シリーズ『北広島』
◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿
前回の記事は平成29年3月に書いたものですから、
続きを書くのに1年以上もかかってしまいました。
この間に様々な環境の変化があり、ブログもこちらに移りましたが、
引き続き北広島の歴史を探ってゆきましょう。
さて、『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①』では、
明治以前から主要な交通の要衝であって島松(シュママップ)があった、
国道36号線に沿って展開しなかったことは不自然である、と紹介しました。
また、『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
現在の北広島市は3つのエリアに分かれてしまっており、
国道36号線「室蘭街道」沿いに大曲エリアが、
国道274号線沿いに西の里エリアが、
いずれも札幌寄りに形成されており、一体的な市街形成がされていないと紹介しました。
北広島の中心街であるところの中央エリア、つまりは北広島市役所の所在地は、
道道46号「江別恵庭線」と道道1080号「栗山北広島線」の交差点にあり、
これらはそれなりに交通量の多い道路ですが、他のエリアについて、
これらの道路に沿って市街形成がされていない、というのは、
前回紹介した通り、別の自治体が合併されたという場合を除いては、
まず考えられない、特異な市街形成であると言えるでしょう。
ちなみに北広島市は明治以来これまで一度も合併を経験していません。
札幌市、江別市、小樽市、石狩市、千歳市、いずれも合併を経験しているのと対照的ですね。
市街地の分裂は札幌近郊においては北広島市特有の問題であって、
人口減少時代において、教育や就業も含めたインフラの整備という意味で、
非常に重大な問題である、と言えるでしょう。
そのような問題が生じる事になった歴史的経緯を見てゆきましょう。
明治17年に入植した和田郁次郎氏らの『廣島開墾地』は、
何故、札幌越新道(現在の国道36号線)沿いに入植をしなかったのでしょうか。
これには2つの理由があります。
入植前、札幌越新道が開通した頃の状況を図に示しました。
札幌もそうですが、明治6年当時、北広島は未開の原野でした。
『植物園の耳』でも紹介したように明治6年当時というのは、
札幌の中心部であっても都市機能も揃わない状況でしたから、
郊外に至っては、かろうじて木を切り倒した道が付いただけ、という状態です。
道路状況は悪く、馬が通るのもやっとで馬車などはもっての外。
札幌越新道も、太平洋側に出る最初の道とは言っても、同じことです。
明治初期、札幌の都市機能が出揃わないうちから、
開拓使主導で入植が始まりますが、北広島で入植が始まるのは、
前述の通り明治17年の事で、和田氏が北海道を巡った末に出した結論です。
入植の前年、明治16年に和田郁次郎氏は4人の人夫を連れ、
『大曲道路』(現:道道1080号線)を開削し、これが廣島開墾地への道となります。
地図中の大曲道路の東端が現在の北広島市役所の場所であり和田氏の邸宅です。
幾ら木を切り開いただけと言っても、この距離を1年で切り開くというのは大変な事です。
今回の謎『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?』
一つめの理由は札幌越新道の周りは官林に囲まれていたから、です。
地図に記載されている野幌官林、輪厚官林、島松官林、月寒原野は、
いずれも国有地であり、当時は開拓の対象ではなかったのです。
官林は国で利用する材木を確保する目的もありましたが、
田畑の水源の為の森林:水源涵養林としての役割もありました。
開墾地というのは開拓使の認可を得て貸下げや払下げを受けるものですから、
民間人が自分の臨むままに開拓を行える訳ではありません。
そもそも論として、札幌越新道の周辺は開拓しなかったのではなく、
官林ばかりで開拓を許されていなかったのです。
北広島市の中心が偏在の位置にあるのは、
そういった消極的理由だけなのかと言えば、そうではありません。
積極的理由として、稲作をする目的があった、という事もあります。
当初の北広島の開拓は大曲道路に沿って行われてゆきますが、
大曲道路は輪厚川に沿って下っており、
現在の北広島市は、この水源を利用する事が念頭に置かれていると言えます。
ここで国土地理院の色別標高図を見てみましょう。
赤いラインは標高20m以下の箇所に私が引きました。
札幌、江別、北広島、恵庭、千歳・・・早くから人が集まった町は、
いずれも同じような高さ・・・標高20~35mのラインにあるのです。
と、言うのにも当然理由があります。
標高が高い部分というのは支笏火山の溶岩で出来た岩盤の上にあり、
崖地も多い為に農業用地としては不適当であり、
標高が低い部分は水の流れが遅く停滞し、湿地帯・泥炭地となる為、
そのままでは農業に向かないだけでなく、居住や生活にも不向きです。
そういった意味で、この立地を選んだ和田郁次郎氏には、
良い土地を見極めるセンスがあった、と言っていいでしょう。
札幌から比較的近い立地にある事で、交通や物の運搬にも便利で、
農業が上手く行かないうちは林業や炭焼き、大工仕事などの出稼ぎで乗り切ったとも言います。
このようにして北広島の中心は現在の位置に定められた訳ですが、
その後、現在のように3つに分裂した市街形成がなされていったのには、
どのような理由があるのでしょうか、
そして北広島開墾のリーダー、和田郁次郎氏はその分裂を望んでいたのでしょうか。
シリーズ次回『北広島は何故3つに分裂したのか?』で紹介しましょう。
【参考文献】
・広島町郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま』昭和61年6月12日発行
・北ひろしま郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま~広島村を創立した和田郁次郎の生涯~』平成8年7月12日発行