シリーズ『北広島』
◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿
シリーズ『北広島』、6回目になりました。もう少し歴史を追ってみましょう。
前回『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②』では、
幹線道路である国道36号線ではなく、中心部が現在の位置になったのは、
『官林』による制限と『稲作』を営む為であると説明しました。
北広島は元々『大曲道路』・・・現:道道1080号線によって拓かれた集落です。
これも繰り返しになりますが、通常、市街地というものは基軸となる『道』を中心に切り開かれ広がるものです。
しかし、現:道道1080号線の周辺には北広島市役所以外には星槎道都大学、くるるの杜がある程度で、沿線のほとんどは市街化調整区域であって、街の中軸となる道路であるとは言い難いものがあります。
北広島の中心街を貫く道路としては、江別と恵庭を結ぶ現:道道46号線の方がふさわしいでしょう。
そして、1080号線にせよ46号線にせよ大曲や西の里とは接続していません。
何故、北広島は3つのエリアに分裂したのでしょうか。
明治17年、和田郁次郎氏が拓いた『大曲道路』によって開拓が始まった北広島ですが、そのわずか5年後の明治22年から、様相が大きく変わり始めます。
明治24年時点の地図を見てみましょう。
明治22年から明治24年にかけて、また2つの道路が開通しました。
一つ目は江別と恵庭を南北に結ぶ、現:道道46号線です。
当初は『江別道路』と『恵庭道路』と二つに分けて呼ばれ、現在の名称は『道道江別恵庭線』。
別名としては『北広島本通』とも呼ばれています。
後からできた道路が『本通』というのも不思議ではありますが、大曲から山の中を抜けて北広島に通じる『大曲道路』よりも、集落と集落を結ぶ北広島本通の方が道としての需要があった、という事なのでしょう。
そして二つ目の道路は、厚別から東西に伸びる現:国道274号線です。
これは当初『北広島本通』を開削する為の資材運搬路であったもので、北広島に鉄道のない当時には、駅への道として利用されていたそうです。
札幌方面に出る道、という事で『札幌道路』と呼ばれていました。
この二つの道路が拓かれたことで、現在の北広島の市街を形成する四つの道路が出揃った訳です。
この頃の北広島は農村地帯ではありますが、道を行き交う人々に物を売る雑貨屋などがぽつぽつと各道路の沿道に出来始めたようです。
そして明治27年、『廣島開墾地』は広島村と名前を変えました。
これは稲作が比較的順調に進んだ事と四つの道によって交通利便が改善したことによります。
当初は『和田村』とするよう道庁に指示されたものを固辞し、故郷の広島から名を取って広島村とした、という話が残っています。
そして、それと同時に、道庁から輪厚官林と島松官林を開拓民に解放して入植を受け入れるという話が持ち上がります。
本来『官林』は国有財産ですから、そこを伐採したり定住したりすることは禁止されていますが、そこを開拓して農地としよう、という計画です。
これに対し、和田郁次郎氏と広島村の初代戸長である一色潔氏は、これらの官林が切り開かれることで下流の水田で利用する水源が乏しくなる事を懸念し、道庁に対して反対運動を行います。
反対運動の為に度々道庁にも足を運んだようですが、道庁の職員からこれを断られてしまい、明治29年にはこの地域の開拓が始まってしまいます。
更にその後、明治32年には野幌官林を同様に解除して札幌区、白石村、江別村、そして広島村に配分しようという計画が北海道庁から持ち上がります。
この配分によって町村制の施行を前に各村の財産を充実させる目的があったとのことです。
しかし、これに対しても和田郁次郎氏を筆頭とする広島村と江別村の代表が反対を表明します。
野幌官林には農業用の溜め池があった為、これが配分されることで農業が立ち行かなくなることを恐れた為です。
農民達と道庁との間で、かなり激しいやりとりがあったようですが立ち行かず、最終的には和田郁次郎氏が当時の北海道庁の長官、園田安賢氏に直訴し、官林解除を取り下げさせるに至りました。
そうして残ったのが野幌官林であり、現在の野幌森林公園です。
この後、大正15年に千歳線が開通する事で北広島における交通インフラの基礎は完成します。
前述の通り、野幌官林は残った一方で輪厚官林と島松官林はなくなってしまいました。
現:国道36号線沿線の大曲エリアは人の通行がありましたから、農業で栄えたという訳ではありませんが林業が盛んで、人も定住するようになっていったという事です。
そして、大曲エリアはその便利な立地を活かして発展し、都市計画法の施行当初から市街化区域として中央エリアと並び立っていたのです。
西の里エリアについては、昭和60年代~平成にかけて市街化区域となったエリアで、まだまだ歴史が浅い部分がありますが、大曲については官林解除を切っ掛けに『2つの北広島』に分裂するに至った要因であると言えるでしょう。
つまり、北広島が分裂した原因は明治27年の官林解除であったという事です。
(明治27年官林解除→明治29年民間への貸下げ・開墾という流れ)
そして、北広島開基の功労者である和田郁次郎氏は、その官林解除に反対であった、というのも重要な視点ではないでしょうか。
郷土史の中では農業の為の水源として・・・という視点が強調されていますが、都市計画や自治体運営という視点から見ると、和田郁次郎氏はスプロール化・・・つまり市街の分散・虫食い化を防ぎたかったのではなかろうか、と思われます。
当時にそういった概念はないにせよ、『統一され一体感のある村』ではなく、分散してバラバラになった集落では、郷土愛も生まれませんし運営を行っていくのも困難です。
そういった意味で、『統一され一体感のある村』とはならずに、3つに分裂した現在の北広島を和田郁次郎氏が見たとしたら、何を思うでしょうか。
ある意味で、北広島分裂の要因は『北海道庁の意向に抗しきれなかったから』とも言えるのかもしれません。