『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生

今回は『植物園の耳』で二番目の民有地所有者である林文次郎氏の経歴について、紹介してゆきましょう。
 片っ端から資料を漁っていますから、同姓同名の林文次郎氏の情報も混在している可能性はありますが、精査の結果、おそらくは整合性のある情報であると考えています。

文久3年12月11日
 熊本城下 肥後藩士 林傳蔵の次男に生まれる。
 肥後の牧千馬太(まき・ちまた?)のもとで漢学を学ぶ。
 のちに大阪へ出て太田北山の元で漢籍(漢文の書籍)を学ぶ。
 明治維新の中心閥『薩長土肥』の『肥』は肥前=佐賀県であって、肥後=熊本県ではありません。
 明治維新のメインストリームにいた訳ではないという事ですね。
 おそらくは大したコネがある訳でもない下級武士であったものと思われます。

明治17年3月
 21歳札幌県准班任官御用係を命じられ渡道。
 ・・・かなり勉学の出来る方であったようですが、やはり次男です。
 当時の制度では家を継ぐ事は叶いませんから、北海道で働くことになったのでしょう。

 札幌県というのは、明治15年の開拓使廃止後わずか4年間のみ存在していた行政区分です。
 『三県一局時代』と言い、開拓使廃止直前の『官有物払い下げ事件』とともに、このころの北海道の行政の混乱の原因でもあるようです。

明治19年2月
 23歳。札幌県廃止、北海道庁が置かれる。秘書課勤務。
 そしてついに登場する北海道庁ですが、これは当時の内務省直轄の組織です。
 つまり、現在の北海道庁のほか、国(国土交通省)の機関である北海道開発局を兼ねたような存在であった、と言えるでしょう。
 林文次郎氏も札幌県から北海道庁へそのままスライドし、所属も御用係から秘書課へ変わります。
 漢学が達者な方であったという事ですから、総務・庶務・書記のようなことをやっていたのではないでしょうか。
 
明治21年4月
 25歳、当別神社『鮎田如牛の碑』を林文次郎氏が揮毫(碑の元となる書を執筆すること。)する。
 ここで唐突に当別に話が飛びました。
 当別神社にあるこの碑は、明治5年に仙台藩岩出山支藩 藩主の伊達邦直から命じられて寺子屋『鮎田塾』を開いた家老:鮎田如牛氏の功績を称える碑です。
 明治5年に開いた塾の石碑を、たった16年後の明治21年に建てるという事に違和感はありますが、明治12年に当別学校が建築され、鮎田塾はその役割を終えたから、という事でしょう。

 この碑をどういう経緯があって林文次郎氏が揮毫する事になったのか、それは分かりませんが、私が調べた限りにおいて、林文次郎氏と当別や伊達藩に直接的なつながりはありません。

 同姓同名の林文次郎氏が同時期に北海道にいた、という可能性もなくはありませんが、石碑の書体を見るに、同一人物であると思われます。
 (私は拙いながらも書の心得があるので、おそらく確かだと思われます。)

 北海道に渡ってきて4年足らず、まだ25歳の林文次郎氏に文人としての名声があるとも思えませんから、おそらくは北海道庁の業務として、またはどこぞの名士から漢文と書に秀でていることから依頼を受け、この碑を揮毫したのではないか、と考えています。

明治34年2月
 38歳、北2条西10丁目1番を星野和太郎氏から熊本県塩屋町16番地の林文次郎へ売却。
 札幌農学校を卒業した星野和太郎氏は、以前紹介した通り、植物園の祖・宮部金吾氏の最初の下宿生です。
 この土地は明治32年当時の地図では原野の形を取っています。
 星野和太郎氏が養蚕関係者であったことや、植物園の南側の敷地が養蚕場だったことを勘案するに、おそらくは『桑園』の地名の由来通り、養蚕をする為の桑畑として購入したのでしょう。

明治35年3月
 39歳、内務部地方課長で北海道庁を退職する。
 ・・・と、ここで林文次郎氏は北海道庁を退職します。
 前年にかなり大きな土地を個人名義で取得しておきながら役人をやっていた、というのですから現在の公務員副業禁止規定などとは、大きく価値観が異なる事が分かりますね。
 もしかしたら、土地の取得は林文次郎氏なりの『脱サラ』に向けた動きだったのかもしれませんね。

明治35年7月 
 39歳三等郵便局長を拝命する。
 『三等郵便局長』というのはいわゆる『特定郵便局長』のことです。
 『特定郵便局長』と言えば時の小泉純一郎政権による郵政改革によって悪役として担ぎ上げられ、不当な既得権益者としてやり玉に挙がった人々ですね。
 元々は明治時代に郵便制度を始めるにあたって、地元の地主や名士に自己負担で郵便局用の土地建物を提供させ、全国に普及を図ったというものです。
 これが子々孫々に受け継がれ、郵便局の賃料が支払われたり、特定郵便局長の立場が親族のみに引き継がれているというのがフェアではない、という事で郵政民営化によって廃止されたという訳です。
 とはいえ、前述の通り当初の三等郵便局は自前で庁舎を用意していた訳ですから、殆ど名誉のための職であったのだと言えます。

 大正12年発行の人名録の時点でも郵便局長職は継続しているようです。

明治38年頃
 42歳頃、三十七・八年事件(日露戦争)の功績により一時金を賜る
 ・・・うーん、もう42歳にもなるのに出兵した訳でもないでしょうし、物資を供出したとか、寄付金を支出したとか、そういう事なのではないかと思います。
 寄付金に対して一時金を賜る、というのもおかしな話ですから、軍事用に物資や牛馬を供出したという事でしょうか。
 旧日本軍では、牛乳を奨励していた、という記録もありますから、出兵用の物資として牛乳や食肉を提供した、というのが最も自然なストーリーかもしれません。

明治40年前後
 山鼻町番外地に居を定め、乳牛を繁殖させる。
 『脱サラ』した林文次郎氏は、乳牛の繁殖に力を入れ始めます。
 起業した時期は資料によってばらつきがありますが、個人事業とはそういうものです。
 明治28年設立の『札幌牛乳搾取業組合』に所属していた事が北海道大学図書館に所蔵の写真で分かっており、この組合は現在の『サツラク農業協同組合』『雪印メグミルク株式会社』の前身であり、最も古い酪農専門の広域農業組合であるとのことです。
 この組合の興りはサッポロビールからビール粕を牛の飼料として共同購入することにあったとのことです。

 また、『札幌産牛馬組合』の評議員・議員も務めたとの記録が残っていますが、こちらの組合は、その後の詳細が判然としません。

 ともかく、乳牛を繁殖させ、牛乳の生産に力を入れていたという事です。

明治40年
 44歳。正八位に叙せられる。
 『正八位』とは、明治の太政官制における階位の一つです。
 最下位が従八位で、その一つ上ですから、まー、そこそこ実績のある中級官吏のための位階と言ったところでしょうか。
 従八位とする文献もありますが、位階というのは徐々に上がっていくものですから、この場では位階の高い正八位としておきます。

明治40年5月
 44歳、北一条西郵便局または北一条郵便局 三等郵便局長(大正4年も継続)
 また、面倒臭い書き方をしましたが、これも文献によって齟齬があります。
 しかも、『北一条郵便局』と『北一条西郵便局』はどちらも実在しているものですから、なおタチが悪いのです。
 おそらくは、『植物園の耳』の南側に現在も存在する『北一条郵便局』が正解かと思われます。

明治42年
 46歳勲八等・瑞宝章を授けられる。
 これも誤解を恐れずに言えば中下級官吏のための勲章であると言えるでしょう。
 旭川市にある北鎮記念館で同じ勲八等瑞宝章が展示されていましたから、写真を紹介しましょう。


明治45年1月
 49歳、桑園碑、林文次郎氏が揮毫し建立。
 『桑園碑』とは、北1条西16丁目、元々は開拓使の桑園事務所のあった場所に建てられた碑です。

 この場所は現在の知事公館にあたり、桑園碑は現存しています。

 北1条西15丁目に住所があり、北2条西10丁目に大きな土地を所有する実業家であった林文次郎氏は、地元の名士であったのだろうと思われます。

 当別神社の鮎田如牛の碑とは異なり壺川(こせん)という雅号を使っています。人間、脱サラすると自由になりますね。

大正6年4月
 54歳、林文次郎氏、札幌区から北2条西10丁目2番を取得。
 星野和太郎氏から購入した『1番』は道路沿いの土地ですが、この『2番』については川に沿って『1番』の奥にある不整形の土地ですし、明治42年時点には植物園の外周に柵が巡らされていますから、札幌区にとっては他に使い道のない土地であったのでしょう。

昭和4年11月
 66歳、林文次郎氏から林リカ氏へ所有権移転
 昭和4年は現在の民法ではなく、旧民法の時代ですから、家督相続制度によって相続がされます。
 従って、林家には男子がいなかったという事になりますが、元・江別市議会議員の故『林かづき』氏は、林文次郎氏の曾孫を名乗っています。

  江別市ホルスタインショウ – 江別から笑顔を発信! 林かづきの活動日記
http://blog.goo.ne.jp/hayashi-kazuki/e/5589125d1dede16e59fc079444da5159

と、いう事は子供がいなかった訳ではないことが分かり、リカ氏は妻ではなく、長女であった、という事が分かります。
(家督相続制度では、男子が優先。妻と女子であれば、女子が優先される為。養子であっても子が優先で
す。)

H31.2.28追記
 この記事がきっかけで林文次郎氏の末裔の方とお会いする機会があり、戸籍謄本を見せて頂きましたが、林リカ氏は林文次郎氏の妻であった、という事が判明しました。
 これは、家督相続制度の原則からは外れた取扱いなのですが、何人も子供がおり、男子もいる中でこのような取扱いとなった理由については不明です。
(追記おわり)

林文次郎氏の住所について
 林文次郎氏の住所が一番最初に出てくるのは、明治34年の土地購入時の『熊本県塩屋町16番地』です。
 これはおそらく現在の熊本県八代市塩屋町の事で、松江城の城下町に当たります。
 『札幌之人』(大正4年)におけるプロフィールでは『熊本城下』とされていますが、熊本城からは現代の高速道路を使っても一時間以上かかる距離にありますから、おそらくは人名録筆者の誤解か、本人が見栄を張ったのかのどちらかでしょう。

 塩屋町というのは本籍地だと思うのですが、札幌に移って17年も移していない、というのには若干違和感があります。
 林文次郎氏は当時38歳、結婚していない為に戸籍が北海道に移っていないとしたら、かなりの晩婚という事になります。

 人名録に記載された住所としては『札幌之人』(大正4年)で『山鼻町番外地』『北海道人名辞書』(大正12年)では『南3条西13丁目』とされています。
 一方で土地台帳においては、明治43年大正6年のそれぞれの時点で『北1条西15丁目1番地』に住所を有していたようです。
 林リカ氏も昭和4年昭和6年の段階で同じ住所にいたようです。

 大正11年発行の『札幌市制紀念人名案内図』では、南3西13にも北1西15にも『林』という表札は見当たりません。

 事務所のような形でいくつも住所を持っていてもなんら不自然ではありませんが、当時の住宅地図の精度の問題もあるにせよ、林文次郎氏ほどの資産家の邸宅が記録されていない、というのは不思議ですね。

 今回は『植物園の耳』のキーパーソン、林文次郎氏の人生について紹介をしました。
 2つのナゾを解き明かし、シリーズ『植物園の耳』の大目標はすでに果たしました。しかし、ここに至るまでに収集した膨大な資料は、まだまだ使い切れていません。
 当然、戦後から平成に至る変遷についても紹介していませんし、宮部金吾氏が植物園を作り上げた経緯についても説明していません。

 しかし、新年恒例記事としてのシリーズ『植物園の耳』は今回をもって一旦の区切りとさせて頂くこととしました。
 年が明け、業務が立て込んでおり、この分量の記事を毎日連載することは物理的に不可能である為です。
 当面の間は、過去の記事の再録をさせて頂き、シリーズ『植物園の耳』について、以降は不定期の掲載とさせて頂きますこと、何卒ご了承下さい。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

【参考文献】

『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

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