北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!③

さて、前回(②)、前々回(①)と奥輪厚の大廃墟群の歴史と現状を紹介しました。

今回はこの廃墟群が具体的に誰が所有していて、
どのような経緯を辿ってきたのか、明らかにしてゆきましょう。

・・・というか、既にタイトルでネタバレしているんですが、
大手グループのアニメ制作会社との間に意外な関係があったのです。

ヒントは住宅地図に記載の『旭一シャイン工業㈱』や『シャインミンク㈱』といった記載。
当初、私は『旭一』という名前や北海道という立地や業種から、旭川に本拠を置く『株式会社キョクイチホールディングス』との関係を疑いました。

◇株式会社キョクイチホールディングス
  https://kyokuichi.com/

しかし、この一帯の登記を調べてみると、この土地『北広島市輪厚276番地』の登記名義人は『名古屋市中区栄三丁目22番11号  株式会社キョクイチ』となっています。

しかし、旭川市のキョクイチグループの出先が名古屋にあったという記録は見当たりません。
この土地を所有する法人についてよくよく調べてゆくと、この『株式会社キョクイチ』は、メジャーな作品を多く輩出するのアニメ制作会社、『株式会社トムス・エンタテインメント』の前身である事が分かったのです。

◇株式会社トムス・エンタテインメント
  http://www.tms-e.co.jp/

『それいけ!アンパンマン』『名探偵コナン』といった国民的知名度のアニメを制作しています。
他にも『ルパン三世』や『バキ』の新シリーズの制作も受け持っています。

アニメ制作会社とミンク飼育場の間にどのような関係があるのでしょうか?

トムス・エンタテインメントの公式サイトの会社概要、2010年まで名古屋証券取引所第二部に上場していた時代の有価証券報告書、そしてWikipediaの記載をもとに、トムス・エンタテインメントの社歴を追ってゆきましょう。

年月 沿革
昭和21年10月 名古屋市瑞穂区竹田町で『アサヒ手袋製造株式会社』を設立し、手袋の製造を開始した。同年同月、商号を『旭一編織株式会社』に変更。
昭和22年11月 商号を『株式会社旭一』に変更し、メリヤス製品、布帛製品の製造を開始。
昭和32年3月 御幸染工株式会社、株式会社旭一トレーディングを吸収合併し、商号を『旭一シャイン工業株式会社』へ変更。
昭和32年4月 名古屋証券取引所に上場。
昭和36年8月 北海道札幌郡広島町に『シャインミンク株式会社』を設立し、ミンク等の飼育を開始。
昭和37年10月 毛皮部門を新設した。
昭和49年2月 シャインミンク株式会社を吸収合併し、ミンク事業部門を新設した。
平成元年4月 愛知の時計・家電量販グループのウォッチマングループに買収される。
平成3年4月 ミンク事業部を閉鎖し、ミンク飼育事業から撤退した。
平成3年7月 商号を『株式会社キョクイチ』に変更した。
平成3年9月 事業目的を拡充し、アミューズメント事業に進出した。
平成4年9月 株式会社セガ・エンタープライゼスと資本業務提携し、セガグループとなる。
平成6年10月 本店所在地を名古屋市中区栄三丁目へ移転。
平成7年3月 株式会社東京ムービー新社の全発行済株式を取得し、子会社とする。それに伴い同社の子会社であった株式会社テレコム・アニメーションフィルム(現・連結子会社)と有限会社トムス・フォト(現・㈱トムス・フォト)(現・連結子会社)を子会社とした。
平成7年11月 株式会社東京ムービー新社を吸収合併し、東京ムービー事業本部を新設しアニメ事業に進出。
平成11年7月 毛皮製品の製造、販売業務を子会社の『株式会社パシフィック・エンタテインメント』へ移管。
平成12年1月 商号を『株式会社トムス・エンタテインメント』に変更した。
平成15年3月 提出会社および株式会社パシフィック・エンタテインメントは、毛皮事業より撤退。
平成16年12月 株式会社パシフィック・エンタテインメント(連結子会社)の会社清算が結了。
平成22年11月 名古屋証券取引市場第二部より上場廃止。
平成22年12月 セガサミーホールディングス株式会社の完全子会社となる。
平成27年4月 セガグループの再編に伴い株式会社セガホールディングスの完全子会社となる。

・・・以上をざっくり説明すると以下のようになります。
戦後間もなく名古屋で開業した手袋等を制作する会社『株式会社旭一』は、昭和36年に子会社『シャインミンク株式会社』を設立し、当時の廣島町(現:北広島市)でミンク飼育場を開業します。
その後、昭和49年に子会社を合併してミンク事業部としたのち、更に平成3年にはミンク飼育事業から撤退しています。

その後、紆余曲折あって平成4年にセガグループに編入、アミューズメント事業を担当していたようですが、平成7年に株式会社東京ムービー新社を買収、アニメ制作会社『株式会社トムス・エンタテインメント』に社名変更したのです。
元々、『トムス』というのは東京ムービー新社の略でした。
社名を変更する前は、名探偵コナン等にも『キョクイチ』の名前でクレジットされていたそうです。

法人合併や株式売買によってまったく別の事業へ転換してしまった、というのは非常に興味深いですね。

登記を見る限りにおいては、トムス・エンタテインメントがこの廃墟群を所有していると思われますが、必ずしもそれを断定する事は出来ません。
・・・と、言うのも不動産登記は必ずしも事実とイコールではないのです。
現に社名変更前の『株式会社キョクイチ』から変更されていませんし、この土地建物が既に外部へ売却されていたりグループ内で移管している可能性もあります。

例えば平成11年に毛皮の製造販売事業を子会社の『株式会社パシフィック・エンタテインメント』を移管していますから、グループ内では所有権を移転していても、それを登記していないという事が考えられるのです。

戦後突然森を切り開いて開発されたミンク飼育場が、バブル崩壊や毛皮需要の現象、動物愛護運動などの影響で閉鎖されたのち、色々な紆余曲折を経て有名なアニメ制作会社へ引き継がれてしまうというような事も、M&Aが活発な現代においては起こりうるのですね。

ちなみにこの奥輪厚の土地の上には、登記上、47件の建物が所在しています。
実際にはこれらの大半が荒廃し森の中に埋もれてしまっていますが、登記上は現存することになっているのです。


仮に固定資産税が課され、これが納められていればトムス・エンタテインメントにとっては無駄な支出でしょうし、納められていないとすれば北広島市にとっての損失でしょう。

幹線道路からも遠く、市街化調整区域にあるこのエリアの再生は非常に困難ですが、だからこそこのような形で廃墟群が残っていることは、数奇という他ありません。

【シリーズ『奥輪厚廃墟群』】
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!①
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!②
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!③

北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!②

さて、前回は北広島市輪厚の奥地にある『ミンク飼育場』を紹介しました。

1970年前後に建設されたミンク飼育場の建物ですが、
10年後には屋根が錆び始め、20年後には地図で建物が省略され、
40年後以降は、建物どころか名称までも地図から消えてしまいます。

このミンク飼育場は現在どのようになっているのでしょうか?

今回は諸事情により友人撮影の現地取材の写真を利用します。


道道790号線『羊ケ丘通』から国道36号線へ合流する為のカーブを、
敢えて曲がらずに脇道に逸れてゆくと、畑や牧場が多いエリアになります。

左手にトウモロコシ畑、奥にはサイロが見えます。
道路幅は3m程度、夏でも行き違いが困難なレベルですね。

そこからさらに進んでゆくと、森の深いエリアに到達します。
左手は札幌ゴルフ倶楽部輪厚コースの裏側にあたります。
緑色のフェンスに囲われているのがゴルフコースですね。

札幌ゴルフ倶楽部と反対側には、ミンク飼育場の入口があります。

 かなり雑然としたバラックが並んでいますが、
車が通ったような轍もあり、人の出入りは多少なりともあるようです。
まちBBSの投稿では心霊スポットとしても扱われているようですから、
大学生なりが肝試しに来ているなどという事もあるのかもしれません。

入口右手・北側には、かつて社員寮であった建物があります。



屋根や外壁はかなり傷んでいるようで、鉄パイプ(単管)で補強されています。 車が停まる為のスペースが養生されていることも考えると、
入口部分の建物は、まれに利用する事があるのかもしれません。
・・・更に奥へと進んでみましょう。
 木造ラスモルタル外壁の亜鉛メッキ鋼板葺の三角屋根の建物があります。
大きな半円形の入り口は木材で閉じられ、左手には飼料用のサイロが見えます。

半円形のいわゆるカマボコ倉庫と照明灯。
シャッターが大きく壊れ、外壁も崩落しています。

こちらは別のカマボコ倉庫、二階部分が物入れになっているようですね。
西方向へは細い通路が続いていますが、雑草によって道は狭くなっています。
1970~80年当時はかなり奥まで建物が続いていましたが、
パッと見、建物の屋根や壁も見えません。

・・・と、奥輪厚の秘境、ミンク飼育場跡地の状況を紹介しました。
さて、タイトルで『アニメ制作会社の謎の関係』と題しておきながら、
この2回、ロクにアニメ制作会社の話題が出てきていません。

次回はこの、『アニメ制作会社の謎の関係』を深堀りしてゆきましょう。

【シリーズ『奥輪厚廃墟群』】
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!①
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!②
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!③

北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!①

新年あけましておめでとうございます。
このブログの前身である『この道なぁに?』の時代から、
新春一発目の記事というのはそれなりに気合を入れた
シリーズ記事にしてきた経緯がありますが、
ご存知の通り、9月に胆振東部地震の記事を書いて以来、
3ヶ月以上ご無沙汰をしてしまっているのですが、
それでもやはりブログは大切な情報発信手段ですから、
一つこの機会に締め直して新年の記事を一つ書いてみようか、という訳です。

さて、こういう商売をやっていますと、地図や航空写真を見るのが習慣になっている訳ですが、そんな中でたまに『気になる』地形というものが目につきます。

そういう事がこのブログのネタ元にもなっているのですが、
新年記事という事で、一つ大きめな『謎』を取り上げてみましょう。

北広島市の郊外で、大規模な建物群があるにも関わらず、
建物の名称などの情報が出てこないエリアがあります。

いくつもの細長い建物が平行に並んでいます。
・・・よくわかりませんよね。Yahoo地図から航空写真を見てみましょう。

うーん、地図を掲出してもよく分かりませんかね。
位置的には札幌ゴルフ倶楽部輪厚コースの西側に所在します。
Googleマップでもっと寄ってみましょうか。


何か、かなり大規模な施設が森に埋もれているのが分かります。
屋根は茶色くサビてしまっていて、さながら腐海に飲み込まれてしまったようにも見えます。

この謎の建物群は何なのか・・・?!
・・・と、勿体ぶっても仕方がありません。

この建物群に関して、資料が殆ど残っていない一方で、
『何なのか』については明確な回答が過去の地図資料から得られてしまうのです。
これ、打ち捨てられたミンク飼育場なんですね。

ええ、ミンクと言いますと毛皮の為に移入されたイタチ科の動物で、
イタチやテンと競合する生活環を持つため、
現在は特定外来種にも指定されている動物です。
ドラゴンクエストⅡでは『ミンクのコート』なんてアイテムもありました。
昨今はアニマルライツの観点から、毛皮の生産が減っていますが、
戦前・戦後の割と近現代までは繊維産業が大正義です。
製糸(絹)、紡績(綿)そして毛皮産業が最重要だった訳です。

文明開化以降、生産性を上げて国際競争力を上げるという『富国強兵』政策は、戦前までは一つの正解であった訳です。
それこそ、アメリカザリガニもヌートリアもウシガエルも、
富国強兵の政策から移入された動物群です。

戦後も、軽工業は国の基幹産業であった訳ですが、
化学繊維が普及したこと、徐々に円高となっていったこと、
産業構造の転換などの複合的要因によって、日本の繊維産業は斜陽を迎えます。

とはいえ、ミンクを始めとした毛皮製品はバブル期に入ってようやく普及したという文章もあり、国内のミンク産業がどのような経緯を辿ったのかは、判然としません。
(輸出用の毛皮が海外で売れずに国内で出回った、という見方もできるのかもしれません。)
前述のドラゴンクエストⅡは1987年発売、
毛皮のコートの売買が印象的な映画、マルサの女2は1988年発表です。
毛皮の流行は1959年の美智子皇后陛下の御成婚とも言われますが、
毛皮=富の象徴として子供にも届くレベルで機能するようになったのは、
バブル期であったのではないかな、という印象があります。

そんな、歴史に翻弄されたミンク飼育場がどういうものなのか、見ていきましょう。

Ⅰ.歴史的な経緯

大正8年/1919年

私が最も重宝している大正初期の地形図では、この周辺はまだ殆ど開発されていません。
画像左側を見るに当時、この周辺は『奥輪厚』と呼ばれていたのですね。

昭和27年/1952年
道路は整備された様子がありますが、わずかに畑・果樹園として利用されている程度です。

1960年代の航空写真を見ると明白ですが、
ミンク飼育場周辺は森林に囲まれており、殆ど人の手が入っていません。

昭和52~3年/1977~8年



1970年代に入って、ようやくミンク飼育場が建設されました。
前段では富国強兵による移入、というお話をしましたが、
1980年代までは日本の繊維工業というのは高度経済成長の一因でもあったのです。

住宅地図を見るに『シャインミンク株式会社』という社名が見えます。

昭和60年/1985年

表記が『旭一シャイン工業㈱ ミンク事業部』と 改められています。

どうも、同時期の航空写真を見るに、すでに屋根の大部分が茶色くサビてしまっています。
10年足らずでこのような事になってしまうというのは、ミンク産業の斜陽を表しているのかもしれませんね。

平成2年/1990年

地図上の社名表記は変わりませんが、建物それぞれの形は省かれてしまっています。
・・・と、いうことはミンク飼育事業が立ち行かなくなってしまったのではないか、という風に考えます。

平成12年/2000年

社名表記が『シャインミンク株式会社』に戻りました。
このあたりが非常に面白いですね。
また、建物は現存しているにも関わらず地図には記載されていません。
そして最初の航空写真に戻りました。
転載は出来ないのですが、2018年現在のゼンリンの住宅地図でも、
この建物群に事業者の社名の記載はなくなってしまっています。

屋根は錆び、森林に侵食されたミンク飼育場は現在どのような姿をしているのでしょうか?

『北広島 ミンク』『輪厚 ミンク』などと検索しても、まちBBSで、
心霊スポットとして若干触れられている程度で殆ど情報を拾う事は出来ません。

そんな謎に包まれたミンク飼育場跡地に、潜入してみましょう。
次回は現地の状況を紹介してゆきます。

【シリーズ『奥輪厚廃墟群』】
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!①
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!②
 ◇ 北広島市輪厚の大廃墟群とアニメ制作会社の謎の関係?!③

KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて、前回『北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る』では、
『大曲』という地区の由来となった大きな曲がり道とその歴史的経緯を紹介しました。

また、現在の国土地理院の『電子国土基本図』にはうっすらと『大曲』の形状が残っている事を紹介して記事を終えました。

さて、『大曲』の名称の由来になった旧大曲橋周辺は現在どのような姿になっているのでしょうか?
まずは手っ取り早く、平成後半の航空写真を見てみましょう。

こちらもうっすらと形状が残っていますね。
Ωの窪みには赤い屋根と青い屋根の2つの倉庫のような建物が建築されています。
Googleアースで立体的に見てみましょうか。

前回解説したように、大曲川には高低差がある事が分かりますね。
札幌と北広島を結ぶ清田橋はかなり高い場所に建設されています。
そして、赤い屋根と青い屋根の2つの建物の形状についても大枠が分かります。

それでは、現地を見てゆきましょう。

里塚2条7丁目と美しが丘1条10丁目の間を国道36号線が走っています。
里塚側にはマクドナルドやイエローハット、ボストンベイクなどが立ち並び、美しが丘側にはコストコがある、と言えば分かりやすいでしょうか。
札幌側で最も『大曲』に近いボストンベイク里塚店から建物を見下ろしてみましょう。

ふぅむ、なかなかの廃墟っぷりですね。
一方で、倉庫前には伐採された木が積まれており、利用されているようにも見えます。
次に清田橋の上から眺めてみましょう。

庇が剥がれて骨組みだけになっており、シャッターには落書きがあります。
写真では反射してよく見えませんが、看板には『㈱三和自動車』と書いてあります。

自動車整備工場で中古車販売や事業用自動車のリースなどを行っていたとのことで、現存する東京本社の同名の会社とは関係がないように見えます。
・・・っと、看板をお見せする為に順序を無視して建物前の写真を貼ってしまいました。


清田橋からは、ボストンベイクからの脇道で『大曲』へ入っていく轍・・・砂利道が見えます。
では、その砂利道に入ってゆきましょう。

やはり車が通っている痕跡がありますね。利用されているようです。

先ほどの前面からの写真もそうですが、かなり荒廃しています。
近付くのが危険な様子がありありとお分かり頂けるでしょう。
それ以前に廃墟であっても建物への侵入は刑法130条に規定する建造物侵入に該当しますから、入ってはいけません。

さて、『大曲川』の様子を見てみましょうか。 

下水道の整備や治水によって水量はそう多くありません。
北広島側の対岸には白い建物・・・『ウィズハウス清田』があります。
運営会社のサイトによると平成20年オープンとのことです。

北広島側の対岸に移りましょう。
先ほど見えていた『ウィズハウス清田』を国道36号線とは逆から見た写真です。

ここから坂の下を見てみるとアスファルト舗装道から、左手に小さな砂利道があります。

これが『大曲』へのルートの一部な訳ですね。


砂利道の奥には60坪ほどの広場があります。


対岸には青い屋根の倉庫の一部とボストンベイクの建物が見えますね。

最後に平成2年の住宅地図をお見せしましょう。まだ工業用地だった頃ですね。

かつて交通の難所として知られた『大曲』は昭和28年の室蘭街道のアスファルト舗装による整備・・・弾丸道路の開通によって、その役目を終えました。
しかし、100年近く・・・江戸時代以前を考えればそれ以上に渡って使われてきたその痕跡は、60年を経てもわずかに残されています。

いずれこの痕跡は薄らぎ、消えてゆくのでしょうが、現時点での記録とこれまでの記録の集積という意味でこの記事を作成しました。
『大曲』について色々な場所で書かれてはいますが、イモ判のように横並びのコピーではなく、別の切り口からしっかりとしたコンテンツを提供して行きたいと考えています。

KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて、北広島市の歴史についてはずいぶんと長らく紹介してきましたが、北広島市が2つに分裂した状況になった原因をざっとおさらいしましょうか。
 ①明治17年、和田郁次郎氏は稲作を行う為に北広島に入植した。
 ②当時、北広島は輪厚官林、島松官林、野幌官林に囲まれ、
  現在の中心地以外は開拓が許可されなかった。
 ③明治27年、輪厚官林と島松官林が解除され、開拓が始まる。
  中心部と大曲の『2つの北広島』が並立するようになる。

ここから、更に西の里を加えた『3つの北広島』になっていく訳ですが、今回はこの2つ目の北広島、『大曲』について紹介してゆきましょう。

そも、『大曲』とは何なのでしょうか。
『北広島市歴史遺産ハンドブック』には以下のように紹介されています。

また、北広島市のHPでは同様の文と一緒にこの画像が添えられています。

・・・え~と、インターネットに転がってる資料はこれだけです。
北広島市の2大エリアの一翼に関しても扱っているコンテンツはほとんどない訳ですね。
とはいっても所詮人口6万人の自治体の一部にすぎませんから、需要を考えればこれは仕方がないのかもしれません。

とはいえ、この2つの資料だけでは何が何やら分かりません。
郷土史の中でも、抽象的な表現とあいまいな図形だけで、イメージが付きづらいのです。

『国道36号線の過去のルート『旧道』をご存知ですか?』で紹介した画像を見てみましょう。
昭和22年の航空写真です。

現在のルートと過去のルートを比較した地図です。

札幌と北広島の間にある厚別川を渡るΩ状のしこりが『大曲』です。
厚別川の谷地は(現在も)かなり広く・深くなっており、これを渡る為には、一度谷底まで下りて、川を小さな橋で向こう岸まで渡り、向こう岸でまた谷底から登らなければならなかった訳です。

大正5年の大曲の姿を見てみましょう。

谷を降りきった北端には『大曲橋』という橋がかかっています。
同名の橋が平岡~大曲間の大曲通を走っていますが、これは関係ありません。
等高線を見るとかなり高低差がある事がわかり、周辺は広葉樹林になっている事が分かりますね。
わずかながら、道沿いにいくつか建物が建っていますね。

Ωの途中から右上に伸びていく線は『大曲道路』≒道道1080号線で、和田郁次郎氏が開拓した北広島中心部につながる道です。
『大曲』という地名自体は明治時代からあるようです。

さて、次は戦後昭和22年、先ほどの航空写真を拡大してみましょう。

森!という感じで、『開拓された』と言っても実際にはほとんど切り開かれていない事が分かりますね。
これはこのエリアに限らず、札幌市内でも同様で昭和30年台までは人口密度は非常に低かったのです。

近い年代の昭和27年の地形図も見てみましょう。

少し小奇麗になったようで、Ωの先端には何らかの建物も書かれています。
近い年代でも、航空写真と地形図では印象が違いますね。

次は昭和30年代・・・1960年代の航空写真を見てみましょう。

『大曲』が消えた!Σ(゚Д゚;
実は先ほどの航空写真・地形図の後、昭和28年に『弾丸道路』が開通します。
これは米軍の要請により最新の技術であるアスファルト舗装がされた片道1車線・2車線の道路です。
それまでは『舗装』と言っても砂利での舗装が通常ですから、自動車での高速での通行が可能であることから『弾丸道路』と呼ばれた訳ですね。

大曲の急カーブを舗装するよりは鉄骨で巨大な橋を作った方が合理的だったのでしょうね。
ここで厚別川に架けられた橋を『清田橋』と言い、大曲橋ではなくなってしまいました。


札幌オリンピックの前後、1970年代には、両岸の開発がかなり進んでいます。
札幌市側は工業地域として、北広島市には住宅地となっています。
現在の『大曲並木』エリアですね、町名が付いたのは平成9年の事です。


昭和60年代≒1980年代の写真でもう~っすらと『大曲』の痕跡が見えます。
現在の地形図である電子国土基本図においても、同様に『大曲』の形状が見えています。

・・・かつて交通の難所として知られた『大曲』と呼ばれた箇所は戦後、清田橋によって通行に供されることはなくなり、その痕跡も薄らいでいます。
かつての『大曲』は現在、どのような状態になっているのでしょうか。

次回『KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿』で紹介してゆきましょう。

KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

シリーズ『北広島』、6回目になりました。もう少し歴史を追ってみましょう。

前回『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②』では、
幹線道路である国道36号線ではなく、中心部が現在の位置になったのは、
『官林』による制限と『稲作』を営む為であると説明しました。

北広島は元々『大曲道路』・・・現:道道1080号線によって拓かれた集落です。

これも繰り返しになりますが、通常、市街地というものは基軸となる『道』を中心に切り開かれ広がるものです。
しかし、現:道道1080号線の周辺には北広島市役所以外には星槎道都大学、くるるの杜がある程度で、沿線のほとんどは市街化調整区域であって、街の中軸となる道路であるとは言い難いものがあります。

北広島の中心街を貫く道路としては、江別と恵庭を結ぶ現:道道46号線の方がふさわしいでしょう。

そして、1080号線にせよ46号線にせよ大曲や西の里とは接続していません。
何故、北広島は3つのエリアに分裂したのでしょうか。

明治17年、和田郁次郎氏が拓いた『大曲道路』によって開拓が始まった北広島ですが、そのわずか5年後の明治22年から、様相が大きく変わり始めます。

明治24年時点の地図を見てみましょう。

明治22年から明治24年にかけて、また2つの道路が開通しました。

一つ目は江別と恵庭を南北に結ぶ、現:道道46号線です。
当初は『江別道路』と『恵庭道路』と二つに分けて呼ばれ、現在の名称は『道道江別恵庭線』。
別名としては『北広島本通』とも呼ばれています。
後からできた道路が『本通』というのも不思議ではありますが、大曲から山の中を抜けて北広島に通じる『大曲道路』よりも、集落と集落を結ぶ北広島本通の方が道としての需要があった、という事なのでしょう。

そして二つ目の道路は、厚別から東西に伸びる現:国道274号線です。
これは当初『北広島本通』を開削する為の資材運搬路であったもので、北広島に鉄道のない当時には、駅への道として利用されていたそうです。
札幌方面に出る道、という事で『札幌道路』と呼ばれていました。

この二つの道路が拓かれたことで、現在の北広島の市街を形成する四つの道路が出揃った訳です。
この頃の北広島は農村地帯ではありますが、道を行き交う人々に物を売る雑貨屋などがぽつぽつと各道路の沿道に出来始めたようです。

そして明治27年、『廣島開墾地』は広島村と名前を変えました。
これは稲作が比較的順調に進んだ事と四つの道によって交通利便が改善したことによります。
当初は『和田村』とするよう道庁に指示されたものを固辞し、故郷の広島から名を取って広島村とした、という話が残っています。

そして、それと同時に、道庁から輪厚官林と島松官林を開拓民に解放して入植を受け入れるという話が持ち上がります。
本来『官林』は国有財産ですから、そこを伐採したり定住したりすることは禁止されていますが、そこを開拓して農地としよう、という計画です。

これに対し、和田郁次郎氏と広島村の初代戸長である一色潔氏は、これらの官林が切り開かれることで下流の水田で利用する水源が乏しくなる事を懸念し、道庁に対して反対運動を行います。
反対運動の為に度々道庁にも足を運んだようですが、道庁の職員からこれを断られてしまい、明治29年にはこの地域の開拓が始まってしまいます。

更にその後、明治32年には野幌官林を同様に解除して札幌区、白石村、江別村、そして広島村に配分しようという計画が北海道庁から持ち上がります。
この配分によって町村制の施行を前に各村の財産を充実させる目的があったとのことです。

しかし、これに対しても和田郁次郎氏を筆頭とする広島村と江別村の代表が反対を表明します。
野幌官林には農業用の溜め池があった為、これが配分されることで農業が立ち行かなくなることを恐れた為です。
農民達と道庁との間で、かなり激しいやりとりがあったようですが立ち行かず、最終的には和田郁次郎氏が当時の北海道庁の長官、園田安賢氏に直訴し、官林解除を取り下げさせるに至りました。

そうして残ったのが野幌官林であり、現在の野幌森林公園です。

この後、大正15年に千歳線が開通する事で北広島における交通インフラの基礎は完成します。
前述の通り、野幌官林は残った一方で輪厚官林と島松官林はなくなってしまいました。
現:国道36号線沿線の大曲エリアは人の通行がありましたから、農業で栄えたという訳ではありませんが林業が盛んで、人も定住するようになっていったという事です。

そして、大曲エリアはその便利な立地を活かして発展し、都市計画法の施行当初から市街化区域として中央エリアと並び立っていたのです。
西の里エリアについては、昭和60年代~平成にかけて市街化区域となったエリアで、まだまだ歴史が浅い部分がありますが、大曲については官林解除を切っ掛けに『2つの北広島』に分裂するに至った要因であると言えるでしょう。

つまり、北広島が分裂した原因は明治27年の官林解除であったという事です。
(明治27年官林解除→明治29年民間への貸下げ・開墾という流れ)

そして、北広島開基の功労者である和田郁次郎氏は、その官林解除に反対であった、というのも重要な視点ではないでしょうか。
郷土史の中では農業の為の水源として・・・という視点が強調されていますが、都市計画や自治体運営という視点から見ると、和田郁次郎氏はスプロール化・・・つまり市街の分散・虫食い化を防ぎたかったのではなかろうか、と思われます。

当時にそういった概念はないにせよ、『統一され一体感のある村』ではなく、分散してバラバラになった集落では、郷土愛も生まれませんし運営を行っていくのも困難です。
そういった意味で、『統一され一体感のある村』とはならずに、3つに分裂した現在の北広島を和田郁次郎氏が見たとしたら、何を思うでしょうか。

ある意味で、北広島分裂の要因は『北海道庁の意向に抗しきれなかったから』とも言えるのかもしれません。

KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

前回の記事は平成29年3月に書いたものですから、
続きを書くのに1年以上もかかってしまいました。
この間に様々な環境の変化があり、ブログもこちらに移りましたが、
引き続き北広島の歴史を探ってゆきましょう。

さて、『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①』では、
明治以前から主要な交通の要衝であって島松(シュママップ)があった、
国道36号線に沿って展開しなかったことは不自然である、と紹介しました。

また、『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
現在の北広島市は3つのエリアに分かれてしまっており、
国道36号線「室蘭街道」沿いに大曲エリアが、
国道274号線沿いに西の里エリアが、
いずれも札幌寄りに形成されており、一体的な市街形成がされていないと紹介しました。

北広島の中心街であるところの中央エリア、つまりは北広島市役所の所在地は、
道道46号「江別恵庭線」と道道1080号「栗山北広島線」の交差点にあり、
これらはそれなりに交通量の多い道路ですが、他のエリアについて、
これらの道路に沿って市街形成がされていない、というのは、
前回紹介した通り、別の自治体が合併されたという場合を除いては、
まず考えられない、特異な市街形成であると言えるでしょう。

ちなみに北広島市は明治以来これまで一度も合併を経験していません。
札幌市、江別市、小樽市、石狩市、千歳市、いずれも合併を経験しているのと対照的ですね。

市街地の分裂は札幌近郊においては北広島市特有の問題であって、
人口減少時代において、教育や就業も含めたインフラの整備という意味で、
非常に重大な問題である、と言えるでしょう。

そのような問題が生じる事になった歴史的経緯を見てゆきましょう。
明治17年に入植した和田郁次郎氏らの『廣島開墾地』は、
何故、札幌越新道(現在の国道36号線)沿いに入植をしなかったのでしょうか。
これには2つの理由があります。

入植前、札幌越新道が開通した頃の状況を図に示しました。

札幌もそうですが、明治6年当時、北広島は未開の原野でした。

『植物園の耳』でも紹介したように明治6年当時というのは、
札幌の中心部であっても都市機能も揃わない状況でしたから、
郊外に至っては、かろうじて木を切り倒した道が付いただけ、という状態です。
道路状況は悪く、馬が通るのもやっとで馬車などはもっての外。
札幌越新道も、太平洋側に出る最初の道とは言っても、同じことです。

明治初期、札幌の都市機能が出揃わないうちから、
開拓使主導で入植が始まりますが、北広島で入植が始まるのは、
前述の通り明治17年の事で、和田氏が北海道を巡った末に出した結論です。

入植の前年、明治16年に和田郁次郎氏は4人の人夫を連れ、
『大曲道路』(現:道道1080号線)を開削し、これが廣島開墾地への道となります。

地図中の大曲道路の東端が現在の北広島市役所の場所であり和田氏の邸宅です。
幾ら木を切り開いただけと言っても、この距離を1年で切り開くというのは大変な事です。
今回の謎『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?』
一つめの理由は札幌越新道の周りは官林に囲まれていたから、です。

地図に記載されている野幌官林、輪厚官林、島松官林、月寒原野は、
いずれも国有地であり、当時は開拓の対象ではなかったのです。

官林は国で利用する材木を確保する目的もありましたが、
田畑の水源の為の森林:水源涵養林としての役割もありました。

開墾地というのは開拓使の認可を得て貸下げや払下げを受けるものですから、
民間人が自分の臨むままに開拓を行える訳ではありません。

そもそも論として、札幌越新道の周辺は開拓しなかったのではなく、
官林ばかりで開拓を許されていなかったのです。

北広島市の中心が偏在の位置にあるのは、
そういった消極的理由だけなのかと言えば、そうではありません。

積極的理由として、稲作をする目的があった、という事もあります。
当初の北広島の開拓は大曲道路に沿って行われてゆきますが、
大曲道路は輪厚川に沿って下っており、
現在の北広島市は、この水源を利用する事が念頭に置かれていると言えます。

ここで国土地理院の色別標高図を見てみましょう。
赤いラインは標高20m以下の箇所に私が引きました。

札幌、江別、北広島、恵庭、千歳・・・早くから人が集まった町は、
いずれも同じような高さ・・・標高20~35mのラインにあるのです。

と、言うのにも当然理由があります。
標高が高い部分というのは支笏火山の溶岩で出来た岩盤の上にあり、
崖地も多い為に農業用地としては不適当であり、
標高が低い部分は水の流れが遅く停滞し、湿地帯・泥炭地となる為、
そのままでは農業に向かないだけでなく、居住や生活にも不向きです。

そういった意味で、この立地を選んだ和田郁次郎氏には、
良い土地を見極めるセンスがあった、と言っていいでしょう。

札幌から比較的近い立地にある事で、交通や物の運搬にも便利で、
農業が上手く行かないうちは林業や炭焼き、大工仕事などの出稼ぎで乗り切ったとも言います。

このようにして北広島の中心は現在の位置に定められた訳ですが、
その後、現在のように3つに分裂した市街形成がなされていったのには、
どのような理由があるのでしょうか、
そして北広島開墾のリーダー、和田郁次郎氏はその分裂を望んでいたのでしょうか。

シリーズ次回『北広島は何故3つに分裂したのか?』で紹介しましょう。


【参考文献】
 ・広島町郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま』昭和61年6月12日発行
 ・北ひろしま郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま~広島村を創立した和田郁次郎の生涯~』平成8年7月12日発行

 

KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①


当記事は2017年03月28日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
北広島市には市街の中心軸となる一本の幹線道路がなく、
街の外側を走る3本の道路それぞれで市街が形成されており、
それは非常に特殊かつ非合理的な構成であると紹介しました。

言ってしまえば、今流行りの『コンパクトシティ』とは逆の、
二正面作戦ならぬ『三正面作戦』をしなければならないのが、
人口減少時代における北広島市の課題である
と言えるでしょう。

そもそも論として、何故このような形になったのでしょうか?

北広島市の偉人に『和田郁次郎』氏という方がいます。
和田氏は明治17年に現在の北広島市への入植を取り仕切った人で、
広島県の出身者で一つの村を作ろうという目標を持っていました。
この、和田郁次郎氏についてはのちのち触れて行きますが、
現在の北広島市の前身にあたる広島町、そして広島村、
さらにその以前の月寒村の『輪厚移民』にさかのぼっても、
その原点は明治17年にある、という事が今回重要となるポイントです。

明治17年と言えば、北海道にとってどんな時代だったでしょうか?

シリーズ『澄川』でも度々紹介してきましたが、
明治15年、それまで北海道開拓の中枢を担った開拓使は廃止され、
『三県一局時代』と呼ばれる分権的な時代に入ってゆきました。

澄川でも官林は民間に払い下げられ、北海道において『官』の存在感は薄らいでゆきます。

そうした時代に入植した和田郁次郎氏ら『輪厚移民』は、
堅い結束による『民』の力で村を大きく、豊かに育ててゆきました。

前回、私は『市街地は幹線道路から格子状に拡大する』という原則を示し、
北海道で有数の古い道路として札幌越新道≒室蘭街道≒札幌本道・・・
すなわち、現在の国道36号線を紹介しました。

さて、国道36号線と言えば現在も札幌・千歳・室蘭を結ぶ北海道の大動脈、
古来から、本州との船便に太平洋ルートを使用する際には本州への道でもありました。
また、白老を経由し函館に至る、オホーツク海側より雪の少ない陸路でもありました。

江戸末期から切り開かれた『札幌越新道』は、
明治2年に開拓使が置かれ札幌に本府によっても積極的に利用され、
明治6年にはほぼ同様のルートが『札幌本道』『室蘭街道』として再整備されています。

当時、北海道の街道沿いには『駅逓』(えきてい)と呼ばれる官営施設が設置されていました。
これは休憩所であると同時に馬の貸し出し、物資運搬や通信の為の施設です。
江戸時代の本州で言うところの宿場に近いかもしれませんね。

明治6年、室蘭街道の開通に伴い、現在の北広島市島松に『島松駅逓所』が設置されます。
『少年よ大志を抱け』で有名なクラーク博士は、明治10年にここでその言葉を発したと言われています。

その事にちなんで、北広島市はクラーク博士を前面に押し出して広報活動を行なっています。
カントリーサインや市のロゴマークなどに積極的にクラーク博士を起用しています。


正直、明治10年当時、そこは札幌郡月寒村だった訳ですし、
クラーク博士自身は帰任の通過点でそれを言った他に北広島市に縁もないようですから、
羊ケ丘公園や北海道大学などの観光地としてのブランドに背乗りしているように感じますが、
そもそもクラーク博士自体が札幌農学校の初代教頭であるものの、
在任期間はわずか8ヶ月で、教え子は一期生のみというのですから、
まー、イメージ戦略とはそういうもの、と割り切るしかないのかもしれません。

明治期の北広島にはもう一人の偉人『中山久蔵』氏も関わっています。
中山久蔵氏は明治以前から北海道に移り住んでいた方で、
明治4年から島松付近を開墾し始め、試行錯誤をしながら稲作を成功させました。
その後、稲作の手法や『赤毛種』の種籾を広め、高く評価されました。
そして、明治17年には中山氏宅が正式に島松駅逓所となりました。

中山久蔵氏の功績によりこの近辺は『寒地稲作発祥の地』とされ、
島松駅逓所には寒地稲作発祥の地の碑が設置されています。

北広島市もこれもPRに利用しており、北広島商工会はゆるキャラ『まいピー』を設定しました。
これは赤毛種のキャラクターで『久蔵おじいさんに育てられました』という設定です。

しかし、こちらもクラーク博士のように自治体ごとの元祖争いのようなものがあり、
恵庭市も『寒地稲作発祥の地』を主張していたりします。
http://www.eniwa-cci.or.jp/shokka/introducing/komezukuri.html

この周辺は島松川を境に札幌郡月寒村と千歳郡島松村の境界だった為、
中山久蔵氏の実験水田はその両方に広がっていたのです。
(島松川は現在の北広島市と恵庭市との境界でもあります。)


このように島松は明治以前から『シュママップ』と呼ばれる交通の要衝であり、
札幌から太平洋側へ抜ける為に旧来使われていたのは室蘭街道≒国道36号線だった訳です。

明治17年に入植した和田郁次郎氏ら輪厚移民、のちの広島村の人々は、
何故、室蘭街道沿いではなく、道道46号線≒広島本通を中心地としたのでしょうか?

その事が、現在の『二正面作戦』的な北広島市の市街形成の原点となっているのです。

元々あった幹線道路の近くから外れて集落を設けた理由は何なのでしょうか?

この謎を紐解いてゆく回答編は次回以降。

KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている


当記事は2017年03月21日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿


幹線道路
というものは、しばしば市街形成における『骨格』や『血管』に例えられます。

整備された流量の多い道路がある事でヒトやモノが『血液』のように流れ、それが『肉』である住宅地や商工業地を支える強靭な『骨格』としての役割を果たします。

中心的な道路から毛細血管のように道路網が発展し、都市として機能してゆきます。

札幌を例に取れば、古くは江戸時代からある道路や開拓使によって拓かれた道路・・・
東西には札幌本道(≒現:国道5号線・旧5号線)、南北には本願寺道路(≒現:石山通)、そして斜めに室蘭街道≒札幌越新道(≒現:国道36号線)を中心に市街が形成されました。

創成川通りは当初”運河縁”と呼ばれ、陸路としては古くから整備されていた訳ではありません。
運河も物流と言う意味では道路と同様の役割を果たしますが、
周辺の開発という意味では気軽に寄り道が出来る陸路よりは影響力は小さいようです。

他にもそれぞれの村ごとに、中心となる道路を中心に切り開かれていく訳です。

札幌市近隣の自治体の都市計画図を見てゆきましょう。

まずは小樽市。札幌本道(≒現:国道5号線)を中心に、岩壁を避けて市街が形成されています。

明治以前からある漁村を合併して大きくなってきた都合、市街化区域が分散しているという特徴があります。
特に小樽市西部、旧高島町地区や旧塩谷村地区に関しては、扱いに苦慮しているようです。

次に江別市の都市計画図を見てみましょう。

江別市は江別一番通(≒現:国道12号線)とJR函館本線を中心に、
札幌市以上に計画的な格子状の市街形成がなされていますが、
これは江別市が屯田兵によって切り開かれた、『官』の色合いが非常に強い町である事に由来します。


次に石狩市の都市計画図を見てみましょう。

石狩市は軽石馬車軌道(≒現:道道44号線)を中心として形成され、
江別市よりも細かい格子状の区割りがされた計画都市ですが、
これは江別市とは別の由来で、戦前は殆どが畑であり、
戦後しばらくしてから宅地開発が始まった、という背景があります。
札幌のベッドダウンとして開発された為、市内中心部まで住宅地が広がっており、
中心部に広めの区画の商業地が少ないことが現代においてはネックになっています。

札幌市の都市計画図も見てみましょう。

札幌市に関しても小樽市と同様に
明治・昭和期に多くの村が合併した名残はありますが、 戦後の農地改革による宅地化と札幌オリンピックによる人口増で、一つの町としての体裁を保っており、飛び地は定山渓や北丘珠の一部に留まっています。

どの自治体に関しても、市内で最も大きな幹線道路に中心街が存在し、
市役所や商店街も幹線道路のほど近くにある、というのが共通の特徴です。

一般的に、市街形成においては最も大きな幹線道路が街の『背骨』になり、
そこから格子状・放射状に市街が広がってゆく
、というのが一般的な形です。

また、その市街が都市計画法によって『市街化区域』に指定され、
郊外の土地が『市街化調整区域』として原野や山林のまま残る、というのが通常です。

しかし、北広島市に関しては事情が大きく異なるのです。
北広島市の都市計画図を見てみましょう。

・・・非常にイビツですね。

北広島市には大きく3つの市街化区域エリアがあります。
(北広島市都市計画マスタープランでは5つの区分ですが、ここでは私の定義でお話します。)

まずは画像右側、北広島市役所やJR北広島駅がある『中央エリア』。
都市計画マスタープランでは『東部地区』『北広島団地』の2地区にあたります。
これがこれまでに述べたいわゆる『通常の市街形成』によるエリアで、
江別から恵庭へ南北に走る広島本通(≒現:道道46号線)沿いに形成された市街地です。
JRの駅もそばにありますから、比較的、江別市に近い構成と言えるかもしれません。

次に画像の左下にあたる『大曲・輪厚エリア』。
都市計画マスタープランでは『大曲地区』『西部地区』の2地区にあたります。戦後、国道36号線沿線に開発されたエリアで、札幌市清田区の延長上にあります。
札幌と北広島の境界は厚別川ですが、川を挟んだだけでほぼ一繋ぎの町という印象です。

大曲の住宅地を抜けると大曲工業団地、輪厚のゴルフ場などを抜けて恵庭・千歳へ至ります。
国道36号線の他にもそのバイパスにあたる羊ケ丘通や、
千歳まで至る高速道路である道央自動車道に沿って市街が形成されています。

最後、一番小さなエリアですが画像の左上『西の里エリア』。
都市計画マスタープランでは『西の里地区』にあたります。
こちらも戦後、国道274号線沿線に開発されたエリアですが、その大半が住宅地です。
現在は札幌市厚別区と隣接していますが元々は厚別区との距離がありました。
平成初期に『虹ヶ丘』として西端が開発され、札幌市との距離が縮まりましたが、
丘陵地にある為に距離が離れており、大曲・輪厚地区ほどの一体感はありません。

各種施設も地元住民の利便の為の物が中心で、これといった特色はありません。
札幌市のベッドタウンとしての側面が強いと言えるでしょう。

このように、一つの自治体の中に3つも市街化区域があり、
それぞれにそれなりに距離が離れており、またそれなりの規模である
というのは、
(少なくとも札幌圏においては)非常に特殊な市街形成の形態であると言えます。

小樽市も飛び地的に市街化区域が分散していますが、
これは元々複数の自治体が合併した事によりますし、
何より、どの市街化区域も国道5号線(旧:札幌本道)を中心に形成されています。

一方の北広島市は明治27年に札幌郡月寒(つきさっぷ)村から分村して以来、
他の自治体を合併したという事はありませんし、
3つのエリアはそれぞれ別の道路の沿線に市街が形成されている点で、小樽と異なります。
(3つの道路・・・道道46号線・国道36号線・国道274号線)

そういった意味で、北広島市は『背骨のない町』であると言えます。

道路は人や車の通り道である他、上下水道やガスなどの配管の埋設があり、
電柱が敷設されているなど、様々な生活インフラの経路になっています
から、
これは江別市や石狩市のように、一つの道を中心に据えて開発をした方が、
都市開発のコストを考えれば間違いなく合理的であると言えるでしょう。

街のメインストリートたる道道46号線『広島本通』に面さない、
『大曲・輪厚エリア』や『西の里エリア』が戦後開発されていったのは何故なのか?

通常の市街化形成のセオリーでは有り得ない3つの幹線道路と3つのエリアで、
北広島市は将来どうすれば人口減の時代を乗り切ってゆけるのでしょうか?

幹線道路を町の外側に複数持つ『背骨のない町』は、
『外骨格都市』として成り立ってゆく事が出来るのでしょうか?

シリーズ次回に続きます。

KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて、新規記事でございます。
前回紹介した通り、平成29年5月、北広島市役所の新庁舎が竣工し、
第1~第3まである旧庁舎については、今後解体する運びとなりました。

新庁舎については昨年の段階で既に取材をしているのですが、
諸事情によって今回の機会を待つまで掲載が遅れてしまいました。
一部写真に古いものが混じっていますが、ご容赦ください。
さて、紆余曲折あって設置されたこの新庁舎、
不動産に携わる者にとっても、調査活動のしやすい良い庁舎であると言えます。

今まで北広島中央にあった第1~第3庁舎の機能が集約された他、
それまでは北広島市土木現業所まで行かなければ取得できなかった、
道路台帳図が新庁舎で取得する事が出来るようになったのです。

これによって殆どの調査が新庁舎だけで完結するようになりました。
初めて行く方にも分かりやすい案内図が庁舎の入口にあります。

<3階>

<4階>

不動産調査に関わる部署は3、4階に集中しています。

3階の都市計画課で調べる用途地域はインターネットからも見る事が出来ますし、固定資産税の評価証明書などもインターネットから申請書をダウンロードして作成して持参するという手順です。

 北広島市「市税に関する証明書」
 http://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/hotnews/detail/00011402.html

肝心の道路調査は、4階の窓口に出向く必要があります。

ずいぶんとオシャレな庁舎になったものです。

4階14番窓口「都市整備課」で職員の方に声をかけましょう。
所在地を聞かれるので住所を答えるか、地図を見せましょう。

すると「北広島市地籍集成図」を提示してくれますので、
道路台帳を取得したい場所を確認します。

職員の方がデスクで作業をし、道路台帳図を出力してくれます。

土木事務所と違い、微妙にカラーで出力されるようになりました。
手数料は変わらず140円と少し高めですが、
600円取られる江別市よりはずっとマシです。

台帳図と一緒に渡された納付書を2階の北洋銀行で支払います。

<上下水道>
同じく4階の12番窓口「水道施設課」でタッチパネルを操作します。

写真右手側のディスプレイがタッチパネル端末です。
住所と地番を入力すると、周辺地図に配管状況が入った画面が表示されます。
水道台帳図と下水道台帳図がそれぞれ別の用紙で出力され、
納付書を渡されるので同じように2階の北洋銀行で払込みましょう。

国道・道道の場合の調査方法は前回と同一ですが、一応紹介します。

<国道>
その道路が『国道』の場合は『札幌建設開発部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『A-7 国道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

<道道>
その道路が『道道』の場合は『札幌建設管理部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき』で紹介しています。

このように、新庁舎への建て替えによって窓口が集約され、
北広島での調査は非常にやりやすくなったと言ってよいでしょう。

不動産を流通させるに当たっては、まず役所が調査しやすい環境を提供することが第一である、と常々提言していますが、北広島市についてもある程度の水準には達したと言っていいでしょう。

今後、北広島が再び隆盛を取り戻せるよう、
市には今後も是非頑張ってもらいたいと思います。

もーちょっと道路台帳図を見易く・綺麗にしてほしいなー、なんて。

KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】


当記事は2014年06月26日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

この記事は上記の通り4年近く前に書いた記事です。
この頃、北広島市役所の旧庁舎は解体・新庁舎の建設予定があり、
旧庁舎時代の記録を残しておく必要から書いたものです。
それでは早速、一部改稿した過去の記事を見てゆきましょう。

今回、紹介する自治体は『北広島市』です。
平成8年までは『札幌郡広島町』でしたが、人口の増加に伴い市制へ移行しました。
名称は現在の広島県広島市からの開拓入植者が多かった事に由来します。
実は札幌市内にも、広島県をルーツに持つ方は多いようです。

当初は札幌市のベッドダウンとして発展し、新千歳空港へは札幌よりもずっと近い事から、
工業団地が主軸となってきており、現在も『輪厚工業団地』が分譲中です。
一方で住宅地はというと…札幌や本州への若年層の流出があり、高齢化が進んでいます。
まぁ、これは全国的な潮流であって北広島に限ったことではないのですが・・・

それでは、具体的な調査窓口を紹介してゆきましょう。

<市道>
その道が北広島市の『市道』の場合の窓口はこちらです。
北広島市土木事務所 北海道北広島市共栄196-1 ‎


道路台帳のコピー代金は一枚につき140円。
図面の精度ですが、正直に言ってしまうとかなりラフで見づらい印象を受けます。

ちなみにこの窓口は最近まで各インターネット地図に登録されておらず、
Googleマップのナビゲーションで現地に行こうとすると難儀していましたが、
ようやく各種インターネット正しく地図にも反映されるようになりました。
噂の日本ハムファイターズのボールパーク予定地からも近いですね。

北広島のHPには市道の台帳交付などの調査窓口について、書いていません。
調査窓口が分からない、というのは公益上よろしくない事だと思うのですが、
各自治体では、まだそういった面での整備が不十分な場合が多いのです。
→平成29年3月に改善されました。

<国道>
その道路が『国道』の場合は『札幌建設開発部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『A-7 国道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

<道道>
その道路が『道道』の場合は『札幌建設管理部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき』で紹介しています。

<位置指定道路>
位置指定道路や上下水道の窓口は、市役所本庁舎(北広島市中央4丁目2番地1)です。
庁舎は3つに分かれており、位置指定道路は第二庁舎の建築指導課、
上水道は第三庁舎の水道施設課、下水道は同じく第三庁舎の下水道課です。
(上下水道の台帳については水道施設課の窓口にあるタッチパネル端末で取得可能)

・・・と、ここまで書いてきましたが、この文章も、将来的には改定が必要になります。
実は北広島市の庁舎はかなり老朽化が進んでおり、
20年以上前から建て替え計画を検討していましたが、
諸事情によってまったく話が進んでいませんでした。

しかし、平成26年1月16日、ようやく具体的なプロジェクトとして建替計画が決定され、
具体的なイメージ図やタイムスケジュールも公表されています。
平成27年7月から着工し、平成29年7月に工事完了の予定ですから、
3年後には、不動産調査の窓口についてもかなり様変わりする可能性があります。
そうなると当時の状況がわかる資料が殆ど残りませんから、
このようなブログも一つの重要な資料になるのでは…などと考えています。

北広島市役所の庁舎建替計画については、追々紹介するかもしれません。

・・・と、言っておいて、結局建て替えが済んでから1年を経るまで、
建て替え計画について紹介する機会はなかったんですがね!!

次回は新庁舎になってからの調査方法について紹介してゆく予定です。

KH-0 この道なぁに?『北広島』がはじまります


平成30年3月26日、プロ野球日本ハムファイターズの移転候補地が、
北広島市の『きたひろしま総合運動公園』に内定しました。
候補地として、真駒内アイスアリーナや北海道大学敷地が取り沙汰されたり、
それ以前は月寒グリーンドームや八紘学園の敷地も俎上に挙がりましたが、
結局の処、札幌市から実現性のあるプランが示されなかったという事でしょう。

まー、『勝ち馬に乗る』『長い物に巻かれる』札幌の人の市民性というのは、
好成績のうちは良いものの、負けが込むと途端に応援しなくなってしまうので、
率直に言って、大阪や広島のような球団との関係性は作れないでしょう。

北海道の人は大らかだというイメージがあるかもしれませんが、
環境が厳しく所得も低い分、シビアで利己的な方が多いのです。
東北もそれは同じで、西の方とは傾向が大きく異なるように思います。
(そうでもしないと生きていけないのだから仕方ないでしょう。)

まー、私も札幌出身ですし一概に北の人間を否定しているのではなく、
西の人は西の人で別の面倒さ、厄介さがあるのでお互い様ですね。

さて、以前から私の営業エリアは札幌市とその近隣と紹介してきましたが、
具体的には札幌の南東側・・・北広島市、江別市の取引が多く、
北西側・・・小樽市や石狩市の取引はそう多くありません。

特に北広島市に関しては札幌市に次いで取引が多く、
またマニアックな取り扱いについてもある程度通じていますから、
ファイターズ移転決定で注目度もあるこの機会に、
過去の記事も含めて北広島市における不動産調査や北広島の歴史、
都市計画などについて、気まぐれに紹介してゆこうと思います。

まずは不動産調査について、まとめる事にしましょう。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき


当記事は2014年06月19日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

今日は北海道が管轄する道、『道道』の調べ方を紹介しましょう。

北海道ではテレビやラジオで『どうどう』という音を聞くことは日常的ですが、
『道道』と文字として書くと、かなり違和感があるように感じるのは私だけでしょうか?
PC上で変換をする際も誤変換が目立つので『みちみち』と打っています。

本題に入りましょう。
札幌市内の『道道』については、札幌市が管理を行っています。
これは、政令指定都市に与えられた行政権限の委譲によるもので、
これによって市内の『道道』については、札幌市役所で調べることが出来ます。
調べ方については、『A-6 市道・道道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

札幌市外にある道道については、各自治体に行っても教えてもらえません。
例えば、石狩市を走っている道道のことを石狩市役所に問い合わせても無駄という事です。

道道を調べる窓口は北海道の『札幌建設管理部』という部署です。
ちなみに『札幌建設管理部』は道央圏≒空知総合振興局管轄の場合です。
ほかの地域では『旭川建設管理部』『小樽建設管理部』などになります。

国道を管轄する国の窓口は『札幌開発建設部』なので、メチャクチャ紛らわしいですね(; ・`д・´)

“札幌”建設管理部ですが、千歳市や石狩市…空知地域全体を管轄しています。
この役所は札幌に本所があり、各地区に『出張所』があります。

札幌にある本所では、空知振興局のすべての道道を調べる事が出来ますが、
各出張所では、出張所それぞれの管轄地域の道道についてしか、調べられません。
・・・と、いう事は札幌市の本所で調べるのが一番確実という事です。
私も通常は本所にしか行きませんが、市外遠方の方もいらっしゃるでしょうから、
各出張所についても紹介してゆこうと思います。

各窓口へ出向き、『道道の台帳の写し頂きたい』と伝え、受付簿に署名すると、
職員が道路台帳のコピーを無料で取ってきてくれます。
希望があればA全版(A4サイズの8倍)やB全版で図面をコピーしてもらえますが、
通常はB4~A2サイズの部分コピーまたは縮小コピーです。

札幌市をはじめとして、各自治体では台帳のコピーは有料ですが、北海道は無料なのです。
(各出張所に電話で問い合わせて調査した結果です。今後変更となる可能性があります。)

さて、各窓口の場所と管轄について紹介していきましょう。

札幌建設管理部 札幌市中央区南11条西16丁目2番1号(011-561-0201)
 管轄:空知総合振興局管轄区域の全域

千歳出張所 千歳市桂木6丁目1番28号(0123-23-4191)
 管轄:北広島市・千歳市・恵庭市




滝川出張所
 滝川市流通団地3丁目1番5号(0125-22-3434)
 管轄:滝川市・芦別市・砂川市・赤平市・歌志内市・上砂川町・浦臼町・新十津川町
    奈井江町・雨竜町石狩川流域下水道・北海道子どもの国・徳富ダム

深川出張所 深川市錦町北4番11号(0164-22-1411)
 管轄:深川市・妹背牛町・秩父別町・北竜町・沼田町

当別出張所 石狩郡当別町栄町192番7号(0133-23-2220)
 管轄:江別市(一部除く)・石狩市(一部除く)・当別町・新篠津村
     真駒内公園・野幌総合運動公園

 ※ 江別市・石狩市の一部については西野にある『事業課』が管轄しているので、
    道路台帳は本所で取得して下さい。




長沼出張所
 夕張郡長沼町市街地(01238-8-2346)
 管轄:夕張市・長沼町・南幌町・由仁町・栗山町・栗山ダム

岩見沢出張所 岩見沢市上幌向南1条2丁目(0126-26-3011)
 管轄:岩見沢市・美唄市・三笠市・月形町・美唄ダム

・・・と、まぁ私も行ったことのない窓口が多数あります。

ところでここまでのリストに、札幌に隣接する『小樽市』が入っていませんね。
これは単純な話で小樽は後志総合振興局の管轄だから、という話です。
いずれは小樽についても取り上げてゆきますが、1日の代休では窓口は回り切れませんでした。

引き続き、札幌市以外での道路の窓口について紹介してゆきます。