最初に開拓したのは茨木與八郎氏という訳ではなく、福岡から来た『筑前衆』やのちの丸井今井創始者と血族関係にある『石田開墾』など、澄川の開拓を試みた人々がいたのですが、多くの方が冷害によって澄川を去ってゆきました。

元手もなく身一つで北海道に来た人に、土地の痩せた澄川の開拓はあまりに厳しかったのでしょう。
そこで登場するのが大資本家である茨木與八郎氏です。

茨木農場は茨木與八郎氏が明治28年に現在の自衛隊前駅付近の土地の所有者と
水利権付きで土地の賃貸契約を結んだのが最初で、明治29年から次々に土地を買い増し、農場を展開してゆきました。

『水利権』とは、河川や用水路などの水を利用したり引き込む為の権利です。
茨木農場は毎年、水利権利用料として『水年貢』を阿部与之助氏と豊平の西藤喜作氏に米を支払っていたそうです。
阿部与之助氏と言えば『紅桜大擁壁』の記事でも紹介している、『緑ヶ丘団地』をはじめ、澄川の山間部を切り開いた大地主ですから、精進川上流の水利権を有していたという訳です。

明治期の札幌の農業というのは、ホーレス=ケプロンなどの所謂『お雇い外国人』が移入させた、欧米(主にアメリカ)から持ち込まれた日本にとって新しい品種の野菜を、北海道に適した作物は何かあれこれと試行錯誤するというスタイルでした。
現在も北海道の代表的な作物であるジャガイモ・タマネギもそうして持ち込まれたうちの一つです。

また、札幌の郷土に少し詳しい人には有名な話ですが、当時の札幌はリンゴの名産地でもありました。
特に平岸村で生産されたものは『平岸リンゴ』としてブランディングされ、日本全国に出荷された他、最盛期には海外への輸出がされた事もありました。
リンゴが育てられたのは、平岸村の周辺は土地が枯れており、他の作物は育たないとされた為だったそうです。

リンゴは病気に弱く手間がかかるものの、他の作物よりも高値で流通したため、珍重されたようです。
リンゴについても北海道では在来種ではなく、欧米種が栽培されました。

ですから、この地区の『農場』というとリンゴ農園なのかな、という処なのですが、『郷土史すみかわ』によると、茨木與八郎氏は当初リンゴの栽培を禁止していたと言うのです。

これは、リンゴが苗木を植えてから果実が出来るまでの期間が長い為、『畑作の収入が減り、小作料を減額しなければならない心配があった』(同81ページ)と記述されていますが、まぁ、経営的に考えて、初期投資が大きく回転率が低い作物を嫌った、という事なのでしょう。
他にも樹木を植える事によって『永小作権』が発生するのを避けた、という側面もあるようです。

それでは茨木農場では何を作ったのかと言えば、意外にも『米』を作っていたのです。

今でこそ『ゆめぴりか』がコシヒカリを抜くほどの勢いを持っている北海道米ですが、札幌を含む北海道は寒冷で、かつ当時の技術力はまだまだ未発達で、稲作には適していませんでした。
開拓から昭和頃に至るまで、札幌の農家の人々は何とか米を作ろうと試行錯誤していましたが、冷害や病害が発生し、本州に比べると米の収量は大きく劣っていたと言われています。

最たる例として、現在も残る地名に白石区『米里』(と東米里)があります。
稲作が繁栄するように、という願いを込めて付けられた地名ではあるものの、実際には稲作は困難を極め、結局タマネギの産地になってしまった、という切ない顛末です。

年配の農家の方に聞くと、それでもお米が食べたくて水田をやっていた、という家も多いのですが、収量が伸びずに自家用米だけの生産になる事が多く、あまり商売にはならなかったようです。

さて、ここで大正5年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

茨木農場の周辺にはリンゴ畑(果樹園の地図記号)は少なく水田が広がっている事が分かります。
しかし、ニシン漁網元の大資本をもってしても稲作の収量の改善は叶わなかったようで、大正14年にはそれまでの方針を転換してリンゴの生産を奨励するようになりました。
平岸リンゴの普及などで、『リンゴは儲かる』という常識が確立したためでもあるようです。
(前述したように、現在の澄川は平岸村の一部でしたから、澄川のリンゴも『平岸リンゴ』です。)

時代が下っても水田が無くなる訳ではありませんが、天神山付近や現在の自衛隊前駅付近などに果樹園が徐々に増えてゆきます。

このように、水田からリンゴ畑への転換が進んでゆく中で、第二次世界大戦が勃発します。
前述したように、リンゴは人手がかかり、肥料や農薬も多く必要な作物です。
その為、十分な肥料と人手がない戦時中には、手間がかかるリンゴは壊滅的な状態となってしまいました。

昭和20年の敗戦
を契機に、真駒内種畜場には米軍が進駐し、『キャンプ・クロフォード』とされました。
(のちに昭和30~34年に『キャンプ・クロフォード』は撤退し、現在は陸上自衛隊真駒内駐屯地となっています。

そして、GHQによる戦後改革の目玉、農地改革が実行されます。
農地改革の実行に至るまで農地調整法など戦後政府とGHQの間とで紆余曲折はあったものの、GHQの強い要請により昭和21年『自作農創設特別措置法』が成立します。

これは下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
 ・不在地主のすべての小作地
 ・在村地主の約1町(北海道4町を超える小作地
 ・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

1町の面積は3000坪(9900㎡)≒1ヘクタールですから、
北海道の小作人は相当に広大な土地を手に入れる事になったのです。
また、小作人は土地の代金を割安な利子で分割払いする事が出来ましたから、
土地代金については、数年で返済してしまう家が多かったそうです。

そして、茨木農場の地主は祝津に住む不在地主の茨木家でしたから、澄川一帯は茨木家に任され茨木農場を取り仕切る鳥居家を始めとした小作人たちに分配されたのです。
(前述の2代目茨木與八郎氏がいつ頃まで存命であったのかは、調べられませんでしたが、
 『郷土史すみかわ』によると終戦後、農地改革の時点で名前が挙がっている為、
 3代目への襲名がされていなければ存命であったようです。
 …まぁ、郷土史の正確性は前述の通りですが。)

『自作農創設特別措置法』の成立は昭和21年ですが、実際に再分配が行なわれたのは昭和22~27年の間です。
私の知る限りでは、札幌市での再分配は昭和25年に行われたものが多いようです。

茨木與八郎氏が澄川に所有していた78.2ヘクタールの土地が国に安価で買い上げられ、昭和10年時点での小作人は21世帯、この法律では世帯ごとに農地が割り当てられましたから、単純計算で、1世帯あたり3.7ヘクタール≒1万1千坪の土地が配分されたことになります。
(法律で自作農の面積の上限は12町とされていますから、この配分率は過大とはされません)

農地改革後、昭和28年版国土地理院二万五千分の一地形図を見てみましょう。

稲作も継続して行われているものの、果樹園の地図記号がかなり増えています。
当時の農家の方の談でも、あまり良い米は取れなかったという事ですが、それでもかなりの面積が水田になっている事を考えると、日本人の白米信仰はかなり凄まじいものがある、と言えるかもしれません。

さて、分配された農地ですが、それから10年程度経過した昭和30年代以降、元小作人が土地を切り売り・分譲をして宅地化されてゆきます。
戦時中に充分な手入れが出来ずに荒廃したリンゴ畑を復興するより、都市化の進む札幌においては宅地化してしまった方がよい、という判断だったのでしょう。

そう考えると、豊平区・南区が戦後急速に宅地化していった背景には、案外『リンゴの産地であったから』という理由があるのかもしれません。
(タマネギが主要な作物である東区や白石区の宅地化が進むのはもっと後の話です。)

当時の造成分譲地は、通常1区画100坪で区画されますから、道路に10坪分を供用したとして、小作人世帯あたりで1万1千坪の土地は、100区画の宅地に化けた訳です。
澄川に限らず、このような農地改革と都市化の形態は札幌市の全域で見られ、それが現在における札幌の地主や富裕層の富の根源であると言えるでしょう。

昭和40年代に入ると、昭和47年の札幌オリンピックに対する期待で宅地化は更に進んみます。
昭和44年に定山渓鉄道が廃止されたのに代わり、昭和46年には札幌市営地下鉄が開業します。

こうして見てゆくと、初代茨木與八郎氏が雇われの漁師から身を興し、ニシン漁で成功し、
広大な茨木農場を築いたにも関わらず、そのすべてが国家に収用されて小作人に配分され、
それから僅か10~20年のうちに切り売りされた対価は全て元小作人の物になった、というのは、
現代の資本主義的・自由主義的な感覚からするとかなり酷な処遇であったように感じますが、
とはいえ、農地改革がなければ戦後日本の工業化・都市化もなかったと考えると、軽々に批判する事も出来ません。

ちなみに、茨木農場を取り仕切っていた鳥居家(初代:鳥居久五郎氏)は、その後、澄川駅周辺の地主となります。
『郷土史すみかわ』の編集の中心になった4代目の鳥居久徳氏は澄川2条1丁目に保育園を開園し、
現在、社会福祉法人札幌弘徳苑『澄川ひろのぶ保育園』の理事長である5代目:鳥居敬徳氏の代に移っています。

…今回は澄川の茨木農場の始まりから終わりに至るまでの経緯を紹介しました。
開拓使による開拓の限界と『官有物払下げ事件』による規制緩和、ニシン漁網元の大資本による大規模な農場経営と戦後GHQの農地改革、そして札幌オリンピックと連動した宅地造成…
澄川は歴史の大転換期に応じて姿を変えていった地区である、と言う事が出来るでしょう。

不定期連載、シリーズ『澄川』はまだまだ続きます。
次回は阿部与之助氏の開拓の記事や定山渓鉄道の記事などでしょうか・・・

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

最後にオマケとして、大正5年と昭和28年の地形図を比較してみましょう。

 

シリーズ『澄川』③ 『器械場道路』と『澄川通』の不思議な関係


当記事は平成28年8月29日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『澄川』では、現在の澄川を形づくった道路として、澄川で第1番目の道『本願寺道路』ではなく、特に第2番目の道『器械場道路』そして第3番目の道『平岸澄川線』に着眼して説明してきました。

と、言うのも『本願寺道路』は明治1年~4年に開発された道路で、天神山北端から現在の国道453号線を経由し、国道230号線のルートを辿る、札幌と函館方面(≒当時の本州へのルート)を結ぶ重要な街道でしたが、その後、明治6年に中心部から千歳方向へ向かい、苫小牧・帯広を経由する、札幌本道…またの名を室蘭街道、現在の国道36号線が主要な道路となり、『本願寺道路』はあまり使われなくなっていったという経緯があります。

また、『本願寺道路』自体の所在も澄川の外縁をなぞる形で、平岸や真駒内との境界線となっているという側面がありますから、澄川そのものの歴史を辿るにあたっては、必ずしも適切ではない、と判断したのです。

澄川の歴史は明治期の木材供給拠点としての役割に端を発しますから、その木材を滝野のアシリベツ器械場から運搬する為の『器械場道路』は、澄川の変遷を紐解いてゆくにあたって最適な道路であると言えるでしょう。
(現在の自衛隊前駅…『木挽小屋』は、第3の道路『平岸澄川線』の経路にあり、こちらも明治~戦前の澄川の移り変わりを追ってゆくのに最適な道路です。)

当初、私は郷土史を読み込むにつれ、『器械場道路』『平岸澄川線』について理解を深めてゆきました。
のちのち郷土史に加え、国土地理院地形図などを収集するにつれ、私に大きな思い違いがあった事が判明しましたので、この場でお詫びしなければなりません。

私は過去2回の記事で『器械場道路』のルートについてこのように記述しています。
>概ね現在の『澄川通』と同じルートと推定されますが、澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校までのルート以降は、そこから更に『澄川厚別滝連絡線』の山の中の一本道へ繋がります。この、アシリベツ器械場から澄川まで陸運ルートが通称『器械場道路』です。
『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』より)

『木挽山』の東側を抜け、現在の『澄川通』とほぼ同様のルートで、澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校の付近を経由したのち、現在の『滝野すずらん丘陵公園』にあった『アシリベツ器械場』に至る道路です。
『シリーズ『澄川』② 大正の澄川を形成する『100年道路』の全容』より)

えーと、ごめんなさい。現在の『澄川通』のルートを誤解していました。
私は当時手元にあった資料から、『器械場道路』の大まかなルートを澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校→…→滝野すずらん公園という風に理解し、そこから『器械場道路』≒『澄川通』という前提を以って上記のような記述をしました。

大まかにはそのルートで間違いはない
のですが、大正5年版の国土地理院地形図と現在の地図を詳細まで照らし合わせると、『器械場道路』は『澄川通』ではないどころか、『澄川通』というものの定義自体が曖昧であるという事が分かってきました。

詳細な解説を文章にすると兎に角ややこしいですから、まず地図を見てみましょう。
現在の『澄川通』は、南平岸駅の坂を昇った頂上の『羊ケ丘通』から分岐し、平岸高校の東側→コープさっぽろ澄川店の東側→澄川学校の“東”側→五輪通と公差する旧『五差路』→澄川南小学校の“西”側→紅桜大擁壁…というルートを通っている道路の通称です。

しかし、道路法上の分類で市道を分別してゆくと『澄川通』自体が、以下の4つの市道の断片からなる道路で、道路法の上では一体の道路ではないのです。
(ただし、都市計画法の上では『澄川通』という一体の道路だったりするのでややこしいのですが…)
  ①市道『美園西岡線』
  ②市道『澄川通線』
  ③市道『澄川厚別滝連絡線』
  ④市道『澄川緑ヶ丘1号線』 (記載は北から順。)

更に現在の『澄川通』のルートのうち、②『澄川通線』のルートは、平成になってから新たに出来たバイパス道路であり、それまでの『澄川通』は、澄川中学校の“西”を走る③『澄川厚別滝連絡線』だったのです。
ですから、地元に古くから住む方は、澄川中学校の西側の旧道を『澄川通』と呼んでおり、私もそれに倣って、『澄川通』のルートを、澄川中学校の西側と認識していたのです。

その証拠に、1981年当時のゼンリンの住宅地図を見てみると、『澄川通』が澄川中学校の“西”を走っている事が分かります。
(行政文書はどんどん更新されてゆくので過去の名前など分からなくなってしまうのです。
 そういった意味で、民間の文書や古い資料が非常に役に立ってゆきます。)

うーん、文章にするととんでもなくややこしいですから、もう一度最初の地図を見て下さい。
赤線が市道『平岸澄川線』青線が市道『澄川厚別滝連絡線』黄色が青と重複しない範囲の『澄川通』です。

地図の『南区』と書いてある左上は『五差路』といい、澄川5条・6条・9丁目・10丁目の交差点です。

そこまでは一致した『澄川通』『澄川厚別滝連絡線』『五差路』から分岐し、『澄川通』澄川南小学校の“西”を通って『紅桜大擁壁』に終着します。
一方の『澄川厚別滝連絡線』は、澄川小学校の“東”を通って、10kmほど先滝野すずらん公園・滝野霊園(旧:アシリベツ器械場)で終着します。

…ここまで読んで下さった方にはもうお分かりでしょう。
そう、『器械場道路』≒市道『澄川厚別滝連絡線』なのです。

もちろん140年の間に微小な経路変更はありますから完全なイコールではありませんが、前回も紹介した大正5年版国土地理院地形図と見比べてみると、ほぼ同一のルートを通っている事が分かります。

…と、言いますか、市道の名称が既に『澄川厚別滝連絡線』な訳で、これは『澄川アシリベツ滝連絡線』と読むのですから、そのものズバリな名称なのです。

『五差路』より北側での『器械場道路』との経路の一致についても理解していたのに、『五差路』から南側のルートと『澄川通』の相違について考えが至らなかった自分の浅慮が恥ずかしいですね。

で、もう一度現在の地図を見てみましょう。

青い細線は法律上、現在の『澄川厚別滝連絡線』ではありませんが、過去に『器械場道路』だったルートです。
(赤い細線も同様で、過去に『平岸澄川線』だったルートを示しています。)

戦後から平成にかけて真っ直ぐに作り直された『澄川通』とは異なり、区画された住宅街をぐねぐねと這うように通っている事がよく分かりますね。
平面上でも蛇行していますが、実際には坂道・高低差もかなりのものです。

前回も書いた通り、元々が『尾根道』『沢道』であるこれらの道路は、自然の地形の通りやすいルートを通っていますから、人工的な区画によるものではないのです。

そして、一度拓かれた道路は、その後その周辺が宅地化されても、何か特別な事情がない限りは残り続けてゆくのです。
(戦後の農地解放などで道路が国有地、道路以外が民有地という色合いが強くなると、以降は国有地と民有地の交換などは行われず、大規模な区画整理がない限り、そのまま保たれる為。)

現在、交通の手段としての役割は『澄川通』に取って代わられて、どちらの道路もメインストリートとは言い難い在り様ですが、かつて、100年前はこれらの道路が札幌への木材供給を支えていたのです。

そう考えると、住宅街の中を通る何の変哲のない道路にも、愛着を感じられます。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ

シリーズ『澄川』② 大正の澄川を形成する『100年道路』の全容


当記事は平成28年3月17日、8月18日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

さて、前回は明治期の澄川の概要を紹介しましたが、その中で2つの道を紹介しました。
札幌開拓の当初に開削され、平岸を起点として伊達に到達する国道230号線の元となった道『東本願寺道路』
そして現在の滝野=アシリベツ器械場と札幌を結ぶ、木材の運搬路『器械場道路』
今回は澄川を形作った道路について、紹介してゆきましょう。

私が多用する資料、大日本帝国陸地測量部が大正5年に発行した地形図を見てみましょう。
広範囲に渡る為、地形図のうち『札幌』のほか『月寒』『石山』『輪厚』の、4つの地形図を合成したものです。
ちなみにこの100年前の地形図に記載されている道を私は『100年道路』と呼んでいます。

等高線が複雑で道路や河川との見分けが付きづらいですね。
どの位置に何が、というお話をするにあたっての説明もしづらいので、色を付けてゆきましょう。

緑色の線『本願寺道路』青色の線『機械場道路』赤色の線『平岸澄川線』に挟まれているのが木挽山です。

・・・『平岸澄川線』?(; ・`д・´)

ここで始めて出てくる道路の名前です。

実はこの『平岸澄川線』こそが、『本願寺道路』、『機械場道路』に次ぐ澄川で3つめの道路なのです。
明治29年に陸地測量部が作成した地形図では、『器械場道路』は記されていますが『平岸澄川線』の形跡は見当たりませんから、大正5年までの10年の間に開削された道路だという事のようです。
札幌は湿地帯であったので、明治15年以降、『官林』澄川が民間に払い下げられ、入植者が増えていってもしばらくの間は直線の道路が出来なかったそうです。
しかし、入植者が増えるにつれ、道路の必要性が増し、木挽山の東側を走る『器械場道路』とは逆…西側に道路が形成されてゆきました
これが『平岸澄川線』の始まりなのです。

現在の姿はどうなっているのか、現在の地図と見比べてみましょう。

現在の『平岸澄川線』は南平岸から東光ストアまで南北に真っすぐの道路ですが、大正時代の当時はこれが澄川駅南側付近で屈曲していました。
大正7年頃澄川駅南側付近の屈折が改められて直線となった訳ですが、それよりも奥地では、現在に至るまでくねくねと屈曲したルートを辿っています。
 
これは、もともと山道であることと寒冷地である為に路盤が悪く、道路整備が非常に難しかったが為に、少しでも水はけがよい所を選んで道にしているうち、直線とはならず屈曲したルートとなってしまったという事情があるようです。
 
大正から昭和に至る経緯を『郷土史すみかわ』のP201~202を引用しましょう。
”雪解けや雨降り後はすぐ泥濘になるので、これの手入れには随分と人手を要したという。
 昭和30年代に入り、定鉄の定期バスが通った時などは、修理に大変な苦労をしたという。
 このころから住宅も増え車の往来も多くなったので、昭和33年自衛隊の協力を得て、道路の拡幅と当時の定鉄真駒内駅までの延長工事が行われた。
 しかし路盤整備まではおよばなかったので、やはり泥濘に悩む光景はしばらくの間続いた。
 そして昭和38年簡易舗装が施され、ようやく土埃りの道から解放された。
 次いで冬季オリンピック大会を迎えるに当たり、主要幹線として真駒内団地まで改良工事が行われ、りっぱな道路となって今日の繁栄にいたっている。”
 
…と、まぁこれは平岸通に関する文書で、ルートとしては平岸澄川通と完全には一致しませんが、概ねこのような歴史的経緯があった訳です。
『平岸澄川線』でも『平岸通』以外の住宅地を通る区域に関しては、現在、特別な道路であるという印象もなく、他の道路と同じように扱われていますが、澄川の他の道路と比べても大変歴史の古い道であるという事が今回初めて分かりました。
 
『平岸澄川線』『ただの道』ではなく、澄川の礎になった三番目の道なのです。

ここまでのお話の中の『100年道路』を整理しましょう。

澄川第1の道は札幌でも有数の歴史のある道『本願寺道路』で、これは天神山の北端から西側を抜け、豊平川を渡り、中山峠を抜け、大まかには現在の国道230号線と同様のルートで伊達方面に至ります。
明治4年以降には平岸街道と接続し、中心部(本府)へ接続する道路となりました。

第2の道『器械場道路』は、『本願寺道路』を天神山北端で分岐し、東側を通り、『木挽山』の東側を抜け、現在の『澄川通』とほぼ同様のルートで、澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校の付近を経由したのち、現在の『滝野すずらん丘陵公園』にあった『アシリベツ器械場』に至る道路です。

そして、第3の道『平岸澄川線』は、本願寺道路と器械場道路に次ぐ古い道であり、『器械場道路』から現在の澄川駅南端付近で分岐『木挽山』の西側を通り、現在の東光ストア付近からニョロニョロと蛇行しながら桜山付近まで伸びてゆく道路です。

ところで、地形図を見ていて非常に興味深い事に気付きました。
『器械場道路』は『尾根道』『平岸澄川線』は『沢道』なのです。

地形図には標高が記載されていますが、『器械場道路』は必ず山の稜線…つまり『尾根』を辿っており、一番標高の高いルートを追って道が通っています。

一方で『平岸澄川線』は精進川に沿った低地…つまり『沢』を辿っています。

『尾根』は、一番標高が高いルートであり、古来から道としてよく利用されます。
一番有名な尾根道としては紀伊の熊野古道の中辺路があります。

何故、高低差の多い尾根が道として利用されるのか?
まず第一に、標高が高い事で、見晴しが良く、現在地が分かり易い。
山で道に迷ったら下山するのではなく、頂上へ向かう方が良い、というのと同じ理屈です。
当時の澄川は原生林の状態ですから、自分がどこを歩いているか把握するのも困難な環境です。
そのような中で季節を問わず道としての役割を果たす為には、まず位置関係が分かり易い事が重要です。

第二に、尾根は堅い岩盤で出来ている事が多く、地盤が良い。
地盤が良いという事は地形が変わりづらく、道としての信頼性が高いという事です。

ここまでが本州でも共通する尾根道のメリットですが、雪国である札幌では、それに加えて第三のメリットがあります。
それが尾根道は雪に強い、という事です。

雪は風に吹かれて窪みに溜まり、積れば崩れて低地に落ちますから、谷地は低地は自然に雪深くなり、冬季の人の通行には適しません。
一方で、尾根では風や雪崩によって雪が移動してゆきます。
また、本格的な冬が過ぎた後においても、気温の低い北海道においては地面は湿気を含み、足場は悪いままですから、冬の間に雪が積もる事が少ない尾根は、冬以外でも利用しやすい道であったと言えます。

そのような理由から、山地において道が拓かれるのは、まずは『尾根』なのです。
『器械場道路』には、そういった『尾根道』としての性質があるのです。

一方で、尾根のデメリットとして水場が遠いという点があります。
言うまでもなく水は低きに流れますから、高所である尾根には水場が少ないのです。

開拓が進み、土地を開墾して農業を営もうという時に、生活用水も農業用水もないというのでは話になりませんから、『尾根道』が拓かれた後には、水場に近い『沢道』が拓かれてゆきます。

『沢道』と言っても、河川改修の施されていない原始河川には、豪雨などによって氾濫したり、少しのきっかけで川の流れが変わりますし、低地であるほど湿気も多く、利用するに適さない状態にありましたから、あまり川に近い立地ではなく、川よりは一段標高の高い場所に位置します。
地形図の標高差をよく見ると、山よりは標高差がなだらかで、かつ川より高い場所を辿っている事がよく分かるはずです。

今ほど技術が発展しない時代に道が通るのは、昔の人の気まぐれや偶然ではなく、合理的な背景があっての事なのです。

このように古くから拓かれて来た立地は、自然地形として安全性が比較的高く、浸水被害や土砂災害などの自然災害に比較的強いと言えるでしょう。
(ただし、地形が造成によって変更されるなど、例外もあります。)

今回抜粋した国土地理院(旧:大日本帝国陸地測量部)の2万5千分の1地形図が、札幌のほぼ全域について詳細に整備されたのは大正5年(1916年)の事ですから、今からちょうど100年前の出来事である、と言えます。
(これ以前の地形図は縮尺が5万分の1で細かい道まで読み込むには難があります)

明治2年に開拓使が置かれてから40年以上が経過していた当時においても、100年前の札幌はまだまだ未開の地で、中心部以外は人家もまばらで農業を始めとした第一次産業が基盤でした。

そんな中でも、人々の生活にとって『道』は必要不可欠で、市街化によって住宅地となった現在においても、形を変えて使われ続けている『道』はいくつもあります。

私はこれらの郊外の道路を『100年道路』と定義付け、現在にどのような形で残されているのか…
メインストリートのままでいるのか、或いは別の道路に取って代わられたのか、そういった視点から市街形成や価格分布、未来予測といった、不動産のイデアというものに近付いてゆきたいと考えています。

次回は『器械場道路』が、100年を経て、現在どのような形になっているか、紹介してゆきたいと考えています。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ