シリーズ『東雁来』④ 東雁来の歴史 ~明治から戦前まで~


さて、昨年ようやく札幌市による土地区画整理事業が完了した『東雁来』エリア、通称『ウェルピアひかりの』について何度か紹介してきました。 
このエリアが土地区画整理がされる以前、明治からどのような経緯を経てきたのかについて改めて紹介したいと思います。

今回は『東雁来』全体ではなくそのうちの一部、『ウェルピアひかりの』の範囲を地図で赤く囲み、比較してゆきますが、歴史の記述については概ね東雁来全域の歴史であるとご理解頂ければと思います。

東雁来地区の以前の名称は雁来村と言いますが、ここに最初に入植をした人々は、明治6年対雁村があまりに不便なので開拓地を替えて欲しい、と開拓使に要望をした人々でした。
彼らは明治4年に陸前国遠田郡馬場村(現在の宮城県遠田郡涌谷町)から入植した人々の一部です。
当初は同じく対雁村と呼んでいたそうですが、開拓使から紛らわしいので『雁来村』と改称するようにと命令が下りました。

そうして手に入れた代替の土地でしたが、豊平川は当時から氾濫を繰り返しており、土質も泥炭地(現在も札幌市の北側はほとんどがそうなのですが)で水はけが悪く、農業を営むには難しい土地でありました。
その為、当初対雁村から移ってきた人々は徐々に雁来村を離れ、最終的に残った人はほとんどいなかったという事です。

豊平川の氾濫や泥炭地質は他の札幌市北部の地域でも営農の支障となり、離散する開拓地が多かったようです。
寒冷地では細菌の働きが弱く、枯れた植物が十分に分解されずに冬になるという事を繰り返して土は泥炭となり、その泥炭はべたべたと粘土のように水を含みます。

国防と富国強兵のために北海道を開拓したい国としては、開拓民が離散することは避けねばなりません。
明治18~19年、北海道庁が樺戸へ向かう道路、現在の国道275号線を整備し、併せて明治19年には豊平川の雁来村付近にも築堤が出来、豊平川の氾濫が緩和されました。

明治28年には札幌監獄の囚人の労役として、雁来付近に堤防が築造されます。

こうして明治20年代になって若干堤防のようになって安定してきたため、雁来村には富山県や福井県などから入植した人々が定住するようになったとのことです。


こちらは明治29年に大日本帝国陸地測量部が発行した地形図に彩色をしたものです。
国道は現在よりも川寄りのルートを通っており、豊平川も蛇行しています。
また、地図左下の三角点通はまだ途中で止まっています。

また、地図の右上・北東側にはがこの付近に明治の早いうちから『牧場の茶屋』と呼ばれる場所があり、ここに売店や休憩所があったそうで、立ち寄った人々は必ず立ち寄っていたそうです。
今でいうところのパーキングエリアや道の駅ですね。
この後の時代、大正の地形図にも『牧場』と記載されていますが、ぼくじょうではなく、マキバと読むそうです。

この頃の産業というと主に農業ですが特にこの地域では燕麦が生産されていました。
札幌市東区といえば現在もタマネギが有名ですが、この頃の雁来村ではまだ生産されていなかったようです。
また、毎年秋にはサケが遡上しており、サケやマスを漁獲することもあったようです。

明治35年には雁来村が札幌村に統合され、札幌村字雁来村という町名になりました。(本文では継続して雁来村と呼称します。)
札幌の歴史に詳しくない方の為に解説しますと、ここで言う『札幌』は現在の札幌市東区にあたるエリアで、現在の中央区にあたる中心街のエリアは『札幌』といいます。

同じく明治35年には、雁来村で乳牛の飼育が始まり、雁来村ではその後酪農が盛んになってゆきます。
併せて、この周辺の農作物として牧草の生産が始まります。

雁来村では他にジャガイモデントコーンが生産されていました。
デントコーンとは、主にデンプンの利用や飼料としての利用を中心として生産されるトウモロコシです。
いわゆるトウモロコシとして食用されるものはスイートコーンと呼びます。

この頃の雁来村の農家さんは川を挟んで東側である現在の札幌市白石区米里や江別市に畑を持っていた方が多く、豊平川を渡るために、渡し船を持っている方が何人もいたようです。
豊平川に架かる最寄りの橋と言えば白石本通(現在の国道12号線)に架かる東橋であって、雁来村から直線距離で最低でも2kmありますから、普段使いをするわけにはゆきませんでした。(目的地が逆方向の為、単純計算で倍の4km移動距離が増える訳です。)

その為、当時から橋を架けたいという計画があったようで、北海道開発局は明治43年頃の設計図面を公開しています。
実際に建築が始まるのは明治、大正を経て昭和になってからです。


こちらが大正15年、大日本帝国陸地測量図発行の地図です。
『雁来』のほかで分かる事として『三角』として三角点通りが開通していること、画像中央右側の『場』という文字は『牧場』の一部であることなどがあります。
画像左下には『大谷地原野』の文字、大谷地と言えば現在、札幌市厚別区の中心地の地名ですが、場所としてまったく離れています。
元々『大谷地原野』現在の白石区米里、東米里、北郷、川北、川下などを含む一帯で、雁来を超える泥炭地・軟弱地盤地でしばらく開拓が進みませんでした。
元々『厚別』も札幌市南区の奥地を指す呼称ですから、札幌の歴史においては元々の地名と現在の地名の位置がズレでしまっている事が多いのです。

画像の中央左側の『興農園』は、北海道最初のデパート『五番館』の創業者、札幌農学校出身の小川二郎氏の会社で、種苗や農機具の販売を行なっていました。
店舗は中心部にあり、この場所では牧草の生産をしていました。
記録にはありませんがもしかしたら、出張所のような形で種苗や農機具も販売していたかもしれませんね。

さて、堤防が築造されたことによってマシになったとはいえ、その後も依然、豊平川は度々氾濫していました。
ネタバレをしてしまうと豊平川は昭和56年になるまで氾濫を繰り返していたのですが、豊平川の治水というのはそれほどに困難な課題であったと言えるでしょう。

北海道開発局によると昭和7~16年、郷土史によると昭和8~19年にかけて、豊平川の河川の付け替え=ルート変更が行われます。

川が氾濫は水の流れが激しくなり、川の各部分での水量が一定ではなく、主にカーブ部分から水が溢れてしまうことで起こります。
ですから、川の深さを一定にしてカーブを直線化する、という大工事が行われます。
第二次世界大戦中をも通して行われた大工事で、戦時下でも実行するほどまでに非常に重要な意味を持っていたと言えるでしょう。

併せて明治43年から計画のあった『雁来橋』の計画も30年近くを経てようやく動き出します。
前掲の設計図に従って鉄骨トラス橋の建築が昭和13年に開始されます。
しかしながら、大東亜戦争の勃発から鉄材が不足し、橋脚(ピア、ピーア、ピアー等と言います)を設置した段階で工事は頓挫してしまいます。

やむを得ず、昭和15年には『雁来橋』として木造の橋が設置されます。

このようにして戦時中にも関わらず、豊平川の整備が進んでいきます。
そして、昭和9年には雁来村のうち、国鉄の鉄道を超えた東橋周辺(現在の札幌市中央区の東12~20丁目付近)が札幌市に編入されます。

そして昭和20年には終戦を迎えます。
上は戦後昭和27年発行の内務省地理調査所の地形図です。
地図に記載の『雁来橋』は木造のものですが、白石区と結ばれました。
雁来村一帯には牧草地が広がっているように見えます。
逆に、燕麦やジャガイモ、デントコーンなども生産されているはずなのですが、地図記号は『畑』ではなく『草地』となっています。
また、酪農では乳牛だけではなく羊も育てていたようです。

どちらにせよ、戦後の時点で純粋な農村であった東雁来村は、どのようにして札幌で平成最後の区画整理事業地『ウェルピアひかりの』となったのでしょうか?
次回の記事では戦後から平成に至る歴史を紹介してゆきましょう。

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