さて、シリーズ『植物園の耳』も第4回になりました。
前回は2つのナゾのうち1つ目のナゾが一応の解決を見ました。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
メム(湧水)による川の流れから、このような歪な形状で分断された、というのがその一応の答えです。
しかし、それは完全な回答ではありません。
『植物園の耳』以外にも北西角、西、東など、川によって分断されている場所はあるのですから、『この形になった理由』は川であっても、植物園の敷地の一部とならず、民有地として取り残された理由は説明出来ない訳です。
そのナゾは2つ目のナゾとともに、今回解き明かしてゆきこととしましょう。
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?
『植物園の耳』について正しく理解するに至るには、非常に長い調査期間を要しました。
と、言うのも法務局で登記を見ても、色々な郷土史を読んでも、北海道大学の大学史を読んでも、『植物園の耳』がこのような形で残されていることの理由は書かれていなかったからです。
私は様々なアプローチから『植物園の耳』の誕生の経緯を探って来ましたが、その真相に至る為に、2年近くの月日を費やしました。
結論だけをポンと示す、というのは記事的な面白みにも欠けますから、各アプローチごとに判明したことを示したいと思います。
◇フィールドワーク
不動産の調査においては、フィールドワーク=現地調査が最も重要です。
『『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-』で紹介したように現地を確認して疑問点を洗い出し、また関連する場所へも調査へ行きます。
植物園の園内についても、勿論確認をしています。
まずは植物園の案内図で非公開となっている『苗圃』を確認したいと考えました。
何故なら、ここは宮部金吾氏の住居跡地なのです。
現在は植物の苗を育てるための倉庫やビニールハウスがあるだけで、特に何かがある、という訳ではないようです。
航空写真を見ても、特に利用されている形跡は見えません。
植物園内と植物園の耳以外には、偕楽園跡地、北海道大学、知事公館、北海道開拓の村、宮部記念緑地、そして一番遠い場所では当別神社まで足を運んでいます。
本筋に絡む情報は出てきませんでしたが、色々と面白い事実もありましたので、のちのち登場してくるかと思います。
◇地図的アプローチ
前回『『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷』で紹介した通り、物件調査にあたっては、詳細な資料を確認する前に地図や航空写真からのアプローチを行います。
登記を調べるより全体のアウトラインを掴むことが出来、理解を助ける為です。
前回は明治~大正の地図を紹介していますが、勿論昭和から現在に至るまでの集められる限りの住宅地図や航空写真についても収集しています。
しかし、『植物園の耳』の状況は明治期には概ね固まっているため、戦後の事情をあれこれと書いていくのは蛇足かと考え、ひとまずは明治・昭和までで抑えておきましょう。
ただ、せっかく集めた資料ですから『2つのナゾ』を明らかにした後に、気まぐれに記事を書いてゆこうかと考えています。
◇登記的アプローチ
さて、ここからが今回初出の話題です。
不動産の権利関係を調査するにあたっては、法務局で『登記』を調べるのが一番です。
法務局の管轄や調べ方は『A-3 道の所有者を知りたいとき』で解説しています。
まずは『植物園の耳』の現在の地番図を見てみましょう。
このような区画になっています。
土地の地番というものは、分筆をするごとに『親地番』のあとに枝番が付いていきます。
例えば『1番』の土地を分筆した場合には、元の土地が『1番1』それ以外の土地が『1番2』『1番3』という風に枝番が付いて行きますが、仮にこの段階で『1番2』を分筆した場合には『1番2-2』とはならずに、同じ区画の『1番』の中で重複がなく、最も新しい番号、すなわち『1番4』という風に附番されるルールになっています。
この場合の『1番』が親地番という訳です。
つまり、『○番』の○の部分を見れば、元々の形状がおおよそ分かるという事です。
この考え方に従って、過去の地番図を復元してみましょう。
ただし、この考え方はあくまでもおおよその目安であって、正確なところは分かりません。
と、言うのも、2つ以上の土地を合筆をした場合には、若い地番に統一される為、元々の親地番とは違ってしまう事が出てくるのです。
分筆・合筆を繰り返しているとこの辺りが非常にファジーになってきますし、これを調査するには分筆・合筆ごとの地積測量図を取得せねばならず、莫大な調査費用がかかってしまいます。
また、地積測量図自体が昭和35年の不動産登記法によって添付が義務付けられた書面ですから、戦前の分筆・合筆の履歴については追う事が出来ないのです。
しかし、これでおおよその形状は掴むことが出来ました。
次に、明治~戦前の登記記録から所有者を調べてみましょう。
北2条西10丁目1番・・・明治28年3月 星野和太郎氏 取得。
明治34年2月 林文次郎氏 星野氏より購入。
北2条西10丁目2番・・・大正3年6月 内務省 所有権保存。
大正5年11月 札幌区へ所有権移転。
大正6年4月 林文次郎氏へ所有権移転。
北2条西10丁目3番・・・大正6年2月 内務省 所有権保存。
北2条西10丁目4番・・・昭和26年1月 久島久義氏 所有権保存。
北2条西9丁目1番・・・昭和33年2月 社団法人北海道乗用自動車協会 所有権保存
・・・各地番の最初の記載は、一番最初に登記がされた年月と所有者としています。
つまり、それまでは『登記のない土地』であった訳で、登記のない土地というのはすなわち国有地です。
明治のうちに民有地となっていたのは、唯一、北2条西10丁目1番だけであったという事ですね。
そして、大正~昭和にかけて徐々に民有地が広がっていった、という訳ですね。
明治26年に最初に『植物園の耳』を取得した星野和太郎氏、
そして 明治34年に星野和太郎氏からこの土地を購入し、
更に大正6年には札幌区から2番地を買い増した林文次郎氏、
この2人の人物がおそらくはキーマンなのだ、という事が分かりました。
しかし、登記では権利関係しか分かりません。
何故、どのような経緯があって『植物園の耳』が出来たのか、それは登記では分かりません。
また、この2人がどのような人物であるのかも、登記からは知る事が出来ません。
◇郷土史的アプローチ
平成28年頃から、私は不動産の調査に郷土史を用いるようになりました。
郷土史というものは多くは地元の有志が作っているもので、伝聞情報も多い為、必ずしも正確ではありませんが、過去の経緯について知ることも不動産を知るにあたっては重要な事です。
しかし、以前も触れましたが、植物園の歴史について詳しい書籍は殆どなく、その沿革だけが記されているものがほとんどですから、いわんや『植物園の耳』についてなど、紹介されている訳がありません。
北海道大学の大学史である『北大百年史』や地域の郷土史『桑園誌』を紐解いても、有効な記載はありませんでした。
一方で、登記から調べた星野和太郎氏と林文次郎氏の2人についてはどうでしょうか。
明治・大正期の歴史を調べるにあたっては『人名録』が非常に役に立ちます。
札幌では『北海道人名辞書』、『札幌之人』といった人名録やそれを現代文で編纂しなおした『新聞と人名録にみる明治の札幌』などの書籍があります。
それらの『人名録』で2人の名前に当たってみましょう。
また、インターネットでも検索を掛けてみることにします。
星野和太郎氏に関する記述は、郷土史や人名録の中で見つけることは出来ませんでした。
また、インターネット検索においても、星野『長』太郎という名前の検索誤りと認識されることが多く、有効な記事としては星野『長』太郎のWikipediaにその甥として記載されています。
星野長太郎 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/星野長太郎
しかし、この段階ではそれ以上に星野和太郎に関する記録を見つけることは出来ませんでした。
一方の林文次郎氏はどうかと言えば、彼はかなりの名士だったようで、様々な人名録にその名前が記されています。
林文次郎氏は北海道庁の出身で、その後独立して郵便局長を拝命し、牧畜業を営んだ、という人です。
また、『桑園誌』には、知事公館にある『桑園碑』の文字を揮毫したのは林文次郎氏であるとも紹介されています。
桑園にゆかりがある方、という事ですから、まず同一人物とみて間違いないでしょう。
インターネット上では、林文次郎氏の孫だという元江別市議会議員の方のブログや、林文次郎氏の写真が北海道大学にあることなどが分かりました。
しかし、調べられたのはそこまでで、『植物園の耳』のナゾに迫るには至りませんでした。
1年以上の調査と郷土史や各種の資料をもってしても、『植物園の耳』のナゾは奥深く、解明するに至らなかったのです。
◇伝記的アプローチ
私は調査を進めるにつれ、現地を見て、地図を読み、登記を調べ、郷土史を漁って、それでも分からないという事は、もう調べようがないのではないか、と諦め始めていました。
しかし、ふとしたきっかけで一つ盲点があったことに気付くのです。
大正11年の地図に名前が記載されており、植物園の創始者である宮部金吾氏の存在です。
宮部金吾氏は開園前から退官の昭和2年までの長年に渡って植物園の維持管理に携わって来た方です。
そして私は宮部金吾氏について調べることが、植物園について調べることなのではないか、という考えに至ります。
伝記『伝記叢書232 宮部金吾』を読み込むごとに、『植物園の耳』に関する謎が氷解していったのです。
これは『伝記叢書232 宮部金吾』に掲載された植物園創設時代の設計図です。
そして本文には、植物園が現在の姿になるまでの経緯について紹介されています。
なんと、当初植物園の敷地は図中『Ⅰ』の博物館周辺の範囲だけだったというのです。
『Ⅱ』以降の土地は、後から移管を受けたり、他の土地と交換して手に入れた土地だったというのです。
植物園がおおよそ現在の範囲になったのは、明治23年の事だとされています。
ただし、『植物園の耳』である『Ⅸ』については伝記の中で記載がありません。
そして、伝記の中で更に驚くべき事実が判明しました。
なんと星野和太郎氏は、宮部金吾氏の弟子だったというのです。
伝記の中では非常にあっさりとした書き方ですが、宮部金吾氏が札幌農学校の生徒を植物園官舎の自宅に住まわせていたという事が紹介されています。
その中の最初の生徒が明治16年~明治19年に寄宿していた星野和太郎氏だったというのです。
星野和太郎は札幌農学校の生徒であったという事が分かりました。
次にインターネットで『星野和太郎 札幌』『星野和太郎 北海道』『星野和太郎 札幌農学校』など、片っ端から調べてみましょう。
国会図書館のデジタルライブラリによると、著作に『北海道寺院沿革誌』と『札幌農学校同窓会事業報告』と『北海道蚕業沿革略』があることが分かりました。
そしてそれらの著作の奥付には『植物園の耳』の住所が記載されているのです。
また、『北海道蚕業沿革略』という著作があることを考えるとWikipediaに記事のある群馬の養蚕家、星野長太郎氏との親族関係についても濃厚なのではないかと思われます。
星野長太郎氏の甥の星野和太郎氏と同一人物だとするとWikipediaの参考文献となっている『星野家沿革』も著作ということになります。
◇知りうる情報からの推論
ここまで収集してきた情報から、私なりの推論を立てました。
必ずしも真実であるとは言えませんが、かなり信頼性は高いのではないかと考えています。
星野和太郎氏は群馬の養蚕家、星野長太郎氏の弟、星野周次郎の長男として生まれ、明治16年に札幌農学校に入学します。
北海道大学北方関係資料の写真『札幌農学校予科生徒たち(6人) 星野和太郎(予科最上級)を含む。』です。
農学士として研究を続けるとともに明治24年には北2条西10丁目1番地の『植物園の耳』を取得し、養蚕の研究のために桑畑を運営します。
明治8年の地図には『勧業課桑園』と記載されていましたから、十分ではないにせよ、元々桑畑はあったのではないでしょうか。
明治27年に『北海道寺院沿革誌』、明治28年に『札幌農学校同窓会事業報告』を著しつつ養蚕を続けたのでしょう。
一方の宮部金吾氏は明治18年から植物園の敷地を拡げてゆきますが、弟子に土地を売ってくれ、とは言えなかったのか、あるいは交渉が決裂したのか、結局のところ『植物園の耳』は植物園の一部になる事なく、民有地として残されてゆきます。
その後、おそらくは郷里に帰る必要があり、明治34年に林文次郎氏に対し、『植物園の耳』を売却したのでしょう。
大正5年に、生家の星野家に関する著作をしていることからも北海道を去ったことが推察されます。
・・・と思っていたのですが、実は翌明治35年に開設された北一条郵便局の初代局長の名前に星野和太郎氏の名前があります。
その後、5年の人気を務めた後、2代目の郵便局長となったのが林文次郎氏です。
つまり、星野和太郎氏は明治40年頃までは札幌にいたという事ですね。
また、植物園の耳の敷地だけでなく郵便局長の地位も引き継いだという事は、星野和太郎氏と林文次郎氏の関係というのは、非常に深いものがあったのだろうという事が分かります。
その後、林文次郎氏は、川の流路であった2番地についても札幌区から払い下げを受け、この地区一帯に住宅地を形成してゆきます。
そのようにして出来上がったのが『植物園の耳』なのです。
次回は、林文次郎氏の人生と足跡について、紹介してゆきましょう。
シリーズ『植物園の耳』
◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ
【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日