当記事は2017年03月28日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。
シリーズ『北広島』
◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿
さて『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
北広島市には市街の中心軸となる一本の幹線道路がなく、
街の外側を走る3本の道路それぞれで市街が形成されており、
それは非常に特殊かつ非合理的な構成であると紹介しました。
言ってしまえば、今流行りの『コンパクトシティ』とは逆の、
二正面作戦ならぬ『三正面作戦』をしなければならないのが、
人口減少時代における北広島市の課題であると言えるでしょう。
そもそも論として、何故このような形になったのでしょうか?
北広島市の偉人に『和田郁次郎』氏という方がいます。
和田氏は明治17年に現在の北広島市への入植を取り仕切った人で、
広島県の出身者で一つの村を作ろうという目標を持っていました。
この、和田郁次郎氏についてはのちのち触れて行きますが、
現在の北広島市の前身にあたる広島町、そして広島村、
さらにその以前の月寒村の『輪厚移民』にさかのぼっても、
その原点は明治17年にある、という事が今回重要となるポイントです。
明治17年と言えば、北海道にとってどんな時代だったでしょうか?
シリーズ『澄川』でも度々紹介してきましたが、
明治15年、それまで北海道開拓の中枢を担った開拓使は廃止され、
『三県一局時代』と呼ばれる分権的な時代に入ってゆきました。
澄川でも官林は民間に払い下げられ、北海道において『官』の存在感は薄らいでゆきます。
そうした時代に入植した和田郁次郎氏ら『輪厚移民』は、
堅い結束による『民』の力で村を大きく、豊かに育ててゆきました。
前回、私は『市街地は幹線道路から格子状に拡大する』という原則を示し、
北海道で有数の古い道路として札幌越新道≒室蘭街道≒札幌本道・・・
すなわち、現在の国道36号線を紹介しました。
さて、国道36号線と言えば現在も札幌・千歳・室蘭を結ぶ北海道の大動脈、
古来から、本州との船便に太平洋ルートを使用する際には本州への道でもありました。
また、白老を経由し函館に至る、オホーツク海側より雪の少ない陸路でもありました。
江戸末期から切り開かれた『札幌越新道』は、
明治2年に開拓使が置かれ札幌に本府によっても積極的に利用され、
明治6年にはほぼ同様のルートが『札幌本道』『室蘭街道』として再整備されています。
当時、北海道の街道沿いには『駅逓』(えきてい)と呼ばれる官営施設が設置されていました。
これは休憩所であると同時に馬の貸し出し、物資運搬や通信の為の施設です。
江戸時代の本州で言うところの宿場に近いかもしれませんね。
明治6年、室蘭街道の開通に伴い、現在の北広島市島松に『島松駅逓所』が設置されます。
『少年よ大志を抱け』で有名なクラーク博士は、明治10年にここでその言葉を発したと言われています。
その事にちなんで、北広島市はクラーク博士を前面に押し出して広報活動を行なっています。
カントリーサインや市のロゴマークなどに積極的にクラーク博士を起用しています。
正直、明治10年当時、そこは札幌郡月寒村だった訳ですし、
クラーク博士自身は帰任の通過点でそれを言った他に北広島市に縁もないようですから、
羊ケ丘公園や北海道大学などの観光地としてのブランドに背乗りしているように感じますが、
そもそもクラーク博士自体が札幌農学校の初代教頭であるものの、
在任期間はわずか8ヶ月で、教え子は一期生のみというのですから、
まー、イメージ戦略とはそういうもの、と割り切るしかないのかもしれません。
明治期の北広島にはもう一人の偉人『中山久蔵』氏も関わっています。
中山久蔵氏は明治以前から北海道に移り住んでいた方で、
明治4年から島松付近を開墾し始め、試行錯誤をしながら稲作を成功させました。
その後、稲作の手法や『赤毛種』の種籾を広め、高く評価されました。
そして、明治17年には中山氏宅が正式に島松駅逓所となりました。
中山久蔵氏の功績によりこの近辺は『寒地稲作発祥の地』とされ、
島松駅逓所には寒地稲作発祥の地の碑が設置されています。
北広島市もこれもPRに利用しており、北広島商工会はゆるキャラ『まいピー』を設定しました。
これは赤毛種のキャラクターで『久蔵おじいさんに育てられました』という設定です。
しかし、こちらもクラーク博士のように自治体ごとの元祖争いのようなものがあり、
恵庭市も『寒地稲作発祥の地』を主張していたりします。
http://www.eniwa-cci.or.jp/shokka/introducing/komezukuri.html
この周辺は島松川を境に札幌郡月寒村と千歳郡島松村の境界だった為、
中山久蔵氏の実験水田はその両方に広がっていたのです。
(島松川は現在の北広島市と恵庭市との境界でもあります。)
このように島松は明治以前から『シュママップ』と呼ばれる交通の要衝であり、
札幌から太平洋側へ抜ける為に旧来使われていたのは室蘭街道≒国道36号線だった訳です。
明治17年に入植した和田郁次郎氏ら輪厚移民、のちの広島村の人々は、
何故、室蘭街道沿いではなく、道道46号線≒広島本通を中心地としたのでしょうか?
その事が、現在の『二正面作戦』的な北広島市の市街形成の原点となっているのです。
元々あった幹線道路の近くから外れて集落を設けた理由は何なのでしょうか?
この謎を紐解いてゆく回答編は次回以降。
“KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①” への3件の返信