『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?

さて、シリーズ『植物園の耳』も第4回になりました。
前回は2つのナゾのうち1つ目のナゾが一応の解決を見ました。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
メム(湧水)による川の流れから、このような歪な形状で分断された、というのがその一応の答えです。
しかし、それは完全な回答ではありません。

『植物園の耳』以外にも北西角、西、東など、川によって分断されている場所はあるのですから、『この形になった理由』は川であっても、植物園の敷地の一部とならず、民有地として取り残された理由は説明出来ない訳です。

そのナゾは2つ目のナゾとともに、今回解き明かしてゆきこととしましょう。
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

『植物園の耳』について正しく理解するに至るには、非常に長い調査期間を要しました。
と、言うのも法務局で登記を見ても、色々な郷土史を読んでも、北海道大学の大学史を読んでも、『植物園の耳』がこのような形で残されていることの理由は書かれていなかったからです。

私は様々なアプローチから『植物園の耳』の誕生の経緯を探って来ましたが、その真相に至る為に、2年近くの月日を費やしました。
結論だけをポンと示す、というのは記事的な面白みにも欠けますから、各アプローチごとに判明したことを示したいと思います。

◇フィールドワーク
 不動産の調査においては、フィールドワーク=現地調査が最も重要です。
 『『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-』で紹介したように現地を確認して疑問点を洗い出し、また関連する場所へも調査へ行きます。
 植物園の園内についても、勿論確認をしています。
 まずは植物園の案内図で非公開となっている『苗圃』を確認したいと考えました。

 何故なら、ここは宮部金吾氏の住居跡地なのです。


 現在は植物の苗を育てるための倉庫やビニールハウスがあるだけで、特に何かがある、という訳ではないようです。

 航空写真を見ても、特に利用されている形跡は見えません。

 植物園内と植物園の耳以外には、偕楽園跡地北海道大学知事公館北海道開拓の村宮部記念緑地、そして一番遠い場所では当別神社まで足を運んでいます。
 本筋に絡む情報は出てきませんでしたが、色々と面白い事実もありましたので、のちのち登場してくるかと思います。

◇地図的アプローチ
 前回『『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷』で紹介した通り、物件調査にあたっては、詳細な資料を確認する前に地図や航空写真からのアプローチを行います。
 登記を調べるより全体のアウトラインを掴むことが出来、理解を助ける為です。
 前回は明治~大正の地図を紹介していますが、勿論昭和から現在に至るまでの集められる限りの住宅地図や航空写真についても収集しています。

 しかし、『植物園の耳』の状況は明治期には概ね固まっているため、戦後の事情をあれこれと書いていくのは蛇足かと考え、ひとまずは明治・昭和までで抑えておきましょう。

 ただ、せっかく集めた資料ですから『2つのナゾ』を明らかにした後に、気まぐれに記事を書いてゆこうかと考えています。

◇登記的アプローチ
 さて、ここからが今回初出の話題です。
 不動産の権利関係を調査するにあたっては、法務局で『登記』を調べるのが一番です。
 法務局の管轄や調べ方は『A-3 道の所有者を知りたいとき』で解説しています。
 まずは『植物園の耳』の現在の地番図を見てみましょう。

 このような区画になっています。
 土地の地番というものは、分筆をするごとに『親地番』のあとに枝番が付いていきます。

 例えば『1番』の土地を分筆した場合には、元の土地が『1番1』それ以外の土地が『1番2』『1番3』という風に枝番が付いて行きますが、仮にこの段階で『1番2』を分筆した場合には『1番2-2』とはならずに、同じ区画の『1番』の中で重複がなく、最も新しい番号、すなわち『1番4』という風に附番されるルールになっています。
 この場合の『1番』が親地番という訳です。

 つまり、『○番』の○の部分を見れば、元々の形状がおおよそ分かるという事です。

 この考え方に従って、過去の地番図を復元してみましょう。

 ただし、この考え方はあくまでもおおよその目安であって、正確なところは分かりません。
 と、言うのも、2つ以上の土地を合筆をした場合には、若い地番に統一される為、元々の親地番とは違ってしまう事が出てくるのです。
 分筆・合筆を繰り返しているとこの辺りが非常にファジーになってきますし、これを調査するには分筆・合筆ごとの地積測量図を取得せねばならず、莫大な調査費用がかかってしまいます。
 また、地積測量図自体が昭和35年の不動産登記法によって添付が義務付けられた書面ですから、戦前の分筆・合筆の履歴については追う事が出来ないのです。

 しかし、これでおおよその形状は掴むことが出来ました。
 次に、明治~戦前の登記記録から所有者を調べてみましょう。

北2条西10丁目1番・・・明治28年3月 星野和太郎氏 取得。
             明治34年2月 林文次郎氏 星野氏より購入。
北2条西10丁目2番・・・大正3年6月 内務省 所有権保存。
             大正5年11月 札幌区へ所有権移転。
            大正6年4月 林文次郎氏へ所有権移転。
北2条西10丁目3番・・・大正6年2月 内務省 所有権保存。
北2条西10丁目4番・・・昭和26年1月 久島久義氏 所有権保存。
北2条西9丁目1番・・・昭和33年2月 社団法人北海道乗用自動車協会 所有権保存

 ・・・各地番の最初の記載は、一番最初に登記がされた年月と所有者としています。
 つまり、それまでは『登記のない土地』であった訳で、登記のない土地というのはすなわち国有地です。
 明治のうちに民有地となっていたのは、唯一、北2条西10丁目1番だけであったという事ですね。
 そして、大正~昭和にかけて徐々に民有地が広がっていった、という訳ですね。

 明治26年に最初に『植物園の耳』を取得した星野和太郎氏、
 そして 明治34年に星野和太郎氏からこの土地を購入し、
 更に大正6年には札幌区から2番地を買い増した林文次郎氏、
 この2人の人物がおそらくはキーマンなのだ、という事が分かりました。

 しかし、登記では権利関係しか分かりません。
 何故、どのような経緯があって『植物園の耳』が出来たのか、それは登記では分かりません。
 また、この2人がどのような人物であるのかも、登記からは知る事が出来ません。

◇郷土史的アプローチ
 平成28年頃から、私は不動産の調査に郷土史を用いるようになりました。
 郷土史というものは多くは地元の有志が作っているもので、伝聞情報も多い為、必ずしも正確ではありませんが、過去の経緯について知ることも不動産を知るにあたっては重要な事です。
 しかし、以前も触れましたが、植物園の歴史について詳しい書籍は殆どなく、その沿革だけが記されているものがほとんどですから、いわんや『植物園の耳』についてなど、紹介されている訳がありません。

 北海道大学の大学史である『北大百年史』や地域の郷土史『桑園誌』を紐解いても、有効な記載はありませんでした。

 一方で、登記から調べた星野和太郎氏と林文次郎氏の2人についてはどうでしょうか。
 明治・大正期の歴史を調べるにあたっては『人名録』が非常に役に立ちます。
 札幌では『北海道人名辞書』『札幌之人』といった人名録やそれを現代文で編纂しなおした『新聞と人名録にみる明治の札幌』などの書籍があります。
 それらの『人名録』で2人の名前に当たってみましょう。
 また、インターネットでも検索を掛けてみることにします。

 星野和太郎氏に関する記述は、郷土史や人名録の中で見つけることは出来ませんでした。
 また、インターネット検索においても、星野『長』太郎という名前の検索誤りと認識されることが多く、有効な記事としては星野『長』太郎のWikipediaにその甥として記載されています。

 星野長太郎 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/星野長太郎

 しかし、この段階ではそれ以上に星野和太郎に関する記録を見つけることは出来ませんでした。

 一方の林文次郎氏はどうかと言えば、彼はかなりの名士だったようで、様々な人名録にその名前が記されています。
 林文次郎氏は北海道庁の出身で、その後独立して郵便局長を拝命し、牧畜業を営んだ、という人です。

 また、『桑園誌』には、知事公館にある『桑園碑』の文字を揮毫したのは林文次郎氏であるとも紹介されています。


 桑園にゆかりがある方、という事ですから、まず同一人物とみて間違いないでしょう。

 インターネット上では、林文次郎氏の孫だという元江別市議会議員の方のブログや、林文次郎氏の写真が北海道大学にあることなどが分かりました。

 しかし、調べられたのはそこまでで、『植物園の耳』のナゾに迫るには至りませんでした。
 1年以上の調査と郷土史や各種の資料をもってしても、『植物園の耳』のナゾは奥深く、解明するに至らなかったのです。

◇伝記的アプローチ
 私は調査を進めるにつれ、現地を見て、地図を読み、登記を調べ、郷土史を漁って、それでも分からないという事は、もう調べようがないのではないか、と諦め始めていました。

 しかし、ふとしたきっかけで一つ盲点があったことに気付くのです。

 大正11年の地図に名前が記載されており、植物園の創始者である宮部金吾氏の存在です。
 宮部金吾氏は開園前から退官の昭和2年までの長年に渡って植物園の維持管理に携わって来た方です。
 そして私は宮部金吾氏について調べることが、植物園について調べることなのではないか、という考えに至ります。
 伝記『伝記叢書232 宮部金吾』を読み込むごとに、『植物園の耳』に関する謎が氷解していったのです。

 これは『伝記叢書232 宮部金吾』に掲載された植物園創設時代の設計図です。
 そして本文には、植物園が現在の姿になるまでの経緯について紹介されています。

 なんと、当初植物園の敷地は図中『Ⅰ』の博物館周辺の範囲だけだったというのです。
 『Ⅱ』以降の土地は、後から移管を受けたり、他の土地と交換して手に入れた土地だったというのです。
 植物園がおおよそ現在の範囲になったのは、明治23年の事だとされています。
 ただし、『植物園の耳』である『Ⅸ』については伝記の中で記載がありません。

 そして、伝記の中で更に驚くべき事実が判明しました。
 なんと星野和太郎氏は、宮部金吾氏の弟子だったというのです。

 伝記の中では非常にあっさりとした書き方ですが、宮部金吾氏が札幌農学校の生徒を植物園官舎の自宅に住まわせていたという事が紹介されています。
 その中の最初の生徒が明治16年~明治19年に寄宿していた星野和太郎氏だったというのです。
 星野和太郎は札幌農学校の生徒であったという事が分かりました。

 次にインターネットで『星野和太郎 札幌』『星野和太郎 北海道』『星野和太郎 札幌農学校』など、片っ端から調べてみましょう。
 国会図書館のデジタルライブラリによると、著作に『北海道寺院沿革誌』『札幌農学校同窓会事業報告』『北海道蚕業沿革略』があることが分かりました。
 そしてそれらの著作の奥付には『植物園の耳』の住所が記載されているのです。

 また、『北海道蚕業沿革略』という著作があることを考えるとWikipediaに記事のある群馬の養蚕家、星野太郎氏との親族関係についても濃厚なのではないかと思われます。
 星野長太郎氏の甥の星野和太郎氏と同一人物だとするとWikipediaの参考文献となっている『星野家沿革』も著作ということになります。

◇知りうる情報からの推論
 ここまで収集してきた情報から、私なりの推論を立てました。
 必ずしも真実であるとは言えませんが、かなり信頼性は高いのではないかと考えています。

 星野和太郎氏は群馬の養蚕家、星野長太郎氏の弟、星野周次郎の長男として生まれ、明治16年に札幌農学校に入学します。
 北海道大学北方関係資料の写真『札幌農学校予科生徒たち(6人) 星野和太郎(予科最上級)を含む。』です。

 農学士として研究を続けるとともに明治24年には北2条西10丁目1番地の『植物園の耳』を取得し、養蚕の研究のために桑畑を運営します。
 明治8年の地図には『勧業課桑園』と記載されていましたから、十分ではないにせよ、元々桑畑はあったのではないでしょうか。
 明治27年『北海道寺院沿革誌』明治28年『札幌農学校同窓会事業報告』を著しつつ養蚕を続けたのでしょう。

 一方の宮部金吾氏は明治18年から植物園の敷地を拡げてゆきますが、弟子に土地を売ってくれ、とは言えなかったのか、あるいは交渉が決裂したのか、結局のところ『植物園の耳』は植物園の一部になる事なく、民有地として残されてゆきます。

 その後、おそらくは郷里に帰る必要があり、明治34年に林文次郎氏に対し、『植物園の耳』を売却したのでしょう。
 大正5年に、生家の星野家に関する著作をしていることからも北海道を去ったことが推察されます。

 ・・・と思っていたのですが、実は翌明治35年に開設された北一条郵便局の初代局長の名前に星野和太郎氏の名前があります。
 その後、5年の人気を務めた後、2代目の郵便局長となったのが林文次郎氏です。
 つまり、星野和太郎氏は明治40年頃までは札幌にいたという事ですね。
 また、植物園の耳の敷地だけでなく郵便局長の地位も引き継いだという事は、星野和太郎氏と林文次郎氏の関係というのは、非常に深いものがあったのだろうという事が分かります。

 その後、林文次郎氏は、川の流路であった2番地についても札幌区から払い下げを受け、この地区一帯に住宅地を形成してゆきます。

 そのようにして出来上がったのが『植物園の耳』なのです。

 次回は、林文次郎氏の人生と足跡について、紹介してゆきましょう。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷

『植物園の耳』第3回ですが、1回目で提示した『植物園の耳のナゾ』を振り返ってみましょう。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

さて、これまでに南平岸、澄川、桑園、北10条西1丁目と、
様々なエリアの歴史を紹介してきましたが、
その手法として、古地図や航空写真を分析してゆく、という手法を取っていました。

これからも勿論そういった手法を活用してはゆくのですが、
正直なところ、この手法は必ずしも万能ではないと考えています。

地図に残っているのは道や建物の形状であって、それ以外の事柄・・・
例えば詳細な経緯や土地の権利関係などについては、分かりません。
地図で分かるのはあくまでマクロかつ表層的な事象であって、
詳細な内容や経緯、それに関連した人々を知ることは出来ません。

今回は例によって『植物園の耳』について古地図から追ってゆきますが、この方法では、『2つのナゾ』のうち、片方しか解決することが出来ません。
しかも、不十分な形で、です。

それでは、『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
古地図から追ってゆきましょう。

札幌の中心部に関しては明治期から開拓が始まっていた為、
明治期からの地図が入手可能である、というのは大きなメリットです。
中央部以外では、正確な地図は大正5年の陸地測量部地形図を待たねばなりません。

明治2年開拓使が設置された当時において、札幌は鬱蒼とした原生林であり、都市の形状はまったくといっていいほどありませんでした。

そこから急ピッチで都市開発を実施していく訳ですが、
責任者:島義勇判官の更迭などのゴタゴタがあって、
開拓使の本部である『開拓使本庁舎』が着工したのは明治5年
竣工はその翌年の明治6年を待たねばなりません。

北海道開拓の村にある開拓使本庁舎のレプリカです。

つまり、明治6年になってようやく開拓使の体裁が整ったとも言え、
この時期以降、札幌市中心部の全体像を表す地図が多く登場していくようになります。

こちらは、明治6年に開拓使が発行した『北海道札幌市街図』です。
本庁(旧字体で『本廰』)敷地は現在の北海道庁とほぼ同位置にありますから、北海道大学植物園は、川の流れがあり、開拓がされていない事が分かります。

『勧業課桑園』という文字も見えますね。
『桑園』の歴史を紹介した際にも記載しましたが、
道庁の西側から西20丁目近辺までは養蚕の為の桑畑にしよう、という計画があったのです。

同じく、明治6年『北海道札幌之図』です。
北海道大学図書館の北方資料室所蔵の資料で発行者は開拓使測量課と言われています。
測量課と地理課で、同じ年に結構内容の違う地図を作っているのは、面白いですね。
開拓使本庁の西側は、エアスポットのように空白となっていますね。

ブラタモリで紹介されたシティハウス植物園の湾曲の元となった川の流れも記載されています。

明治8年『札幌市街図』でも同様に、道庁の西側は川以外の記載はありません。
この地図の記載のとおり、道庁の正門は現在の赤レンガ庁舎と同じように、東側にあった為、西側にある植物園の敷地は道庁の『裏側』だったのです。

次の地図資料は明治24年『札幌市街之図』まで飛びます。
明治15年には開拓使の廃止やら、そこから始まる三県一局時代があり、明治19年には三県一局が廃止されて北海道庁が設置されたりと、北海道は激変期を迎えている訳ですが、その間の変遷は地図に残っていません。
もしかしたら、行政の混乱が地図の発行を滞らせたのかもしれませんね。

明治21年には現存する赤レンガ庁舎が完成し、道庁のエリアも狭まっています。
さて、この地図で初めて植物園の全体像が見えてきました。
ここで一つ、第一のナゾが解かれました。
『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
札幌市中心部の各所にあったメム(湧水)による小川の流れが、
碁盤の目の道路と相まって、このような『耳』を形成したのです。

ただし、『何故』という意味では植物園には他にも小川が流れている訳で、小川が流れているから『このような形状で取り残された』というのは、少し短絡的すぎる考え方なのではないか、とも思います。

だって、『川があったから民有地として取り残された』のならば、
植物園の敷地内には他にも川がある訳で、『何故』という理由にはなりません。

しかし、ひとまずこれが一つの回答という事でよいでしょう。

川の流れが詳細に記されているほか、中心には『博物館』なる文字が記されています。

同じ位置に現存する博物館本館がそれです。

この建物は明治15年開拓使最後の年に開拓使によって建築されました。
その後、明治17年農務省北海道事業管理局から札幌農学校へ移管され、
そこから植物園用地として整備され始めてゆくことになります。

明治32年『札幌市内明細案内図』です。
現在と異なり、街中を川が流れていた様子がよく分かりますね。
植物園の南東側に建物が建っているのが分かります。

また、南側の区画にはのちの札幌市立病院である『札幌病院』が、明治24年に設置されました。
札幌病院と植物園の間では因縁めいたやり取りもありますが、ここではまだ紹介しません。

明治40年『最新札幌市街図』ですが、南東側の建物が温室であると分かりましたね。


明治42年『最新札幌市街図』ですが、前の地図と同じ出版社の2年後の地図ですから、あまり変わり映えはありません。


ここで登場するのが大日本帝国陸地測量部・・・現在の国土地理院が作成した大正5年2万5千分の1地形図です。
正確な測量に基づく地図ですから、植物園東側の道路の歪曲も記録されています。

ここで初めて『植物園の耳』に建物が建ち始めているのが分かります。


最後に示すのは大正末期、大正11年『札幌市制記念人名案内図』です。
これが、民間発行の地図なのですが、非常に面白い。
現在の札幌市中央区・北区の中央部における人名記載の地図です。

大正5年地形図で建物が建っていたものについて、この地図では誰が住んでいたのか、という事が記録されています。
東側から読んで見ると佐々木・松本・深宮店・斎藤・安多と書かれています。
この人々ですが、今後出てくることはありません。

そして、さらに東側には『札幌看護婦会』という建物があります。
おそらくは札幌病院に関連する施設なのでしょうが、
植物園のこのエリアについては、この後の歴史でも不思議と札幌病院に関連する利用がされています。

植物園の西側に赤いマーキングを付けた部分には『宮部金吾』と書かれています。
宮部金吾と言えば、札幌農学校の二期生で新渡戸稲造や内村鑑三と同期生です。
全国区の有名人ではありませんが、植物学の権威であり、植物園の初代園長です。

宮部金吾氏の住居と言えば、北6条西13丁目の宮部記念緑地が有名です。
これは晩年の住居跡を公園としたものですが、実は、現在の宮部記念緑地に居を構える以前、植物園の構内に長らく住まっていたのです。

そして、『植物園の耳』のもう一つのナゾを追う為には、
植物園の初代園長である宮部金吾氏を追う必要があったのです。

次回、様々な資料から『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?を明らかにしてゆきます。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-

札幌は碁盤の目の街並みである、という事は良く言われていますが、
主に河川や用水の痕跡である斜め通りや地形に合わせた歪曲などの例外があるほか、
碁盤の目を複数結合したエリアというものがあります。
北海道大学北海道庁知事公館、そして『植物園』などがあります。

そして植物園には『植物園の耳』と私が称する一帯の民有地があります。

民有地ということは自由に取引がされている訳ですが、現在どのような内容になっているのでしょうか。

地図を見てみましょう。


以上。

・・・という訳にもいかんでしょうね。

これでは記事になりませんから、一つ一つの施設を紹介してゆきましょう。

◇位置指定道路 第5113号
 前回紹介した通り『植物園の耳』には、位置指定道路が通っています。
 それが昭和49年に指定された位置指定道路 第5113号です。

 それまでは非常に雑然としていた『植物園の耳』が整理され、
  現在も新たな建物が建てられているのは、この道路の功績です。
 道に囲まれた中州部分には『Wall/Wall annex』の駐車場があります。

◇植物園グランドハイツ
 昭和51年に竹中工務店によって施工・分譲された地上7階建のマンションです。
 『植物園の耳』に現存する共同住宅としては最古の建物であり、
 斜めにオーバーハングした壁面は黒川紀章氏の建築を思わせます。
 まさに『植物園の耳』を象徴する建物と言っていいでしょう。

 現地調査を行なった平成28年当時は大規模修繕の最中でした。

 中古物件情報を見ていると分譲マンションとしては珍しく、居住用だけでなく事務所としての利用が認められているようです。
 『旧耐震基準』の建物の為、それなりに手頃な価格で流通しています。

 南側がこうなっていると、下層階の採光がどうなっているのか、ちょっと心配です。

◇Wall(ウォール)
 平成24年築、14階建の建物です。
 6階までの低層階がオフィス、7階からの高層階が賃貸マンションのようです。

 貸スペースなんかもやっているようです。
 ホームページによるとWallとWall annexは株式会社シティーと、株式会社City&Wallという会社が運営しているとのことです。

 Wall & Wall annex
  http://city-wall.jp/

 商業登記などを見るに、株式会社シティー昭和56年に設立された有限会社村上建築設計室が前身の法人で、株式会社村上オフィスを経て平成14年に現在の商号になっています。
 また、株式会社City&Wall昭和63年に設立し、紙媒体の登記簿は当初の商号は不明ですが、株式会社ウオールという商号から平成16年に変更されています。
 設立者は建築士の村上 憲一氏ですが、既に両社の代表を辞任しており、インターネット上では断片的な情報しか拾えませんが、一級建築士事務所である株式会社アトリエジーセブンを主宰していたり、関西国際大学のシニア学生をやったり、諸々の特許を取得したりと、活動は多岐に渡るようです。

◇Wall annex(ウォールアネックス)
 7階建で、すべての階層がオフィスになっているようです。
 正確な築年数はインターネット検索では出てきませんし、
 登記情報を調べてもいませんから、分かりません。

 左側が『ウォールアネックス』です。

 どうも、平成11年頃には既にある建物のようですが、
 アネックス(別館)の方が先に建っている、というのは不思議な気がします。
 会社の履歴なども考えると、現在『ウォール』が建っている場所に旧『ウォール』が建っていたのかな、という気もします。
 建物の登記や住宅地図を調べれば分かることですが、あえて調べていません。
 だって、平成になってからの話なんか、別に金さえあれば誰にだって簡単に調べられる訳ですから。

◇インファス(INFUS)
 平成13年築の8階建のいわゆるリーガルビルです。

 『いわゆるリーガルビル』というのは、法曹ビルとも呼ばれますが、
 法曹関係の有資格者事務所が多数入居しています。

 弁護士、公認会計士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーと文系法律系資格の見本市ですね。
 5~7階の3フロアを使用している村松 弘康弁護士事務所は、所属弁護士数も圧巻の多人数ですね。
 法科大学院(ロースクール)の設置によって弁護士の増え方というのは雨後の竹の子とも言っていいレベルですが、それでも15人超の弁護士事務所は札幌では片手で数えられるはずですから、市内最大手の事務所の一つ、と言えるでしょう。
 村松 弘康弁護士は昭和21年陸別町生まれ、面識はありませんが平成30年で72歳になられる方です。

 案内板では7階までの表記ですが、建物はどうみても8階建てです。
 建物所有者のオーナーズルームでしょうかね。
 (村松弁護士が賃貸なのか、建物のオーナーなのかは登記を調査していません。)


◇コンフォリア札幌植物園

  平成18年築、15階建ての高級賃貸マンションです。
 『東急不動産の都市型賃貸』として豪華なホームページが用意されています。

 【公式】コンフォリア札幌植物園|西11丁目駅の高級賃貸マンション
  http://www.comforia.jp/resi/sapporoshokubutuen/index.html

公式サイトによると追い焚機能、ミストサウナ、宅配ボックス、食器洗浄機、シューズインクローゼットなど設備の充実した2LDK~3LDKのマンションで、築10年を経過していますが募集賃料は16万円程度

関東の相場では格安ですが、札幌の相場を考えれば十分に『高級』マンションです。

この建物、旧名称はアーデンコート植物園となっていました。
これは、平成28年コンフォリア・レジデンシャル投資法人に『信託受益権』が移った為、名称が変更されたものです。
コンフォリア・レジデンシャル投資法人というのは東急不動産グループの投資法人です。
『信託受益権』は不動産の流動化のための制度で、『所有権』は信託銀行が所持したまま、その不動産から得られる利益を『信託受益者』に支払われるというものです。
では、『所有権』は誰にあるかと言うとみずほ信託銀行株式会社が管理し、信託を受託しています。
この土地は過去に住友不動産株式会社が所有していたこともあったようですから、財閥系の不動産会社のうち、関わっていないのは三井不動産だけなのでは?という気もしています。

こういう大きくて新しい物件というのは、地場の業者である我々が取り扱うチャンスが来るのは、築年数がだいぶ経ってから、というのが現実です。

◇個人住宅
 植物園の耳の集合住宅群に囲まれた唯一の戸建て住宅として、Kさんという方がお住まいの2階建+地下1階付の建物があります。

 個人住宅についてあれこれ調べたものを公開してしまうと、トラブルになる可能性があるので差し控えさせて頂きますが、イマドキGoogleストリートビューもありますから、大変恐縮ですが建物の外観については掲載させて頂きます。

っていうか、Googleストリートビューで表札が判読出来るんですけどね。
モザイク機能、もうちょっと発展してくれてもいいと思うのですが・・・

◇月極駐車場/専用駐車場
 『植物園の耳』の北東部には株式会社トーショウビルサービスが管理する月極駐車場と専用駐車場が併設されています。


 土地の所有はどちらも神原商事株式会社であるように見えます。(登記は調べてません。)
 神原商事株式会社は札幌では老舗のベアリングや機械の卸売り業者です。

 神原商事株式会社
  http://www.kambara-shoji.co.jp/info.html

 会社概要によると、昭和25年から平成2年の40年間に渡ってこの場所に本社があったとのことです。
 まぁ確かにここに本社があるよりは、広い郊外に本社を移してこちらは賃貸で回しておいた方が商売上、効率が良いでしょう。

 ちなみに位置指定道路 第5113号を申請したのも神原商事株式会社です。

◇コインパーキング タイムズ
 ここからは南西側の空き地に目を移してゆきましょう。
 一番南西角の土地とグランドハイツ植物園の間に挟まれているのが、コインパーキングの『タイムズ』です。


 タイムズについては説明不要ですね、しかし平成28年の調査時にはこの土地には東急不動産『ブランズ マンションギャラリー』がありました。

 現在は既に解体・撤去されていますが、このモデルルームが設置される前も、タイムズとしてタイムパーキング事業がされていたようです。
 このように流動的な土地利用が可能なのも、タイムパーキング事業の魅力ですね。

◇コインパーキング アルファパーク
 そして最後は南西角地の株式会社アルファコートが管理するタイムパーキングです。

  アルファコート株式会社
   http://www.alphacourt.jp/

 こちらの会社は平成16年設立と社歴は浅いですが、札幌の不動産投資で多様な動き方をしており、市内各所に中古ビルを取得しているほか、新築事業も盛んです。
 自己所有物件も相当数ありますが、投資家から土地建物を預かって管理運営をする事業も行っています。
 投資家に賃貸マンションや介護施設を新築したり、駐車場を管理したりということですね。
 この土地については 所有者は調査していませんからアルファコート株式会社なのか、その顧客なのかは分かりません。
 角地ですから、この土地もいずれは分譲か賃貸のいずれかのマンションが建築されてゆくのでしょう。

◇消えていった戸建住宅
 現在は2つのタイムパーキングとなっている南西角の一角ですが、
 少し前までは4戸の戸建住宅が建っていました。

 Googleストリートビューのタイムマシン機能、非常に便利ですね。

・・・と、言う訳で今回は『植物園の耳』の現在の姿を紹介しました。
街は常に変化を続け、従来、その記録は僅かしか残りませんでした。
しかし、デジカメやPC、インターネットとスマートフォンといったコンピュータの普及によって社会のストレージは非常に拡大し、過去の街の姿は残されてゆくようになるのかもしれません。

その分、限られた資料から過去の姿を再構築して、共有するということは非常に価値があると考えています。
次回以降、お決まりの古地図と航空写真から過去の姿を見てゆきましょう。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ

『植物園』というのは、札幌における一つのランドマークであり、観光名所です。
北海道大学や時計台、札幌テレビ塔、赤レンガ庁舎、すすきの交差点などと比べると全国区ではありませんし、地元民にとっても円山公園や平岡公園、五天山公園、滝野すずらん公園に比べると、知名度はさほど高いとは言えないかもしれません。

とはいえ、『植物園』というのは非常に由緒正しい施設ですし、北海道庁の一つ東のブロックにあり、北海道大学の数区画南側に位置するという立地条件から、観光地としては赤レンガ庁舎や北大構内と一体的に扱われていると言えるでしょう。

ところで平成27年11月7日放送の『ブラタモリ』第22回のテーマは『札幌』でした。
 ブラタモリ#22 札幌 ~なぜ札幌は200万都市になった?~
  http://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list22/

元々インターネットなどでも注目度の高い番組ですが、私が不動産業界にいるという事もあり、地元がテーマのこの回については周囲でも注目度が高かったように思います。

この回の前半部分では植物園の東側の道路が屈曲しており、それに面する『シティハウス道庁前』が道路に合わせて曲がっていることが取り上げられました。

写真中央の緑色の局面のあるマンションが『シティハイム道庁前』です。

札幌市の中心部は扇状地の端に面しており、湧水が豊富です。
そして、湧き水を表すアイヌ語『メム』という言葉も紹介されました。
この『メム』による川の痕跡が、線路の北側の偕楽園まで残っているのだと。

札幌を自動車で走っていると、この辺りの道路が屈曲していてかなり走りづらいことは、皆さん日常的に感じていたようで、また、我々地場の不動産業者のコミュニティでもそれなりに話題になったものです。

ここで、植物園の案内図を見てみましょう。

確かに、地図右側=東側の辺が屈曲していることが分かりますね。

こりゃー、地形に詳しいタモリさんも気になる部分ですよね!!

・・・って、いやいやいや、着眼点がおかしいでしょ。

南北3区画×東西3区画=9区画を乱すもっと大きな問題がありますよね!
東側の辺の屈曲以前に、南東側に欠落した部分があるでしょうよ。
そっちの方が問題なんじゃーないですかね!!

実はこの欠落には、以前から着目していまして、調べよう、調べよう、と考えていました。
と、言うのも、この欠落部分には位置指定道路が通っているのです。

平成26年3月、札幌市都市計画情報提供サービスで位置指定道路が調べられるようになって以来、私は片っ端から位置指定道路の情報を集めていたのです。

その中でもこの欠落部分に関しては、公有地の一部が欠けている訳ですから大きな興味を持って予備調査を進めていました。

旧ブログ以来、年末年始には、シリーズ記事を書くようにしていますが、大まかに年末や新年にちなんだ記事を書くことが恒例化しており、平成29年1月にはこのエリアと『札幌市位置指定道路第1号』を悩んだ挙句、位置指定道路第1号の記事を書きました。

・・・と、言うのはこちらのエリアについては、あまりにも謎が多く、調べきれないと判断した為です。

その後、経営者になったりこのブログを設置したりとバタバタしていましたが、ようやく目途が立った為、今年のシリーズ記事ではこのエリアについて取り上げることにしました。

このエリアについては『植物園のヘソ』とか『植物園内民有地』とか、色々と通称を考えてみたのですが、私は『植物園の耳』と呼ぶことにしました。

形状が『耳』に似ているうえに、公有地の端にある私有地という意味でも『耳』ですから、我ながら良いネーミングなのではないか、と自画自賛してみます。

さて、『植物園の耳』がどうして出来たのかについて、この3年の間に古株の不動産関係者に聞いてみました。
不動産関係者、といっても郷土史の専門家ではありませんし、皆さん戦後生まれですから、大抵の方は『知らん』の一言で終わりですが、以下のような面白い回答もありました。

『明治頃のゴタゴタで官有地が反社会的勢力に乗っ取られたものではないか。』
“メム”の痕跡でこのような形になったのではないか。』
『戦後、GHQの関与などの何らかの事情で払い下げられたものではないか。』

色々な方から『探ると消されるんじゃないのか』という声が聞かれ、また、調査当初はあまりに先が見えない為、何か危険な裏事情があるのでは・・・等とも考えていました。

郷土史の方はどうなのか、と言えば、平成17年3年に発行された比較的新しい郷土史である『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』を始めとして、さまざまな郷土史をざっと読みしましたが、植物園に関する記載はあっても、単に成り立ちと現況が書いてあるだけ。
『さっぽろ文庫』はすべて読破している訳ではありませんが、関係しそうな巻でも該当する記事は見当たりませんでした。

それでは、『北大植物園』に関する文献はないものかと探してみましたが、これもはずれ。
植物園単独に関する書籍は、札幌市の図書館では1冊しか見当たりませんでした。
北海道大学に関する記録である『北大百年史』に関しても昭和57年発行の通説、昭和55年発行の部局史のいずれも、簡単な成り立ちと現況についてしか説明がありません。

すべての文献を読破した訳ではありませんが、どうやら『植物園の耳』への関心は非常に低いように見受けられます。

まー、インターネットを見回すと建築畑の方や鉄道畑の方、園芸畑の方から新聞畑の方まで、色々な人が札幌の歴史についてインターネットで書いていますが、インターネット検索においても、有効な情報は見当たりません。

ブラタモリのナビゲーターをした2名の方に聞いてみる、という事は出来なくはありませんし、植物園を管理する北海道大学に問い合わせをする、という方法もありますがそれじゃー面白くありません。
昔から『事情通に事情を聞かない』のが、私のスタイルです。
(というか、聞いたとしてもおそらく私の知りたいことはご存じないのではないのかなー、と思うのです。)
私はあくまでもアングラ文化の人間として顔も出さずに活動をしていますから、単に地形がどーだ、郷土史がどーだという話ではなく不動産の実務家としてもっと突っ込んだことを書いていきたい、というのが本当の処です。

さて、論点をまとめましょう。

①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

①については、札幌の成り立ちや地形に詳しい方であれば、ある程度想定出来る内容です。
しかし、②の発端と経緯については、調べれば調べるほど深みに嵌ってしまいます。

公有地(官有地)が民有地になった時期については、公的な記録から比較的すぐ調べがつくものですが、民有地を取得した人々と背景、という部分になると、それを知ることは非常に難しいと言わざるを得ません。

公的な記録に、取引の事情取得した人の氏素性が書かれている訳はありません。
足掛け3年に渡って・・・と言っても、最初の1年は殆ど調べず、今年のうち半年は業務に追われていましたが、調査に調査を重ねて、ある程度真実が読み取れて来ました。

フィールドワークでは植物園、北海道大学、知事公館の他、遠くは当別まで行きました。
文献調査ではある限りの地図、航空写真の他、札幌に関する人名録を市立図書館だけではなく、国会図書館のデジタルライブラリーで引っ張って読み込みました。
最終的には『北海道寺院沿革誌』などというマニアックな書籍に至りました。

開拓当初からの調査ですから、調査対象という意味でも、調査期間という意味でも、過去最長です。
勿論、まだまだ調査は可能ですし、継続はしていきますが、調査は長引けば長引くほど得られるものは少なくなっていきますし、北海道立図書館がアスベスト問題で平成29年10月から閉館中で、中長期的判断が必要となってきました。
ある程度、事実関係が明らかになってきたこのタイミングで、シリーズ記事を公開することとしました。

実務でここまで調査する事はありませんが、このブログは不動産のプロフェッショナルとして、調査能力のデモンストレーションとしてやっている、という側面もありますから、次回以降、『ここまで探れるんだ』という事をお示ししていきます。
まー、気が向いた方は不動産の売却でも依頼してみて下さい。いい仕事しますよ。

それでは次回から本格的に『植物園の耳』のナゾに迫っていきましょう。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

C-9 市道への意外な伏兵!『門前土地使用承諾書』


アントニオ猪木が『この道を行けばどうなるものか』と引用したように、『道』というのは本来的にどこかに行けてナンボのものなのです。

進んだ先が行き止まりになる道は、不動産の世界でも、少し格が落ちる訳です。

行き止まりになる道路を、法律上・税務上は『通り抜け出来ない道路』などと言います。
不動産業では俗に『ドン突き』と言ったりするようです。
元々は古い関西弁で突き当たりの事を『ドン突き』と言う事から、
関西資本の業者が使い始めた言葉でしょうか。

さて、『通り抜け出来ない道路』については、
それに面する土地についても、若干評価が落ちるというのが定説です。
(勿論、奥まった土地で静かなのが良い、というニーズも一定数ありますが。)

位置指定道路の場合には、『通り抜け出来ない』状況にする為には、
 ①幅が4~6mの場合、道の総延長が35mを超える場合には『自動車転回広場』の設置が義務付けられています。
 ②幅が6m以上の場合には、総延長がどこまで長くとも、『自動車転回広場』の設置は不要です。

さて、そうして指定された位置指定道路ですが、これを札幌市に寄付して市道としたい場合に、一つ、意外な伏兵が登場します。
それが『門前土地使用承諾書』です。

具体的に言うと、①の例の4~6mの幅で『自動車転回広場』がない場合には、
『道』の所有者が札幌市に寄付する意向があったとしても、
周辺の土地所有者から『門前土地使用承諾書』に署名押印をもらう必要があります。
これ、C-5 位置指定道路を市道にしてほしいときで紹介したパンフレット、
市道認定のガイドブック 私道から市道へ』では、よく読まないと分かりません。

特に重要な部分を引用してみましょう。
行止り道路の場合、用地幅員は6m以上確保されることが条件です。(中略)関係者(道路に隣接する土地の所有者及びその使用者のこと。)全員から門前空間地(土地のうち道路用地に面している玄関前空間や前庭などの一部のこと。)使用承諾が得られている場合は、最低用地幅員が4mまで緩和されます。

この承諾書、具体的にはこんな内容の承諾になります。

『この道は狭い道だから、自動車が迷い込んだ場合に、切り返しするために、
 自分の所有する土地の一部(門前土地)を通過することを予め了承するよ。

・・・う~ん、位置指定道路になっている時点で既にそのような自動車の侵入は多々あるでしょうから、市道にするにあたってわざわざそのような承諾書が必要になるというのは、市の事なかれ主義というか、お役所の自己防衛本能の強さというか・・・

札幌市が申請を受けた位置指定道路については、
あくまで私有地なのでそこまでは関知しないけれど、
公有地になったら市の責任になるので事前にハッキリさせておけ
、と。
そのあたりをハッキリさせるにあたっての承諾書の取得も、
『道』の所有者が責任を持って行え、という事のようです。

とはいえ、分譲当時と現在では土地の所有者も移り変わっている可能性もありますから、改めてそういった書面を取り付けておく方が、トラブルを回避できるのは間違いないでしょう。

この『門前土地使用承諾書』すべて揃わないと、原則寄付は受け入れられません。

道路に面する土地の所有者も、『位置指定道路に面する土地』から『公道に面する土地』に変わる訳で、不動産の処分価値としては、グンと上がる訳ですが、世の中には数字上の価値がどうだというより、兎に角、そういったことに協力をしたくない人というのも一定数いるもので、位置指定道路に面する土地の所有者のなかに、そういう人がいれば、計画は頓挫してしまいます。

それに、土地の所有者が皆さんそこに住んでいればよいのですが、
別の人に賃貸していたり、相続によって名義人の所在が不明となっていたりすれば、かなりの手間がかかる事が予想されます。
(要件では、『所有者』と『使用者』の承諾が必要とされています。)

札幌市の側としても、条件の良い位置指定道路については市道に組み込みたいようですが、あまり条件の芳しくない『ドン付き』のようなものについては、さほど積極的協力は望めません。

『門前土地使用承諾書』位置指定道路を市道にする大きな障壁のうちの一つと言えるでしょう。

当記事は2014年03月18日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-8 『位置指定道路』と『隅切』の奇妙なお話


『隅切』という言葉をご存じでしょうか?
こんなんです。

道路と道路の接続部をナナメに切っているものです。
これがある事で、見晴しがよくなり、車両の通行の安全性が高まります。
公道と公道の交差点には多くの場合、隅切がありますが、
広い道路と狭い道路の交差点などでは、一部隅切がない場合もあります。

位置指定道路』の場合でも公共の通行に利用される前提がありますから、
道路の指定を受ける為には、2mの隅切を設ける必要があります。
制度の初期に申請された位置指定道路には、隅切がないものもあります。
その場合であっても、市道として寄附をするためには、新たに隅切を設ける必要があります。

位置指定道路だからといって、寄附をすればそのまま市道になる訳ではない。
…というのは注意が必要な部分ですね。
現に『道』になっている部分と新たに『隅切』になる部分の所有者が違う場合には、
容易に『隅切』の部分の土地を寄付してもらうことは難しいかもしれません。

さて、それでは私が経験した、案件のうち『隅切』に関する奇妙な事例をご紹介しましょう。
地主のAさんが所有する土地は、市道①と私道②に挟まれた角地にあり、隅切はありません。

さて、Aさんはこの土地を分譲するにあたって、道路の位置指定を受けたい。
赤い部分がAさんが位置指定道路にしたい部分です。
前半でお話した通り、位置指定道路の指定を受ける為には、隅切が必要です。
…と、いう訳で、
…と、こんな風になると思うでしょう?
しかし、位置指定を受けるにあたって、札幌市からはこのような条件が出されたようです。
市道①と市道②の間の隅切がない部分に新しい隅切を指定するように求められたのです。
結果、赤い部分が一体の位置指定道路として指定されたのです。
位置指定を受けた部分については『道』ですから建物を建てられません。
更に、この飛び地の部分、登記上は緑色の土地と同一の土地という事になっているのです。

例えば将来、緑色の土地を売買しようとする場合に、角の隅切部分が位置指定道路になっていることが分かっていなければ、
建物を建てられない『道』の部分について、差額分の損害賠償請求を受ける可能性があります。

このように、由来の古い不動産ほど、訳のわからない取扱いがされている事があります。

古い物件に限らず、不動産を処分する際は、綿密に調査をし、慎重に書面を作成できる専門家に依頼する事が、最良のリスクヘッジと言えるかと思います。

当記事は2013年12月16日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-7 位置指定道路と『札幌市建築基準法施行条例に基づく接道義務』


建築基準法に従って合法に建物を建築するためには、
建築基準法上の道路に2mに接している必要があります。
これを俗に『接道義務』といい、土地の価値の重要なファクターの一つです。

前回:C-6 位置指定道路と『筆界』『分筆』『地型』で扱った道路で、
実際に、建物を建てようとした場合、どんな問題があるのか考えてみましょう。

土地Aに建物を建てるためには?
こういった接道形態を『路地状地』といったりします。
路地状地では例え道路との接面が2m以上でも、
路地部分の長さによって建築出来る建物の大きさが制限されます。

逆に考えると、道路との接面が2m未満なら建築不可能
接面が6m以上であれば、路地状敷地でも通常と同規模の建物が建築可能という事です。
接道状況がナナメになっていたり、間で細くくびれている場合、長さは狭い部分で認識します。

とはいえ、路地部分は通路用のスペースになってしまう訳ですから、
除雪も自己負担、建物までの配管埋設費用も自己負担、税金関係も自己負担です。
余分な費用がかかってしまうので、路地状地の市場価格は、
一般的な『整形地』より、何割か安く設定されている事が殆どです。(明確な決まりはありません)

土地Eに建物を建てるためには?
この例では、道路との接面が2m以上か未満かが重要です。

接面が2m以上であれば、若干特殊な接道形態でも、通常と同様に取り扱われます。
(接道義務以外の項目での制限も通常通りありますから、何でもOKという訳ではありません。)

土地Dに建物を建てるためには?
さて、問題となってくるのは土地Dへの建築です。
土地Dは、1つの土地の一部分が位置指定道路の範囲に認定されています。
公道の場合でも、位置指定道路の場合でもこのようなケースが多々あります。

道路となっている部分は、建物の建築が出来ないほか、
道路以外の部分に建物を建築する場合の建物規模の計算の根拠になる面積には加えられません。
いわゆる『建蔽率』・『容積率』がメジャーな言葉ですが、
ざっくり言うと建築できる建物の面積は、敷地の面積を基に計算されるのですが、
道になっている部分は、私有地であっても、建物の敷地として扱われないのです。

私有地ですから、道になっている部分の維持管理は原則自己負担となりますし、
使い道がない訳ですから、持っているだけ損な気分かもしれません。

新規に土地を購入する場合には、一部が道になっている土地について、
どのような価格設定になっているか、注意が必要です。

一見割安に見えても、実際は割高かもしれませんよ。

まぁ、位置指定道路になっている部分は一般的に固定資産税も安くなるので、
そのような取扱いがされていない場合には、各市税事務所に確認してみましょう。
もしかしたら毎年の固定資産税が安くなるかもしれません。

土地Bに建物を建てるためには?
さて、最後に土地Bですが、建築基準法上の道路と面していません。
接道義務を満たさない訳ですから、土地B単体では、原則、建築許可は下りません。

土地Bの上に建築物を建てようとする場合には、
その建築物の敷地を土地C&土地Bとするか、土地A&土地Bとする必要があります。
(もちろん、隣接する他の土地も加えても構いません。)
その場合には、隣地と合算され、通常通り建物の建築が可能となります。

しかしたとえば、これらの土地の所有者がそれぞれ別々だった場合、
土地Bの所有者が土地Bの処分を考えるとき、やはり単体では売却不能です。

そういったケースでは、土地Aか土地Cの所有者に話を持ち込むのが王道ですね。
大抵、近隣の市場価格より大幅に買い叩かれますが、
まぁ、そもそも市場に出した場合に価格が付かないので、やむを得ないと言わざるを得ません。

稀に、近隣市場価格並で売れるようなウラワザ的ケースもありますが、
殆どがそういったケースには該当しません。

⑤おわりに
このように、敷地と道路の関係と建築の可否は、ケースにより様々な対処が必要ですので、
自分で対処する場合には市役所などでじっくりと話を聞き、
業者に依頼する場合には、きちんとした知識を持った業者へ依頼しましょう。

当記事は2014年03月11日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-6 位置指定道路と『筆界』『分筆』『地型』


『道の範囲を調べるのに法務局行ってどうするんすか!』 
・・・と、当社の建物管理担当のスタッフに何度か注意しているのですが、
どーも法務局に登録されている内容がすべてと考えているようで、困っています。

今日は実務上の実例(当然、そのままではありません)を挙げて、
位置指定道路の奇妙な取扱いについてご紹介しましょう。
札幌市内に実際にある位置指定道路の実例です。

ここまで何度も書いている通り、法務局はその土地がどのように使われているか調べるための役所ではありません。
法務局はその『申請された』権利関係『申請された』不動産の内容を調べるための役所です。
それが『真実の』権利関係や『真実の』不動産の内容なのかを保証するものではありません。
まして、その土地のどこからどこまでが道路なのか、という話は完全に管轄外です。

例えばこんな『公図(地図に準ずる図面)』があります。
 ◇A-3 道の所有者を知りたいとき
 ◇B-3 地図・地図に準ずる図面の見方
さて、どこからどこまでが『道』の範囲でしょうか?
黒線が土地と土地との境界線、細い土地の脇にいくつもの土地が隣接しています。
ちなみにC’別の土地です。

普通、第一印象としてこのようなイメージを抱くのではないでしょうか。
細長い土地Gを『道』と考えるのが、まぁ健康的な考え方です。
しかし、例に挙げるという事は、実際の道の範囲は違う訳です。

札幌市役所の道路確認担当課でその周辺の道路状況を確認しましょう。
 ◇A-2 公道(と特殊な私道)の詳細が知りたいとき

市役所の調査の結果、実際の位置指定道路の範囲は下記の通りと判明しました。
法務局に登記されてる境界線と全然違うじゃん!!Σ(゚Д゚,,)

ええと、C’に関しては道の部分だけ、分離していた訳ですが、
については、『一体の土地の一部だけが位置指定されている』という、
世にも奇妙な取扱いがなされているのです。

つまり、土地の境界線と道路の境界線はまったく関係がない!
という事なんです。ホントですよ?(´・ω・)

しかし、これってあまりにも分かりづらいですよね。

・・・と、言うわけで、新しく位置指定道路を作ろうとする場合には、
きちんとその道路の境界線に合わせて土地の境界線を作らなければならなくなりました。
土地を2つかそれ以上に分けて境界線を作る事を『分筆』と言います。

という訳で、例えば今回の例のような土地に、
今回の例のような位置指定道路を新しく作ろうとした場合には、
このように分筆をして、道の境界線と土地の境界線を一致させて申請しなければなりません。
しかし、既に指定を受けて存在している位置指定道路については、その所有者に分筆をする義務が出来る訳でもなく、そのままの状態になっています。
その為にこのような入り組んだ状態になっているのです。

位置指定道路の実態をつかむのに、法務局をアテにしてはなりません。

位置指定道路だけではなく公道でも『公道供用』『セットバック』といって、
民有地の一部分が公道になっている事だってあるので、
道路の範囲と、その土地の権利の所有者は必ずしも符号しないという事ですね。

結論としては、道の範囲は法務局ではなく市役所で聞け!という事なのです。

当記事は2014年03月06日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-5 位置指定道路を市道にしてほしいとき


位置指定道路』は『公道』と『私道』の中間的な取扱いで、
『最もトラブルが多い種類の道路』と言っても過言ではありません。

札幌市には古くからの位置指定道路が数多くあり、
除雪関係の問題を始めとした各種トラブルも後を絶ちません。

勿論、位置指定道路は現在も新しいものが認定され続けていますが、
最近の位置指定道路は、きちんと測量・分筆してあったり、ある特定の人間しか通行しないものだったり、利害関係者に持ち分を配分していたりと、それなりに気配りされていますから、初期の位置指定道路よりは、ずっと扱いやすいものになっています。

しかし、既存の道路はなくなりはしない訳で、位置指定道路はどんどん増えてゆきます。

『位置指定道路』はあくまで私道ですから、舗装・配管・除雪その維持管理については土地所有者の責任となります。
ただ、具体的にどのような管理をするべきか、定められている訳ではありませんから、アスファルト舗装が剥がれて砂利道になっていたり、除雪がなく冬の間通行出来なかったり、位置指定道路の管理状況は、お世辞にも行き届いているとは言えないというのが現実です。

そうであれば、いっその事、市道として管理してほしいという周辺住民の意見をよく耳にします。
札幌市への相談件数もかなりの数に上るようで、わざわざQ&Aにそのための専用のページが用意されています。

 私道を市道として認定してほしい
  http://www.4894.city.sapporo.jp/cgi-bin/isDetail2.asp?sURL=file://FAQ/Daily/1199.xml

この方法では、幅や状況について各区の『土木センター』に相談したうえで、
主に3つの基準を満たすものを市道に認定すると提示しています。
8m以上の道路幅(既に家屋が建ち並んでおり拡幅が難しい場合は4m以上)があること
建築基準法上の道路となっており、沿線に住宅が建てられ、生活道路として利用されていること
道路用地は市に寄附すること

以上のように位置指定道路を市道にする簡単な基準が書かれていますが、
より詳細なガイドラインとして市道認定のガイドブック 私道から市道へが存在します。

こちらのパンフレットは、認定のための基準のほか具体的な数値基準、認定の流れが解説されています。
無論、事例はケースバイケースなので最終的には『市の窓口に相談して下さい』という形式ですが、
図解付きでよくまとまっており、概ね分かりやすい資料と言えるのではないでしょうか。

特に、私道が札幌市道として認定されるまでの手順を示すチャートについては、よくできています。

詳細はパンフレットを見てもらうとして、いくつか重要な点を抜粋して紹介しましょう。

◇『位置指定道路』の無償での『寄付』が必須
市道認定は現在『位置指定道路』である土地を、札幌市に寄付することが必要となります。
つまり、大前提として所有者が寄付してもよい『位置指定道路』でなければ『公道』にしてもらう事は出来ないという事です。
他人の位置指定道路を所有者の承諾なしに市道にすることは出来ませんし、
位置指定道路ではない単なる通路の寄付は受け付けられない
という事ですね。

市道認定の為の申請をするのは、所有者本人でなくとも可能ですが、
所有者が分からない場合には、寄付が成り立ちませんから、どうにもなりません。

つまり、既に亡くなった方が所有者である場合には、その相続人全員から印鑑証明書の提出を受けて寄付を受け付けるか、遺産分割協議書(印鑑証明書付き)によって相続登記をする必要がなります。

また、倒産・解散などで存在しなくなった法人が所有者であった場合は最悪です。
理論上は清算人破産管財人を見つけて来たり、選任したりして法人財産の処分をすることになりますが、裁判所に申し立てたところで受け付けられるという話を聞いたことはありません。

この他、個人が単に転居をしているようなケースであっても、所在が分からないことも多くあり、それが原因で認定手続が進まないこともあるようです。

自治体とはいえ、土地の所有者を完全に把握できる訳ではないのです。
(特に、納税の対象とならない私道の場合には、それが顕著です。)

◇市道認定されても維持管理は最低限
おそらく、市道として認定してほしいという方の一番の要望は、
『市の費用で除雪をしてほしい』というところがあると思うのですが、
現在市道でないような幅員の狭い土地については、幹線道路並の水準の除雪を期待することは難しいかと思います。
除雪が入るのは幅員8m以上の通り抜け道路です。
私は、幅員が8mを超える位置指定道路というのは、あまり見た記憶がありません。
詳しくは『A-14 除排雪の取り扱いを知りたいとき』を確認して下さい。

では、市道になって何の意味もないかと言えばそうではなく、上下水道やガスの配管工事の為の『掘削許可』を個人ではなく市からもらう事が出来るようになります。
除草、砂利の整備、アスファルト舗装などの維持管理についても、ある程度は期待出来るでしょう。

特に使い道がなく、特に固定資産税が課税されているような位置指定道路をお持ちの方は、
いっその事、札幌市に寄付をして認定道路にしてもらうのも一つの方法かと思います。
プラスにはならなくとも、マイナスではないのですから。

◇市道認定の為には、大変な時間がかかる
共有となっている位置指定道路に関しては所有者探しだけでも一苦労なのですが、
仮に所有者が全員判明していたとしても、所有者全員の承諾を得た上で、
測量による境界の確定や分筆をした後、札幌市に対して土地を寄付します。

なんと、寄付したからといって自動的に市道になる訳ではありません。
札幌市議会で市道認定の決議が必要となり、その後、市道となったことが告示されます。

申請してから市道認定まで、平均的には2~3年を要するとのことですから、大変なものです。

勿論、各段階で止まってしまってそれ以上先に進めない、という事例もたくさん目にしています。

◇位置指定道路と市道認定では、役所の部署が違う
位置指定道路に関する手続きは『札幌市都市局建築指導部』の扱い、
位置指定道路を市道にする手続きは『札幌市建設局道路認定課』の取り扱いで、
『局』から管轄が違うので、全然一元化されていないのです。

札幌市のHPには『道路関係の担当部局一覧』というコンテンツがありますが、
管轄が『課』からしか書かれていないので、パッと見、その辺の事情はハッキリと分かりません。

位置指定道路は位置指定道路として、市道は市道として、同じ市役所でも部署によって判断が異なる事があります。

縦割り行政と言われない為には、きちんと部局間での連携をして、
道路に関する包括的なガイドラインを作っていく必要があるのではないでしょうか。

当記事は2013年09月23日および2013年12月11日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-4 位置指定道路を変更・廃止したいとき


今回は既に存在している『位置指定道路』を取りやめたい・変更したいというお話。
そんな時は、位置指定道路の廃止・変更の手続きを取っていかなければなりません。

しかし、位置指定道路は建物を建築出来るようにするために指定を受けるものですから、簡単にやめたり・変えたり出来るのであれば、建築基準法の意味がなくなってしまいます。
例えば、位置指定道路の所有者の意思だけで取りやめが出来るとしたら、分譲された土地の所有者達は、現在の建物を解体した後、新しい建物を建てることが出来なくなってしまいます。
ですから、位置指定道路の廃止・変更には厳しい制限が課されているのです。
位置指定道路になった時点で、その土地は準公的なものであって、自由に処分が出来るものではなくなった、という事ですね。

位置指定道路の廃止・変更のためにはその土地の所有者だけでなく、その道に接する土地の所有者などの承諾書が必要となります。
(隣接する土地の所有者すべて、という訳ではありませんが、かなり広い範囲での承諾書が必要になります。)
さらに、その承諾書を貰うべき人が亡くなっている場合には、法定相続人(多くの場合、配偶者と子・孫・曾孫)全員の承諾が必要になります。

その位置指定道路だけに面する建物がある場合には、事実上、位置指定道路の廃止はかなり難しいと言えるでしょう。

位置指定道路の周辺すべてが更地で単独所有となっている場合には廃止も可能でしょうが、
そもそも『住宅を分譲する為の道路』である位置指定道路の周辺が、更地であるというのはあまり考えられない、というのが現実です。

また、単なる廃止ではなく、変更の場合には、土地の測量・分筆が再度必要になってきますから、やはり土地家屋調査士に一任するのが通常です。

札幌市道路位置指定申請審査基準 第15条3項では位置指定道路を変更または廃止する場合に必要な承諾書について定めていますので、引用してみます。

(札幌市道路位置指定申請審査基準第15条3項)
(3)承諾書
ア 承諾書を要する者は以下に掲げるものとする。
①変更により、新たに道路敷地になる土地又はその土地にある建築物若しくは工作物の全部事項証明書「甲区」「乙区」欄の全権利者
②既存道路への腹付けによる幅員変更にあっては、腹付け部分の敷地の土地の全部事項証明書「甲区」「乙区」欄の全権利者
③変更又は廃止により、道路敷地外になる土地(一部廃止又は全廃止を含む)
 又はその土地にある建築物若しくは工作物の全部事項証明書「甲区」欄の全権利者
④廃止にあって、すみ切のみ(路線の廃止を伴わない)の場合は、その土地の全部事項証明書「甲区」欄の全権利者
⑤廃止により接道義務違反は生じないが、既存建築物の主たる玄関(正面玄関)
 及び車庫が指定道路に面している等、現に使用されている場合(図-6、例示2~4の建築物)には、 建築物の全部事項証明書「甲区」欄の全権利者
⑥ ①~④の権利者が死亡している場合は法定相続人全員
⑦ ①~④の権利者である会社が倒産・閉鎖している場合は、代表清算人等

イ 承諾書の内容は以下に掲げるものとする。
 ① 承諾書は(様式-1)とする。
 ② 承諾書の押印は実印を使用し印鑑登録証明書を添付する。

とにかく沢山の関係者に実印を押して貰わければならない、という事です。

「甲区」の権利者とは通常、不動産の所有者ですが、「乙区」の権利者というのは、抵当権者・・・つまり住宅ローンの借入先である金融機関などが多いのです。
と、言うことはもしローンの残債が残っていた場合には、金融機関からも実印と印鑑証明書を貰わなければならない訳で、これはもう実務上ほぼ不可能であると言えるでしょう。

位置指定道路の所有者にとっては不利な取扱いですが、位置指定道路に面した土地が、
その廃止によって建築基準法違反の状態にならないよう保護されているという意味もあります。

そもそも論として、位置指定道路の所有者は宅地の造成・分譲で十分な利益を得ている訳ですから、そのメリットと引き換えの不自由さと考えれば、やむを得ないでしょう。

このブログでは位置指定道路について、除雪の問題など書いていますが、その存続についてはとりあえず楽観視してもよいかと思います。

当記事は2013年09月18日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-3 道路の位置指定を受けたいとき


位置指定道路』は、通常では建物が建てられない土地に建物を建てられるようにする目的で指定されるものです。

つまり、こういう土地をこういう風にすることが目的である訳です。

実はこういう事をして良いのは、原則的には不動産業者だけ、と決まっています。
業務としての不動産取引を規制する法律に『宅地建物取引業法』があります。
その中で、不動産業・・・正しくは宅地建物取引業の定義について記載されています。

(宅地建物取引業法第2条2項)
宅地建物取引業 宅地若しくは建物(建物の一部を含む。以下同じ。)の売買若しくは交換又は宅地若しくは建物の売買、交換若しくは貸借の代理若しくは媒介をする行為で業として行うものをいう。

そして、宅地建物取引業法第3条によって『宅地建物取引業を営もうとする者は(中略)免許を受けなければならない。と定められています。

ですから、まとまった土地を商売として造成・分譲してよいのは宅地建物取引業者だけなのです。
『商売として』と強調したのは、どっからどこまでが商売なのよ、という話があって、先祖伝来の土地を何区画かに区分して売却したからといって、それがイコール『業』なのか、という問題があるからです。

とはいえ、位置指定道路の制度はやはり通常は免許を持った宅地建物取引業者が利用するものです。
また、実務的には位置指定道路の測量と分筆(区画割り)が必要になりますので、宅建業者も『土地家屋調査士』に依頼しなければ、指定を受ける事は出来ません。

基本的に、個人の方が独力で道路の位置指定を受ける事はありませんので、細かい取扱いを一つ一つ紹介するのではなく、位置指定道路の指定を受ける際の留意点を簡単に3つ箇条書きにします。

実務作業は土地家屋調査士に依頼するのが一般的です。

位置指定道路は、幅や奥行、舗装の状況など、一定の基準を満たしている必要があります。

指定を受けるためには、道路となる土地の所有者全員の承諾書と印鑑証明書などを提出する必要があります。

 道路の位置の指定(指定道路)について/札幌市
  http://www.city.sapporo.jp/toshi/k-shido/douro/shitei/douro-shitei.html

パンフレット付きで、詳細な取扱いが記載されています。
ここでは参考として、位置指定道路の形状に関する基準を見てゆきましょう。

・・・と、まぁ、昔の位置指定道路は他の部分と区分されていなかったり、例外的な取扱いが多かったものですが、現在においては、基準に従って正確に分筆され、形状等も制限に沿ったものしか認められません。

そして、一度位置指定道路の指定を受け、周辺に建物が建ってしまうと、その指定を廃止することはかなり難しくなります。
また、道になってしまった部分は、売却するにあたっても、価格はほぼゼロとなります。
(場合によっては、実態的な価値がマイナスとなる場合もあります。)
土地家屋調査士などへ相談した場合にも同様の注意を受けるかとは思いますが、
特にその後も位置指定道路を所有し続けようとする場合には、くれぐれも慎重に検討して下さい。

C-2 位置指定道路の始まりと必要性 ~戦後の事情と現代の事情~


昭和20年の敗戦に伴い、日本ではありとあらゆる制度が変わりました。

それは、GHQが戦前の制度が前大戦の引き金になったと考えた為です。
財閥制度、戸長・長子相続といった『家』制度、小作制度・・・
またそれ以外にも、アメリカが共産主義に対抗する為の防波堤として、より統治しやすく、資本主義的な制度を取り入れました。

昭和21年『自作農創設特別措置法』を始めとしたGHQの農地改革
昭和22年『過度経済力集中排除法』によるGHQの財閥解体ののち、
昭和25年『市街地建築物法』は『建築基準法』に変わります。

これが、日本の街並みが現在のようになった契機であるとも言えますし、
一方で国家の弱体化を招いたという人もいます。

戦後の札幌では、かつて開拓者や小作人だった人々が、
『自作農創設特別措置法』『過度経済力集中排除法』などによって、
国策企業や不在地主・大地主が所有する土地を譲り受けました。

昭和30年ごろになって、札幌の宅地化がより進んでいくと、
大きな土地を持った方々は、住宅地としての分譲を考えます。
例えば、このような大きな土地…農地や原野があった場合、どのように建物が建てられるでしょうか。
前回紹介したように『建築基準法では、建物を建てる土地は、道路に面している必要があると定められました。
これを建築基準法上の『接道義務といい、『市街地建築物法』における『建築線』制度から現代まで、100年生きている大原則です。
つまり、『接道義務』を守ろうとすると、このように道に面している部分にしか建物が建てられないという状況になります。
元々が農地や原野だった大きな一面の土地は分譲に向かないのです。

大きな土地にドン!と大きな建物を建てるという方法もなくはありませんが、
昭和30年~40年ごろでは、やはり一般的ではなく、木造戸建での分譲が主な処分方法でした。

このままでは大きな土地の奥の部分は建物が建てられず、利用価値がないという状況に陥ります。
つまり、GHQが望むところの土地の分散所有が達成されないという事です。
そこで活躍するのが、建築基準法第42条1項5号に定められた『位置指定道路』です。

(建築基準法第42条1項5号)
 土地を建築物の敷地として利用するため、道路法、都市計画法、土地区画整理法、都市再開発法、新都市基盤整備法、大都市地域における住宅及び住宅地の供給の促進に関する特別措置法又は密集市街地整備法によらないで築造する政令で定める基準に適合する道で、これを築造しようとする者が特定行政庁からその位置の指定を受けたもの

前回『告示建築線』は位置指定道路の前身である、と紹介しましたが、
『告示建築線』は行政官庁が指定するものであり、
『位置指定道路』は特定行政庁から指定を受けるものです。
しかし、建築基準法では、市街地建造物法と異なり、その主体はあくまでも『道を築造しようとする者』です。

これは、建築基準法によって、民間の主導で道路を築造し、分譲することが出来るようになったという事です。

つまり、農地改革、財閥解体、建築基準法の合わせ技によって、土地の分散所有を実現したです。

こうして、位置指定道路に面する部分には、建物を建てる事が出来るようになります。
このように、位置指定道路があることによって土地の有効利用が出来るようになりました。

そして宅地造成・分譲のブームが起こり、低所得者であっても住宅ローンで家を買えるようになりました。
『持ち家』『マイホーム』に対する信仰が生まれたのもこの頃だと言われています。

『建築基準法』の他、『(旧)宅地造成法』や長期低金利融資の住宅ローンを扱った『住宅金融公庫』などの各制度で、国は全面的にマイホームの取得を支援してゆきます。
『持ち家』があれば、家具家電も必要になりますし、様々なサービスも循環しますから、『家』が日本国の内需を支える原動力であった、とも言えます。

昭和30年~40年ごろまではそれでよかったのです。

しかし、これが、後々厄介なことになってきています。
何度も書いていますが、位置指定道路はあくまで私有地

位置指定道路の土地を持っている場合は・・・
 ・通り抜け出来ない位置指定道路には固定資産税がかかる。
 ・一度、位置指定道路にしてしまうと、なかなか処分出来ない。
 ・位置指定道路を所有していることに、メリットが殆どない。

一方、位置指定道路に面する建物の敷地を持っている場合は・・・
 ・配管を掘る場合、『私道掘削許可』を所有者に貰わなければならない。
 ・原則、除雪が入らない上、舗装費用も札幌市の負担はない。
 ・そのような不便があるので、財産価値が低い

・・・他にも諸々の細かい点はありますが、概ねこんなところでしょうか。
そして、位置指定道路を設定した、過去の地主さんがいなくなり、
その子供や孫の代になると所有者が分散し、その位置指定道路は完全に手が付けられなくなるのです。

戦後のマイホームブーム、続々と分譲された造成宅地の問題は位置指定道路だけではありません。
市街のスプロール(虫食い)化によって『都市計画法』が施行されたのは『E-1 市街化調整区域とは何か』で解説した通りですし、それだけでは問題が解決せず、既存の住宅地に『地区計画』を設定したのは『E-4 市街化調整区域と『地区計画』』で紹介しました。

他にも郊外に造成された新興住宅地の問題や分譲マンションの問題など『不動産神話』の爪痕は深いものがあるのです。

私は『不動産神話』の爪痕を解決してゆくことが、これからの不動産従事者の役割であると考えており、シリーズ『位置指定道路』がその為の一助になることを、願っています。

当記事は2013年12月09日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

C-1 位置指定道路の前身『告示建築線』とは?


さて、シリーズ『位置指定道路』の記事を初めてゆくにあたって、
過去記事の再録をしてゆく前に一つ、新規記事を書きたいと思います。

そも、『位置指定道路』というものを認識するにあたっては、
建築基準法における2つの大前提を抑えておかなければなりません。

『接道義務』
 建物の敷地は『建築基準法上の道路』に接している必要がある。

『建築基準法上の道路』
 『接道義務』を満たすための道路は、国道、都道府県道、市町村道といった、公道は勿論のこと、それ以外の一定の『私道』も認められる。

『建築基準法上の道路』については、建築基準法第42条に定めがあり、いくつかの種類はありますが、公道以外で最もメジャーなものが、建築基準法第42条1項5号に定める『位置指定道路』です。

建築基準法における『位置指定道路』の定めについては、
次回以降、その必要性や経緯についても解説してゆきますが、
今回はその前身ともいえる制度である『建築線』について紹介してゆきます。

建築基準法は建物の建築に関する法律でありますが、
戦後、昭和25年に定められた法律です。

それでは、それ以前には、建物の建築に関する法律はなかったのでしょうか?

勿論そんな訳はなく、それ以前には『市街地建築物法』(大正8年4月法律第37号)が施行されていました。

そこでは建物の建築について、このように定められています。

第七條 道路敷地ノ境界線ヲ以テ建築線トス 但シ特別ノ事由アルトキハ行政官廳ハ別ニ建築線ヲ指定スルコトヲ得

第八條 建築物ノ敷地ハ建築線ニ接セシムルコトヲ要ス 但シ特別ノ事由アル場合ニ於テ行政官廳ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラス

第九條 建築物ハ建築線ヨリ突出セシムルコトヲ得ス
    但シ建築線カ道路幅ノ境界線ヨリ後退シテ指定セラレタルモノナルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ 建築物ノ前面突出部又ハ基礎ハ道路幅ノ境界線ヲ超エサル範囲内ニ於テ建築線ヨリ之ヲ突出セシムルコトヲ得

(口語訳)
第7条 道路敷地の境界線を建築線とする。ただし、特別の事情があるときは行政官庁は別に建築線を指定することができる。

第8条 建築物の敷地は建築線に接するようにする必要がある。ただし、特別の事情がある場合で行政官庁の許可を受けたときはこの限りではない。

第9条 建築物を建築線から突出させることはできない。
    ただし、建築線が道路の境界線から後退して指定されているときは、
    建築物の前面突出部または基礎を、道路の境界線を超えない範囲で建築線から突出させることができる。

 

つまり、第7条で原則的には道路となっている敷地の境界線が『建築線』である、と定めており、
また、第8条では建物の敷地は『建築線』に接するようにしなければならないとしています。
そして、第9条で建物は『建築線』≒道路敷地に原則はみ出してはならないとされています。

これが現在の建築基準法で言う所の『接道義務』の原点である訳ですね。
また、『建築基準法上の道路』≒『建築線』ということが出来ます。

第7条の特例として行政官庁が”道路ではない場所に”『建築線』を指定する事が出来る、とされています。
これが『告示建築線』と呼ばれるもので、行政官庁が告示して、指定する建築線です。

行政官庁が全く道路のないところに指定することも少なくなかったそうで、
特に東京や大阪では、現存する建築線が大きな問題になることも多いようです。

札幌市でも昭和2年5月に指定された現在の『位置指定道路第1号』を始め、
市内の中心部に複数の建築線が指定され、その一部が現存しています。
(現存しないものは、公道になったものや、廃止になったものがありますが、詳細は不明です。)

北10条西1丁目にある位置指定道路第1号の昭和2年における告示建築線図面です。

そして戦後、『市街地建築物法』が『建築基準法』に切り替わるにあたって、
建築基準法施行時の附則第5項では以下のように定められたのです。

(この法律施行前に指定された建築線)
5 市街地建築物法第7条但書の規定によつて指定された建築線で、その間の距離が4メートル以上のものは、
  その建築線の位置にこの法律第42条第1項第5号の規定による道路の位置の指定があつたものとみなす。

『第七条但書の規定』とは、建築線のうち道路敷地の境界ではないもの、つまり『告示建築線』です。
そして、『この法律第42条第1項第5号の規定』とは前述の通り、位置指定道路の規定です。

つまり、『告示建築線』のうち、幅が4m以上のものは位置指定道路の指定があったものとみなす、という事です。

では、4m未満の『告示建築線』はどうなのか、と言えば建築基準法第42条2項にこのような定めがあります。

2 この章の規定が適用されるに至つた際現に建築物が立ち並んでいる幅員4メートル未満の道で、特定行政庁の指定したものは、前項の規定にかかわらず、同項の道路とみなし、その中心線からの水平距離2メートル(前項の規定により指定された区域内においては、3メートル(特定行政庁が周囲の状況により避難及び通行の安全上支障がないと認める場合は、2メートル)。以下この項及び次項において同じ。)の線をその道路の境界線とみなす。
  ただし、当該道がその中心線からの水平距離2メートル未満でがけ地、川、線路敷地その他これらに類するものに沿う場合においては、当該がけ地等の道の側の境界線及びその境界線から道の側に水平距離4メートルの線をその道路の境界線とみなす。

条文番号から『2項道路』という呼び名が一般的ですね。
これは『告示建築線』に限らず、昭和25年当時に存在した4m以未満の道について、
新規に建物を建てようとする場合には(原則)幅4mを確保すれば、その建築を認める、という規定です。
道路幅を確保するために建物を後退させること『セットバック』と言います。

このようにして道路を広げてゆき、防災や通行の確保、採光の改善などを図ってゆく訳です。

これは北7条東13~14丁目にある『苗穂工場裏通線』幅3.64m。
『公道』であり、かつ『2項道路』という特殊なものです。
おそらく、元々は『告示建築線』であったのではなかろうかと思っています。

この規定では『この章の規定が適用されるに至つた際現に建築物が立ち並んでいる』との前提がありますが、更にそれでは、昭和25年当時に建築物が立ち並んでいなかった『告示建築線』はどうなのでしょうか?

答えは簡単、建築基準法上の道路としては認められないのです。

しかし、『現に建築物が立ち並んでいる』のかどうか、という判定は、自治体が行わなければなりません。
自治体と土地所有者の争いが発生したという事例も少なくないようです。
また、戦後間もない昭和25年時点の状況で『現に』ですから、空襲などで焼け落ちた市街は、対象外という事です。
物の資料によると、戦災の激しかった名古屋では、ほとんど告示建築線が残っていないそうです。

そういった種々の問題を孕みつつも、『告示建築線』は今も街並みの中に潜んでいるのです。

次回以降、『位置指定道路』の取扱いについて紹介していきましょう。

調24 東米里厚生地区

当記事は2014年04月14日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:調24『東米里厚生地区』です。

この地区計画は平成22年8月5日に決定を受けたもので、
今のところ市街化調整区域内の地区計画としては最後に指定されたものです。
そして、東米里に3つ指定されている地区計画の最後の一つです。
(他の2つは『調3 東米里花園地区』と『調4 東米里東栄地区』です。)

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

認定幅員8mの市道『東米里15号線』両脇1.1ヘクタールが範囲です。
市街化調整区域内の都市計画としては、最新にして最も狭い地区となります。

面積が狭い事もありますが、私の経験の範疇では、流通事例を目にした事はありません。
『東米里厚生地区』という名称も、検索サイトでは札幌市国交省しかヒットしません。
更に、過去に位置指定道路だったからか、Googleストリートビューも入っていません。
まさに札幌市内で最も謎に包まれた地区と言えるでしょう (悪ノリ)

この文章も、民間のサイトとしては初となる筈です。(最初で最後かもしれませんが)

写真のように古い住宅が林立しており、老朽化が進んでいます。
この地区計画の決定によって、古い建物の立替が合法になりますので、
現状の土地所有者の保護という側面はありますが、
わざわざ新規にこの地区の土地を購入するメリットは、正直見出せません。

幹線道路の道道626号線東へゆくと江別市大麻の街中に到達しますから、
この地区に住むよりは、札幌の別の地区か江別市の大麻にお住まいになった方がよろしいかと思います。
まぁ、私の個人的な考えにすぎませんが・・・

ちなみに『第二種災害危険区域』に指定されています。
東米里花園地区、東米里東栄地区は第一種ですから、若干安全という判断のようですね。

地区計画の目標は以下の通り。
 当地区は、都心部より東方約9㎞の市街化調整区域に位置し、
 昭和40年代に道の位置の指定を受けた道路によって構成される一団の地区であり、
 現在、比較的良好な住宅市街地を形成している。
 そこで、本計画では、地区の特性に応じた土地利用と建築物等に関するルールを定め、
 現在の良好な住環境の維持・増進を図ることを目標とする。

毎度同じ文面です。絶対コピペしてますよね、市の職員も。
既存宅地制度の代替としての『建物が建てられる市街化調整区域』です。
実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

計画書 ・ 計画図 ・ 解説書

今回のように、殆ど流通していない土地、というものも一定数存在していて、
そういった土地は今後どうなっていくのか、未知数な部分が大きい
と言わざるを得ません。
この地区が10年後、小奇麗な住宅街になっている可能性もあり得ますが、
その場合には、この文章が先見の明のない不動産屋の戯言として残っていく事になります。

或いは、この地区についてのインターネット上唯一の民間文書が、
あまりよい評価をしていないので、この地区の地価が下落して、市街化が抑制されてしまうのでしょうか。

卵が先か鶏が先か、或いはまったく関係ないのか、今後の動向に注目しています。

決定:平成22年8月5日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

調23 曙11条2丁目地区

当記事は2014年05月31日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:調23『曙11条2丁目地区』です。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

都市計画道路『曙通』に面し、医療法人福和会『札幌立花病院』を中心とする一画です。

この地区の西側、南側、北(西)側の三方は決定番号111:『手稲曙西地区』に囲まれています。

決定番号111:『手稲曙西地区』はかつて市街化調整区域だった『穴抜き市街化調整区域』で、いわゆるニュータウン『明日風のまち』です。

参考図:『手稲曙西地区』 地区計画図

星置駅徒歩33分、手稲駅までバス乗車で10分って正直どうなのか、私には分かりませんが、まー造成されてそこそこ売れているのだから住む人はいるのでしょう。

『明日風のまち』についてはそのうち取り上げるとして、『曙11条2丁目地区』はその付随的・補完的立場の地域とでも言いましょうか。
いつもより早いですが地区計画の目標を見てみましょう。
 当地区は、都心部より北西へ約13kmに位置する周辺が市街化区域で囲まれた市街化調整区域で、
 隣接する都市計画道路「曙通」や上・下水道等の都市基盤は既に整備が完了している。
 「札幌圏都市計画都市計画区域の整備、開発及び保全の方針」では、
 都市の効率的な維持・整備を行うため、
 周辺が市街化区域で囲まれた市街化調整区域において地区計画制度を活用し、
 周辺市街地と調和のとれた土地利用の誘導を図っていくこととしている。
 そこで、本計画は、当地区での計画的な土地利用の誘導にあたって、
 用途地域等の指定に代わる基本的制限を定めることにより、
 緑豊かで良好な市街地の形成を図ることを目標とする。

平成22年、『手稲曙西地区』が市街化調整区域から市街化区域になったのに伴って、新たに『穴抜き市街化調整区域』になったという妙な経緯があります。

次回の都市計画決定の際に市街化区域に編入される予定ですが、オセロのようにして連鎖的に市街化区域が増えていくというのは、ちょっとどうなの、と思わないではありません。

地区計画は『一般住宅地区』『医療・福祉地区』『沿道地区』の3つに区分されています。
『一般住宅地区』と『医療・福祉地区』は『第一種低層住居専用地域』に準じた、『沿道地区』は『近隣商業地域』に準じた建築制限となっていますが、いずれの地区においても病院や介護施設、老人ホームなどの建築が可能になっています。

『医療・福祉地区』にはすでに『札幌立花病院』がありますが、現在更地となっている土地には同病院がサービス付き高齢者向け住宅・施設などの医療関係施設を建設するようです。
『札幌市都市計画審議会』の議事録でも触れられていますが、この地区計画自体が、この建設計画との兼ね合いによるものですから、それ以上、今後の展開などについても話しようがない、というのが本当の処なのです。

『一般住宅地区』に定められている土地には、製造業の事務所や一般住宅が立ち並んでいます。

地区の南端(地図下端の鋭角的な部分)には多数の広告看板があります。
実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。


(この地域については解説書の公開はありません。)

決定:平成22年6月9日 変更:平成25年2月28日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。