『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?

さて、シリーズ『植物園の耳』も第4回になりました。
前回は2つのナゾのうち1つ目のナゾが一応の解決を見ました。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
メム(湧水)による川の流れから、このような歪な形状で分断された、というのがその一応の答えです。
しかし、それは完全な回答ではありません。

『植物園の耳』以外にも北西角、西、東など、川によって分断されている場所はあるのですから、『この形になった理由』は川であっても、植物園の敷地の一部とならず、民有地として取り残された理由は説明出来ない訳です。

そのナゾは2つ目のナゾとともに、今回解き明かしてゆきこととしましょう。
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

『植物園の耳』について正しく理解するに至るには、非常に長い調査機関を要しました。
と、言うのも法務局で登記を見ても、色々な郷土史を読んでも、北海道大学の大学史を読んでも、『植物園の耳』がこのような形で残されていることの理由は書かれていなかったからです。

私は様々なアプローチから『植物園の耳』の誕生の経緯を探って来ましたが、その真相に至る為に、2年近くの月日を費やしました。
結論だけをポンと示す、というのは記事的な面白みにも欠けますから、各アプローチごとに判明したことを示したいと思います。

◇フィールドワーク
 不動産の調査においては、フィールドワーク=現地調査が最も重要です。
 『『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-』で紹介したように現地を確認して疑問点を洗い出し、また関連する場所へも調査へ行きます。
 植物園の園内についても、勿論確認をしています。
 まずは植物園の案内図で非公開となっている『苗圃』を確認したいと考えました。

 何故なら、ここは宮部金吾氏の住居跡地なのです。


 現在は植物の苗を育てるための倉庫やビニールハウスがあるだけで、特に何かがある、という訳ではないようです。

 航空写真を見ても、特に利用されている形跡は見えません。

 植物園内と植物園の耳以外には、偕楽園跡地北海道大学知事公館北海道開拓の村宮部記念緑地、そして一番遠い場所では当別神社まで足を運んでいます。
 本筋に絡む情報は出てきませんでしたが、色々と面白い事実もありましたので、のちのち登場してくるかと思います。

◇地図的アプローチ
 前回『『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷』で紹介した通り、物件調査にあたっては、詳細な資料を確認する前に地図や航空写真からのアプローチを行います。
 登記を調べるより全体のアウトラインを掴むことが出来、理解を助ける為です。
 前回は明治~大正の地図を紹介していますが、勿論昭和から現在に至るまでの集められる限りの住宅地図や航空写真についても収集しています。

 しかし、『植物園の耳』の状況は明治期には概ね固まっているため、戦後の事情をあれこれと書いていくのは蛇足かと考え、ひとまずは明治・昭和までで抑えておきましょう。

 ただ、せっかく集めた資料ですから『2つのナゾ』を明らかにした後に、気まぐれに記事を書いてゆこうかと考えています。

◇登記的アプローチ
 さて、ここからが今回初出の話題です。
 不動産の権利関係を調査するにあたっては、法務局で『登記』を調べるのが一番です。
 法務局の管轄や調べ方は『A-3 道の所有者を知りたいとき』で解説しています。
 まずは『植物園の耳』の現在の地番図を見てみましょう。

 このような区画になっています。
 土地の地番というものは、分筆をするごとに『親地番』のあとに枝番が付いていきます。

 例えば『1番』の土地を分筆した場合には、元の土地が『1番1』それ以外の土地が『1番2』『1番3』という風に枝番が付いて行きますが、仮にこの段階で『1番2』を分筆した場合には『1番2-2』とはならずに、同じ区画の『1番』の中で重複がなく、最も新しい番号、すなわち『1番4』という風に附番されるルールになっています。
 この場合の『1番』が親地番という訳です。

 つまり、『○番』の○の部分を見れば、元々の形状がおおよそ分かるという事です。

 この考え方に従って、過去の地番図を復元してみましょう。

 ただし、この考え方はあくまでもおおよその目安であって、正確なところは分かりません。
 と、言うのも、2つ以上の土地を合筆をした場合には、若い地番に統一される為、元々の親地番とは違ってしまう事が出てくるのです。
 分筆・合筆を繰り返しているとこの辺りが非常にファジーになってきますし、これを調査するには分筆・合筆ごとの地積測量図を取得せねばならず、莫大な調査費用がかかってしまいます。
 また、地積測量図自体が昭和35年の不動産登記法によって添付が義務付けられた書面ですから、戦前の分筆・合筆の履歴については追う事が出来ないのです。

 しかし、これでおおよその形状は掴むことが出来ました。
 次に、明治~戦前の登記記録から所有者を調べてみましょう。

北2条西10丁目1番・・・明治28年3月 星野和太郎氏 取得。
             明治34年2月 林文次郎氏 星野氏より購入。
北2条西10丁目2番・・・大正3年6月 内務省 所有権保存。
             大正5年11月 札幌区へ所有権移転。
            大正6年4月 林文次郎氏へ所有権移転。
北2条西10丁目3番・・・大正6年2月 内務省 所有権保存。
北2条西10丁目4番・・・昭和26年1月 久島久義氏 所有権保存。
北2条西9丁目1番・・・昭和33年2月 社団法人北海道乗用自動車協会 所有権保存

 ・・・各地番の最初の記載は、一番最初に登記がされた年月と所有者としています。
 つまり、それまでは『登記のない土地』であった訳で、登記のない土地というのはすなわち国有地です。
 明治のうちに民有地となっていたのは、唯一、北2条西10丁目1番だけであったという事ですね。
 そして、大正~昭和にかけて徐々に民有地が広がっていった、という訳ですね。

 明治26年に最初に『植物園の耳』を取得した星野和太郎氏、
 そして 明治34年に星野和太郎氏からこの土地を購入し、
 更に大正6年には札幌区から2番地を買い増した林文次郎氏、
 この2人の人物がおそらくはキーマンなのだ、という事が分かりました。

 しかし、登記では権利関係しか分かりません。
 何故、どのような経緯があって『植物園の耳』が出来たのか、それは登記では分かりません。
 また、この2人がどのような人物であるのかも、登記からは知る事が出来ません。

◇郷土史的アプローチ
 平成28年頃から、私は不動産の調査に郷土史を用いるようになりました。
 郷土史というものは多くは地元の有志が作っているもので、伝聞情報も多い為、必ずしも正確ではありませんが、過去の経緯について知ることも不動産を知るにあたっては重要な事です。
 しかし、以前も触れましたが、植物園の歴史について詳しい書籍は殆どなく、その沿革だけが記されているものがほとんどですから、いわんや『植物園の耳』についてなど、紹介されている訳がありません。

 北海道大学の大学史である『北大百年史』や地域の郷土史『桑園誌』を紐解いても、有効な記載はありませんでした。

 一方で、登記から調べた星野和太郎氏と林文次郎氏の2人についてはどうでしょうか。
 明治・大正期の歴史を調べるにあたっては『人名録』が非常に役に立ちます。
 札幌では『北海道人名辞書』『札幌之人』といった人名録やそれを現代文で編纂しなおした『新聞と人名録にみる明治の札幌』などの書籍があります。
 それらの『人名録』で2人の名前に当たってみましょう。
 また、インターネットでも検索を掛けてみることにします。

 星野和太郎氏に関する記述は、郷土史や人名録の中で見つけることは出来ませんでした。
 また、インターネット検索においても、星野『長』太郎という名前の検索誤りと認識されることが多く、有効な記事としては星野『長』太郎のWikipediaにその甥として記載されています。

 星野長太郎 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/星野長太郎

 しかし、この段階ではそれ以上に星野和太郎に関する記録を見つけることは出来ませんでした。

 一方の林文次郎氏はどうかと言えば、彼はかなりの名士だったようで、様々な人名録にその名前が記されています。
 林文次郎氏は北海道庁の出身で、その後独立して郵便局長を拝命し、牧畜業を営んだ、という人です。

 また、『桑園誌』には、知事公館にある『桑園碑』の文字を揮毫したのは林文次郎氏であるとも紹介されています。


 桑園にゆかりがある方、という事ですから、まず同一人物とみて間違いないでしょう。

 インターネット上では、林文次郎氏の孫だという元江別市議会議員の方のブログや、林文次郎氏の写真が北海道大学にあることなどが分かりました。

 しかし、調べられたのはそこまでで、『植物園の耳』のナゾに迫るには至りませんでした。
 1年以上の調査と郷土史や各種の資料をもってしても、『植物園の耳』のナゾは奥深く、解明するに至らなかったのです。

◇伝記的アプローチ
 私は調査を進めるにつれ、現地を見て、地図を読み、登記を調べ、郷土史を漁って、それでも分からないという事は、もう調べようがないのではないか、と諦め始めていました。

 しかし、ふとしたきっかけで一つ盲点があったことに気付くのです。

 大正11年の地図に名前が記載されており、植物園の創始者である宮部金吾氏の存在です。
 宮部金吾氏は開園前から退官の昭和2年までの長年に渡って植物園の維持管理に携わって来た方です。
 そして私は宮部金吾氏について調べることが、植物園について調べることなのではないか、という考えに至ります。
 伝記『伝記叢書232 宮部金吾』を読み込むごとに、『植物園の耳』に関する謎が氷解していったのです。

 これは『伝記叢書232 宮部金吾』に掲載された植物園創設時代の設計図です。
 そして本文には、植物園が現在の姿になるまでの経緯について紹介されています。

 なんと、当初植物園の敷地は図中『Ⅰ』の博物館周辺の範囲だけだったというのです。
 『Ⅱ』以降の土地は、後から移管を受けたり、他の土地と交換して手に入れた土地だったというのです。
 植物園がおおよそ現在の範囲になったのは、明治23年の事だとされています。
 ただし、『植物園の耳』である『Ⅸ』については伝記の中で記載がありません。

 そして、伝記の中で更に驚くべき事実が判明しました。
 なんと星野和太郎氏は、宮部金吾氏の弟子だったというのです。

 伝記の中では非常にあっさりとした書き方ですが、宮部金吾氏が札幌農学校の生徒を植物園官舎の自宅に住まわせていたという事が紹介されています。
 その中の最初の生徒が明治16年~明治19年に寄宿していた星野和太郎氏だったというのです。
 星野和太郎は札幌農学校の生徒であったという事が分かりました。

 次にインターネットで『星野和太郎 札幌』『星野和太郎 北海道』『星野和太郎 札幌農学校』など、片っ端から調べてみましょう。
 国会図書館のデジタルライブラリによると、著作に『北海道寺院沿革誌』『札幌農学校同窓会事業報告』『北海道蚕業沿革略』があることが分かりました。
 そしてそれらの著作の奥付には『植物園の耳』の住所が記載されているのです。

 また、『北海道蚕業沿革略』という著作があることを考えるとWikipediaに記事のある群馬の養蚕家、星野太郎氏との親族関係についても濃厚なのではないかと思われます。
 星野長太郎氏の甥の星野和太郎氏と同一人物だとするとWikipediaの参考文献となっている『星野家沿革』も著作ということになります。

◇知りうる情報からの推論
 ここまで収集してきた情報から、私なりの推論を立てました。
 必ずしも真実であるとは言えませんが、かなり信頼性は高いのではないかと考えています。

 星野和太郎氏は群馬の養蚕家、星野長太郎氏の弟、星野周次郎の長男として生まれ、明治16年に札幌農学校に入学します。
 北海道大学北方関係資料の写真『札幌農学校予科生徒たち(6人) 星野和太郎(予科最上級)を含む。』です。

 農学士として研究を続けるとともに明治24年には北2条西10丁目1番地の『植物園の耳』を取得し、養蚕の研究のために桑畑を運営します。
 明治8年の地図には『勧業課桑園』と記載されていましたから、十分ではないにせよ、元々桑畑はあったのではないでしょうか。
 明治27年『北海道寺院沿革誌』明治28年『札幌農学校同窓会事業報告』を著しつつ養蚕を続けたのでしょう。

 一方の宮部金吾氏は明治18年から植物園の敷地を拡げてゆきますが、弟子に土地を売ってくれ、とは言えなかったのか、あるいは交渉が決裂したのか、結局のところ『植物園の耳』は植物園の一部になる事なく、民有地として残されてゆきます。

 その後、おそらくは郷里に帰る必要があり、明治34年に林文次郎氏に対し、『植物園の耳』を売却したのでしょう。
 大正5年に、生家の星野家に関する著作をしていることからも北海道を去ったことが推察されます。

 ・・・と思っていたのですが、実は翌明治35年に開設された北一条郵便局の初代局長の名前に星野和太郎氏の名前があります。
 その後、5年の人気を務めた後、2代目の郵便局長となったのが林文次郎氏です。
 つまり、星野和太郎氏は明治40年頃までは札幌にいたという事ですね。
 また、植物園の耳の敷地だけでなく郵便局長の地位も引き継いだという事は、星野和太郎氏と林文次郎氏の関係というのは、非常に深いものがあったのだろうという事が分かります。

 その後、林文次郎氏は、川の流路であった2番地についても札幌区から払い下げを受け、この地区一帯に住宅地を形成してゆきます。

 そのようにして出来上がったのが『植物園の耳』なのです。

 次回は、林文次郎氏の人生と足跡について、紹介してゆきましょう。

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷

『植物園の耳』第3回ですが、1回目で提示した『植物園の耳のナゾ』を振り返ってみましょう。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

さて、これまでに南平岸、澄川、桑園、北10条西1丁目と、
様々なエリアの歴史を紹介してきましたが、
その手法として、古地図や航空写真を分析してゆく、という手法を取っていました。

これからも勿論そういった手法を活用してはゆくのですが、
正直なところ、この手法は必ずしも万能ではないと考えています。

地図に残っているのは道や建物の形状であって、それ以外の事柄・・・
例えば詳細な経緯や土地の権利関係などについては、分かりません。
地図で分かるのはあくまでマクロかつ表層的な事象であって、
詳細な内容や経緯、それに関連した人々を知ることは出来ません。

今回は例によって『植物園の耳』について古地図から追ってゆきますが、この方法では、『2つのナゾ』のうち、片方しか解決することが出来ません。
しかも、不十分な形で、です。

それでは、『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
古地図から追ってゆきましょう。

札幌の中心部に関しては明治期から開拓が始まっていた為、
明治期からの地図が入手可能である、というのは大きなメリットです。
中央部以外では、正確な地図は大正5年の陸地測量部地形図を待たねばなりません。

明治2年開拓使が設置された当時において、札幌は鬱蒼とした原生林であり、都市の形状はまったくといっていいほどありませんでした。

そこから急ピッチで都市開発を実施していく訳ですが、
責任者:島義勇判官の更迭などのゴタゴタがあって、
開拓使の本部である『開拓使本庁舎』が着工したのは明治5年
竣工はその翌年の明治6年を待たねばなりません。

北海道開拓の村にある開拓使本庁舎のレプリカです。

つまり、明治6年になってようやく開拓使の体裁が整ったとも言え、
この時期以降、札幌市中心部の全体像を表す地図が多く登場していくようになります。

こちらは、明治6年に開拓使が発行した『北海道札幌市街図』です。
本庁(旧字体で『本廰』)敷地は現在の北海道庁とほぼ同位置にありますから、北海道大学植物園は、川の流れがあり、開拓がされていない事が分かります。

『勧業課桑園』という文字も見えますね。
『桑園』の歴史を紹介した際にも記載しましたが、
道庁の西側から西20丁目近辺までは養蚕の為の桑畑にしよう、という計画があったのです。

同じく、明治6年『北海道札幌之図』です。
北海道大学図書館の北方資料室所蔵の資料で発行者は開拓使測量課と言われています。
測量課と地理課で、同じ年に結構内容の違う地図を作っているのは、面白いですね。
開拓使本庁の西側は、エアスポットのように空白となっていますね。

ブラタモリで紹介されたシティハウス植物園の湾曲の元となった川の流れも記載されています。

明治8年『札幌市街図』でも同様に、道庁の西側は川以外の記載はありません。
この地図の記載のとおり、道庁の正門は現在の赤レンガ庁舎と同じように、東側にあった為、西側にある植物園の敷地は道庁の『裏側』だったのです。

次の地図資料は明治24年『札幌市街之図』まで飛びます。
明治15年には開拓使の廃止やら、そこから始まる三県一局時代があり、明治19年には三県一局が廃止されて北海道庁が設置されたりと、北海道は激変期を迎えている訳ですが、その間の変遷は地図に残っていません。
もしかしたら、行政の混乱が地図の発行を滞らせたのかもしれませんね。

明治21年には現存する赤レンガ庁舎が完成し、道庁のエリアも狭まっています。
さて、この地図で初めて植物園の全体像が見えてきました。
ここで一つ、第一のナゾが解かれました。
『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
札幌市中心部の各所にあったメム(湧水)による小川の流れが、
碁盤の目の道路と相まって、このような『耳』を形成したのです。

ただし、『何故』という意味では植物園には他にも小川が流れている訳で、小川が流れているから『このような形状で取り残された』というのは、少し短絡的すぎる考え方なのではないか、とも思います。

だって、『川があったから民有地として取り残された』のならば、
植物園の敷地内には他にも川がある訳で、『何故』という理由にはなりません。

しかし、ひとまずこれが一つの回答という事でよいでしょう。

川の流れが詳細に記されているほか、中心には『博物館』なる文字が記されています。

同じ位置に現存する博物館本館がそれです。

この建物は明治15年開拓使最後の年に開拓使によって建築されました。
その後、明治17年農務省北海道事業管理局から札幌農学校へ移管され、
そこから植物園用地として整備され始めてゆくことになります。

明治32年『札幌市内明細案内図』です。
現在と異なり、街中を川が流れていた様子がよく分かりますね。
植物園の南東側に建物が建っているのが分かります。

また、南側の区画にはのちの札幌市立病院である『札幌病院』が、明治24年に設置されました。
札幌病院と植物園の間では因縁めいたやり取りもありますが、ここではまだ紹介しません。

明治40年『最新札幌市街図』ですが、南東側の建物が温室であると分かりましたね。


明治42年『最新札幌市街図』ですが、前の地図と同じ出版社の2年後の地図ですから、あまり変わり映えはありません。


ここで登場するのが大日本帝国陸地測量部・・・現在の国土地理院が作成した大正5年2万5千分の1地形図です。
正確な測量に基づく地図ですから、植物園東側の道路の歪曲も記録されています。

ここで初めて『植物園の耳』に建物が建ち始めているのが分かります。


最後に示すのは大正末期、大正11年『札幌市制記念人名案内図』です。
これが、民間発行の地図なのですが、非常に面白い。
現在の札幌市中央区・北区の中央部における人名記載の地図です。

大正5年地形図で建物が建っていたものについて、この地図では誰が住んでいたのか、という事が記録されています。
東側から読んで見ると佐々木・松本・深宮店・斎藤・安多と書かれています。
この人々ですが、今後出てくることはありません。

そして、さらに東側には『札幌看護婦会』という建物があります。
おそらくは札幌病院に関連する施設なのでしょうが、
植物園のこのエリアについては、この後の歴史でも不思議と札幌病院に関連する利用がされています。

植物園の西側に赤いマーキングを付けた部分には『宮部金吾』と書かれています。
宮部金吾と言えば、札幌農学校の二期生で新渡戸稲造や内村鑑三と同期生です。
全国区の有名人ではありませんが、植物学の権威であり、植物園の初代園長です。

宮部金吾氏の住居と言えば、北6条西13丁目の宮部記念緑地が有名です。
これは晩年の住居跡を公園としたものですが、実は、現在の宮部記念緑地に居を構える以前、植物園の構内に長らく住まっていたのです。

そして、『植物園の耳』のもう一つのナゾを追う為には、
植物園の初代園長である宮部金吾氏を追う必要があったのです。

次回、様々な資料から『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?を明らかにしてゆきます。

『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-

札幌は碁盤の目の街並みである、という事は良く言われていますが、
主に河川や用水の痕跡である斜め通りや地形に合わせた歪曲などの例外があるほか、
碁盤の目を複数結合したエリアというものがあります。
北海道大学北海道庁知事公館、そして『植物園』などがあります。

そして植物園には『植物園の耳』と私が称する一帯の民有地があります。

民有地ということは自由に取引がされている訳ですが、現在どのような内容になっているのでしょうか。

地図を見てみましょう。


以上。

・・・という訳にもいかんでしょうね。

これでは記事になりませんから、一つ一つの施設を紹介してゆきましょう。

◇位置指定道路 第5113号
 前回紹介した通り『植物園の耳』には、位置指定道路が通っています。
 それが昭和49年に指定された位置指定道路 第5113号です。

 それまでは非常に雑然としていた『植物園の耳』が整理され、
  現在も新たな建物が建てられているのは、この道路の功績です。
 道に囲まれた中州部分には『Wall/Wall annex』の駐車場があります。

◇植物園グランドハイツ
 昭和51年に竹中工務店によって施工・分譲された地上7階建のマンションです。
 『植物園の耳』に現存する共同住宅としては最古の建物であり、
 斜めにオーバーハングした壁面は黒川紀章氏の建築を思わせます。
 まさに『植物園の耳』を象徴する建物と言っていいでしょう。

 現地調査を行なった平成28年当時は大規模修繕の最中でした。

 中古物件情報を見ていると分譲マンションとしては珍しく、居住用だけでなく事務所としての利用が認められているようです。
 『旧耐震基準』の建物の為、それなりに手頃な価格で流通しています。

 南側がこうなっていると、下層階の採光がどうなっているのか、ちょっと心配です。

◇Wall(ウォール)
 平成24年築、14階建の建物です。
 6階までの低層階がオフィス、7階からの高層階が賃貸マンションのようです。

 貸スペースなんかもやっているようです。
 ホームページによるとWallとWall annexは株式会社シティーと、株式会社City&Wallという会社が運営しているとのことです。

 Wall & Wall annex
  http://city-wall.jp/

 商業登記などを見るに、株式会社シティー昭和56年に設立された有限会社村上建築設計室が前身の法人で、株式会社村上オフィスを経て平成14年に現在の商号になっています。
 また、株式会社City&Wall昭和63年に設立し、紙媒体の登記簿は当初の商号は不明ですが、株式会社ウオールという商号から平成16年に変更されています。
 設立者は建築士の村上 憲一氏ですが、既に両社の代表を辞任しており、インターネット上では断片的な情報しか拾えませんが、一級建築士事務所である株式会社アトリエジーセブンを主宰していたり、関西国際大学のシニア学生をやったり、諸々の特許を取得したりと、活動は多岐に渡るようです。

◇Wall annex(ウォールアネックス)
 7階建で、すべての階層がオフィスになっているようです。
 正確な築年数はインターネット検索では出てきませんし、
 登記情報を調べてもいませんから、分かりません。

 左側が『ウォールアネックス』です。

 どうも、平成11年頃には既にある建物のようですが、
 アネックス(別館)の方が先に建っている、というのは不思議な気がします。
 会社の履歴なども考えると、現在『ウォール』が建っている場所に旧『ウォール』が建っていたのかな、という気もします。
 建物の登記や住宅地図を調べれば分かることですが、あえて調べていません。
 だって、平成になってからの話なんか、別に金さえあれば誰にだって簡単に調べられる訳ですから。

◇インファス(INFUS)
 平成13年築の8階建のいわゆるリーガルビルです。

 『いわゆるリーガルビル』というのは、法曹ビルとも呼ばれますが、
 法曹関係の有資格者事務所が多数入居しています。

 弁護士、公認会計士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーと文系法律系資格の見本市ですね。
 5~7階の3フロアを使用している村松 弘康弁護士事務所は、所属弁護士数も圧巻の多人数ですね。
 法科大学院(ロースクール)の設置によって弁護士の増え方というのは雨後の竹の子とも言っていいレベルですが、それでも15人超の弁護士事務所は札幌では片手で数えられるはずですから、市内最大手の事務所の一つ、と言えるでしょう。
 村松 弘康弁護士は昭和21年陸別町生まれ、面識はありませんが平成30年で72歳になられる方です。

 案内板では7階までの表記ですが、建物はどうみても8階建てです。
 建物所有者のオーナーズルームでしょうかね。
 (村松弁護士が賃貸なのか、建物のオーナーなのかは登記を調査していません。)


◇コンフォリア札幌植物園

  平成18年築、15階建ての高級賃貸マンションです。
 『東急不動産の都市型賃貸』として豪華なホームページが用意されています。

 【公式】コンフォリア札幌植物園|西11丁目駅の高級賃貸マンション
  http://www.comforia.jp/resi/sapporoshokubutuen/index.html

公式サイトによると追い焚機能、ミストサウナ、宅配ボックス、食器洗浄機、シューズインクローゼットなど設備の充実した2LDK~3LDKのマンションで、築10年を経過していますが募集賃料は16万円程度

関東の相場では格安ですが、札幌の相場を考えれば十分に『高級』マンションです。

この建物、旧名称はアーデンコート植物園となっていました。
これは、平成28年コンフォリア・レジデンシャル投資法人に『信託受益権』が移った為、名称が変更されたものです。
コンフォリア・レジデンシャル投資法人というのは東急不動産グループの投資法人です。
『信託受益権』は不動産の流動化のための制度で、『所有権』は信託銀行が所持したまま、その不動産から得られる利益を『信託受益者』に支払われるというものです。
では、『所有権』は誰にあるかと言うとみずほ信託銀行株式会社が管理し、信託を受託しています。
この土地は過去に住友不動産株式会社が所有していたこともあったようですから、財閥系の不動産会社のうち、関わっていないのは三井不動産だけなのでは?という気もしています。

こういう大きくて新しい物件というのは、地場の業者である我々が取り扱うチャンスが来るのは、築年数がだいぶ経ってから、というのが現実です。

◇個人住宅
 植物園の耳の集合住宅群に囲まれた唯一の戸建て住宅として、Kさんという方がお住まいの2階建+地下1階付の建物があります。

 個人住宅についてあれこれ調べたものを公開してしまうと、トラブルになる可能性があるので差し控えさせて頂きますが、イマドキGoogleストリートビューもありますから、大変恐縮ですが建物の外観については掲載させて頂きます。

っていうか、Googleストリートビューで表札が判読出来るんですけどね。
モザイク機能、もうちょっと発展してくれてもいいと思うのですが・・・

◇月極駐車場/専用駐車場
 『植物園の耳』の北東部には株式会社トーショウビルサービスが管理する月極駐車場と専用駐車場が併設されています。


 土地の所有はどちらも神原商事株式会社であるように見えます。(登記は調べてません。)
 神原商事株式会社は札幌では老舗のベアリングや機械の卸売り業者です。

 神原商事株式会社
  http://www.kambara-shoji.co.jp/info.html

 会社概要によると、昭和25年から平成2年の40年間に渡ってこの場所に本社があったとのことです。
 まぁ確かにここに本社があるよりは、広い郊外に本社を移してこちらは賃貸で回しておいた方が商売上、効率が良いでしょう。

 ちなみに位置指定道路 第5113号を申請したのも神原商事株式会社です。

◇コインパーキング タイムズ
 ここからは南西側の空き地に目を移してゆきましょう。
 一番南西角の土地とグランドハイツ植物園の間に挟まれているのが、コインパーキングの『タイムズ』です。


 タイムズについては説明不要ですね、しかし平成28年の調査時にはこの土地には東急不動産『ブランズ マンションギャラリー』がありました。

 現在は既に解体・撤去されていますが、このモデルルームが設置される前も、タイムズとしてタイムパーキング事業がされていたようです。
 このように流動的な土地利用が可能なのも、タイムパーキング事業の魅力ですね。

◇コインパーキング アルファパーク
 そして最後は南西角地の株式会社アルファコートが管理するタイムパーキングです。

  アルファコート株式会社
   http://www.alphacourt.jp/

 こちらの会社は平成16年設立と社歴は浅いですが、札幌の不動産投資で多様な動き方をしており、市内各所に中古ビルを取得しているほか、新築事業も盛んです。
 自己所有物件も相当数ありますが、投資家から土地建物を預かって管理運営をする事業も行っています。
 投資家に賃貸マンションや介護施設を新築したり、駐車場を管理したりということですね。
 この土地については 所有者は調査していませんからアルファコート株式会社なのか、その顧客なのかは分かりません。
 角地ですから、この土地もいずれは分譲か賃貸のいずれかのマンションが建築されてゆくのでしょう。

◇消えていった戸建住宅
 現在は2つのタイムパーキングとなっている南西角の一角ですが、
 少し前までは4戸の戸建住宅が建っていました。

 Googleストリートビューのタイムマシン機能、非常に便利ですね。

・・・と、言う訳で今回は『植物園の耳』の現在の姿を紹介しました。
街は常に変化を続け、従来、その記録は僅かしか残りませんでした。
しかし、デジカメやPC、インターネットとスマートフォンといったコンピュータの普及によって社会のストレージは非常に拡大し、過去の街の姿は残されてゆくようになるのかもしれません。

その分、限られた資料から過去の姿を再構築して、共有するということは非常に価値があると考えています。
次回以降、お決まりの古地図と航空写真から過去の姿を見てゆきましょう。

『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ

『植物園』というのは、札幌における一つのランドマークであり、観光名所です。
北海道大学や時計台、札幌テレビ塔、赤レンガ庁舎、すすきの交差点などと比べると全国区ではありませんし、地元民にとっても円山公園や平岡公園、五天山公園、滝野すずらん公園に比べると、知名度はさほど高いとは言えないかもしれません。

とはいえ、『植物園』というのは非常に由緒正しい施設ですし、北海道庁の一つ東のブロックにあり、北海道大学の数区画南側に位置するという立地条件から、観光地としては赤レンガ庁舎や北大構内と一体的に扱われていると言えるでしょう。

ところで平成27年11月7日放送の『ブラタモリ』第22回のテーマは『札幌』でした。
 ブラタモリ#22 札幌 ~なぜ札幌は200万都市になった?~
  http://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list22/

元々インターネットなどでも注目度の高い番組ですが、私が不動産業界にいるという事もあり、地元がテーマのこの回については周囲でも注目度が高かったように思います。

この回の前半部分では植物園の東側の道路が屈曲しており、それに面する『シティハウス道庁前』が道路に合わせて曲がっていることが取り上げられました。

写真中央の緑色の局面のあるマンションが『シティハイム道庁前』です。

札幌市の中心部は扇状地の端に面しており、湧水が豊富です。
そして、湧き水を表すアイヌ語『メム』という言葉も紹介されました。
この『メム』による川の痕跡が、線路の北側の偕楽園まで残っているのだと。

札幌を自動車で走っていると、この辺りの道路が屈曲していてかなり走りづらいことは、皆さん日常的に感じていたようで、また、我々地場の不動産業者のコミュニティでもそれなりに話題になったものです。

ここで、植物園の案内図を見てみましょう。

確かに、地図右側=東側の辺が屈曲していることが分かりますね。

こりゃー、地形に詳しいタモリさんも気になる部分ですよね!!

・・・って、いやいやいや、着眼点がおかしいでしょ。

南北3区画×東西3区画=9区画を乱すもっと大きな問題がありますよね!
東側の辺の屈曲以前に、南東側に欠落した部分があるでしょうよ。
そっちの方が問題なんじゃーないですかね!!

実はこの欠落には、以前から着目していまして、調べよう、調べよう、と考えていました。
と、言うのも、この欠落部分には位置指定道路が通っているのです。

平成26年3月、札幌市都市計画情報提供サービスで位置指定道路が調べられるようになって以来、私は片っ端から位置指定道路の情報を集めていたのです。

その中でもこの欠落部分に関しては、公有地の一部が欠けている訳ですから大きな興味を持って予備調査を進めていました。

旧ブログ以来、年末年始には、シリーズ記事を書くようにしていますが、大まかに年末や新年にちなんだ記事を書くことが恒例化しており、平成29年1月にはこのエリアと『札幌市位置指定道路第1号』を悩んだ挙句、位置指定道路第1号の記事を書きました。

・・・と、言うのはこちらのエリアについては、あまりにも謎が多く、調べきれないと判断した為です。

その後、経営者になったりこのブログを設置したりとバタバタしていましたが、ようやく目途が立った為、今年のシリーズ記事ではこのエリアについて取り上げることにしました。

このエリアについては『植物園のヘソ』とか『植物園内民有地』とか、色々と通称を考えてみたのですが、私は『植物園の耳』と呼ぶことにしました。

形状が『耳』に似ているうえに、公有地の端にある私有地という意味でも『耳』ですから、我ながら良いネーミングなのではないか、と自画自賛してみます。

さて、『植物園の耳』がどうして出来たのかについて、この3年の間に古株の不動産関係者に聞いてみました。
不動産関係者、といっても郷土史の専門家ではありませんし、皆さん戦後生まれですから、大抵の方は『知らん』の一言で終わりですが、以下のような面白い回答もありました。

『明治頃のゴタゴタで官有地が反社会的勢力に乗っ取られたものではないか。』
“メム”の痕跡でこのような形になったのではないか。』
『戦後、GHQの関与などの何らかの事情で払い下げられたものではないか。』

色々な方から『探ると消されるんじゃないのか』という声が聞かれ、また、調査当初はあまりに先が見えない為、何か危険な裏事情があるのでは・・・等とも考えていました。

郷土史の方はどうなのか、と言えば、平成17年3年に発行された比較的新しい郷土史である『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』を始めとして、さまざまな郷土史をざっと読みしましたが、植物園に関する記載はあっても、単に成り立ちと現況が書いてあるだけ。
『さっぽろ文庫』はすべて読破している訳ではありませんが、関係しそうな巻でも該当する記事は見当たりませんでした。

それでは、『北大植物園』に関する文献はないものかと探してみましたが、これもはずれ。
植物園単独に関する書籍は、札幌市の図書館では1冊しか見当たりませんでした。
北海道大学に関する記録である『北大百年史』に関しても昭和57年発行の通説、昭和55年発行の部局史のいずれも、簡単な成り立ちと現況についてしか説明がありません。

すべての文献を読破した訳ではありませんが、どうやら『植物園の耳』への関心は非常に低いように見受けられます。

まー、インターネットを見回すと建築畑の方や鉄道畑の方、園芸畑の方から新聞畑の方まで、色々な人が札幌の歴史についてインターネットで書いていますが、インターネット検索においても、有効な情報は見当たりません。

ブラタモリのナビゲーターをした2名の方に聞いてみる、という事は出来なくはありませんし、植物園を管理する北海道大学に問い合わせをする、という方法もありますがそれじゃー面白くありません。
昔から『事情通に事情を聞かない』のが、私のスタイルです。
(というか、聞いたとしてもおそらく私の知りたいことはご存じないのではないのかなー、と思うのです。)
私はあくまでもアングラ文化の人間として顔も出さずに活動をしていますから、単に地形がどーだ、郷土史がどーだという話ではなく不動産の実務家としてもっと突っ込んだことを書いていきたい、というのが本当の処です。

さて、論点をまとめましょう。

①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

①については、札幌の成り立ちや地形に詳しい方であれば、ある程度想定出来る内容です。
しかし、②の発端と経緯については、調べれば調べるほど深みに嵌ってしまいます。

公有地(官有地)が民有地になった時期については、公的な記録から比較的すぐ調べがつくものですが、民有地を取得した人々と背景、という部分になると、それを知ることは非常に難しいと言わざるを得ません。

公的な記録に、取引の事情取得した人の氏素性が書かれている訳はありません。
足掛け3年に渡って・・・と言っても、最初の1年は殆ど調べず、今年のうち半年は業務に追われていましたが、調査に調査を重ねて、ある程度真実が読み取れて来ました。

フィールドワークでは植物園、北海道大学、知事公館の他、遠くは当別まで行きました。
文献調査ではある限りの地図、航空写真の他、札幌に関する人名録を市立図書館だけではなく、国会図書館のデジタルライブラリーで引っ張って読み込みました。
最終的には『北海道寺院沿革誌』などというマニアックな書籍に至りました。

開拓当初からの調査ですから、調査対象という意味でも、調査期間という意味でも、過去最長です。
勿論、まだまだ調査は可能ですし、継続はしていきますが、調査は長引けば長引くほど得られるものは少なくなっていきますし、北海道立図書館がアスベスト問題で平成29年10月から閉館中で、中長期的判断が必要となってきました。
ある程度、事実関係が明らかになってきたこのタイミングで、シリーズ記事を公開することとしました。

実務でここまで調査する事はありませんが、このブログは不動産のプロフェッショナルとして、調査能力のデモンストレーションとしてやっている、という側面もありますから、次回以降、『ここまで探れるんだ』という事をお示ししていきます。
まー、気が向いた方は不動産の売却でも依頼してみて下さい。いい仕事しますよ。

それでは次回から本格的に『植物園の耳』のナゾに迫っていきましょう。