当記事は平成29年2月15日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。
『シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった』では、現在の澄川は明治後期に2人の大地主によって拓かれた地区であり、西を茨木農場の茨木與八郎が、東を阿部造林の阿部与之助が所有していた、と紹介しました。
澄川は南へ行くほど『丁目』が増え、東へ行くほど『条』が増えます。
概ね、1~3条が茨木氏の、5条が阿部氏のエリアとなります。
澄川4条に関しては双方の中間のエリアと考えてよい区域ですが、だいたい、4条7丁目くらいまでが茨木氏、4条8丁目以降が阿部氏というところでしょうか。
東西に幅があるのが茨木氏、南北に幅があるのが阿部氏、とも言えます。
紅桜大擁壁は澄川4~5条・11~13丁目のエリアですから、
明治期には阿部与之助氏のエリアであった、という事になります。
明治29年、豊平村の阿部与之助氏が澄川南東に広がる山間部の『官林』の貸下げを受け、
この一帯に落葉松=カラマツの植樹を開始しました。
阿部与之助氏は現在の国道36号線(室蘭街道)沿い・豊平区豊平で商店を営んだ実業家で、
豊平区においては小中学校の設立、神社の整備などに私財を投じた篤志家として有名な方です。
現在でも月寒公園には『阿部与之助功労碑』が祀られています。
『郷土史すみかわ』に添付されている阿部造林山の図面を見てみましょう。
この土地は『木挽山』から『紅桜公園』までも含む広大なもので、貸下げ以後、大正元年には苗木の植え付けを完了した、と言いますが、明治は45年まである訳ですから、全面に植樹するまで15年も掛かるほど広大な土地であった、という事です。
精進川上流の水利が良く傾斜がなだらかな部分では造林と並行して農業が営まれており、地主の阿部与之助氏に代わり、林業と農業の管理は小作人の吉田庄蔵氏が行ないました。
吉田庄蔵氏は富山県出身、明治28年、20歳の時(つまり明治8~9年生まれ)に渡道。
豊平村の阿部商店の従業員で珠算・計数に長けた人だったと言います。
現在でも澄川では吉田姓の地主さんが多くいますが、幾人かはこの吉田庄蔵氏の子孫であるとの事です。
現在から約100年前、大正5年の大日本帝国陸地測量部作成の地形図を見てみましょう。
…う~ん、すがすがしいまでに何もないですね。
位置関係を分かり易くするために注釈を加えていますが、この当時実際に存在しているのは『器械場道路』のみです。
一応、注釈には加えていませんが、『平岸澄川線』も存在しています。
平岸街道すら、ほとんどの部分存在していないのですから、驚きですね。
阿部造林山には、針葉樹の地図記号がちらほら見えるだけで、畑も水田も人家も見当たりません。(地図左手に水田があるのは茨木農場の部分です。)
阿部与之助氏は大正2年に亡くなっていますから、この地図はその直後の状況、という事になります。
以後、阿部与之助氏の子孫のことを一纏めにして『阿部家』と言います。
造林されたカラマツは昭和9年に炭坑用の木材として半分以上が一括買い上げされ、伐採された半分のうち3分の2(≒6分の2)には再度植樹がされますが、残りの3分の1(≒6分の1)は開墾され、ジャガイモなどが生産されました。
(アジア太平洋戦争の食糧不足により、時間のかかる植樹よりも畑とすることが望まれたのでしょう。)
昭和20年の終戦を迎え、澄川にも名物『農地改革』と『財閥解体』の波が到来します。
茨木農場の記事の際にも紹介しましたが、おさらいをしましょう。
昭和21年に成立した『自作農創設特別措置法』による『農地改革』とは、下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、小作人に買い取らせる、というものです。
・不在地主のすべての小作地
・在村地主の約1町(北海道4町)を超える小作地
・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地
阿部家を不在地主というべきか、在村地主というべきか、私は歴史や風俗史の専門家ではないのではっきりとは断定できませんが、同じ豊平町にいたのですから、当時の距離感も考えれば在村地主にあたるのではないかと思います。
※ 当時、澄川地区は豊平町大字平岸の一部分でした。
北海道の場合、在村地主では4町を超える小作地が農地改革の対象となりました。
そして、前述の通り阿部家は元々が商店主であって、農作業は吉田氏などの小作人が行なっていました。
更に、阿部与之助氏が存命中に所有していた土地は140町を超えていたというのですから、時代が阿部与之助氏の後の世代に移ったとはいえ、小作地の大半は買い上げられたと考えるのが自然でしょう。
ところで、『郷土史すみかわ』87ページにおいてもこのような記載があります。
『昭和22年占領軍指令による農地改革により、これら農場の田畑は地主から入植者に解放された。』
(『これら農場の田畑』とは、文脈上、昭和9年以後開墾され、ジャガイモなどが植えられた畑を指します。)
しかし、私は阿部家が農地改革によってすべての土地を失った訳ではないと考えています。
札幌におけるすべての土地を失った茨木農場の茨木與八郎氏との違いはどこにあったのでしょうか?
それは、阿部造林山の大半は『山林』であって『農地』ではなかったから、なのです。
従来、『山林』に関しては、『農地』という捉え方をされてこなかった側面があります。
現在においても、林業に関する法律は『森林・林業基本法』であって『農地法』ではありません。
林業を行なうには大資本と長期間が必要であり、人的資源も多く要しますから、農地とは性質が異なるのです。
(いざ山林を小作人に分け与えても適正な運営をしてゆく事は出来ない、という理由も考えられます。)
その為、農地改革においても山林は対象とならなかったとする文献がいくつかあります。
前述の郷土史すみかわの記載も『農場の田畑は(中略)解放された』とされており、それを裏付けています。
さて、農地改革後、先んじて小作人達に分け与えられた澄川地区の西側、旧:茨木農場のエリアと、阿部造林山のうち、昭和9年以後農地化された6分の1…澄川4~5条・3~9丁目のエリアは、昭和35年以降、ハウスメーカーや造成業者によって数々の分譲団地に変貌してゆきます。
『シリーズ『澄川』⑤ 定山渓鉄道と『北茨木』そして『澄川』駅』で紹介した通り、澄川は元々、定山渓鉄道(じょうてつ)のエリアですから、宅地分譲にあたっては、定山渓鉄道が非常に力を注いでおり、計5箇所・3万4552坪もの造成を行なったとされています。
定鉄以外の各社もそれぞれのブランドで宅地造成分譲を行なってゆきますが、それも9丁目までの北側のエリアに留まります。
現在の10丁目~13丁目、そして条丁目のない番地エリアは阿部造林山が存在していたからです。
ここで、昭和36年~昭和39年の航空写真を見てみましょう。
現在の道路、施設の位置を入れ込んでいますが、当時あったのは『器械場道路』と『平岸街道』のみです。
東西に走る『真駒内養護学校線』が現在の9丁目と10丁目の境界ですから、10丁目以南については、まだ阿部造林山で林業が営まれていた様子が分かるでしょう。
そして、現在の姿に繋がる大きなターニングポイントは昭和39年に訪れます。
昭和39年、阿部造林山はパルプ材として伐採され、売却されます。
跡地のうち現在の10丁目~13丁目に関しては『緑ヶ丘団地』として生まれ変わるのです。
(更に南側の番地エリアに関しては、再度落葉松が植樹され、市街化調整区域のまま現在に至っています。)
昭和39年の伐採ののち、その跡地が昭和45年以降、土地区画整理法に基づき、『緑ヶ丘団地』として開発・分譲されていく訳ですが、これについては、次回以降で紹介したいと思います。
それではまた次回。
<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会