『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

さて、前回で一区切り、と宣言しておいてなんですが、
『植物園の耳』に関する事実関係を時系列でまとめた記事を書いていなかったので、この機会にまとめてゆきましょう。
(この機会、というのは書く時間がないから今度にしよう、と思っていたけどやっぱり書こう、という事になった、という『機会』です。)

前回の『『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生』と照らし合わせてみると、林文次郎氏が生きた時代の歴史的背景が分かりやすいかもしれません。

明治9年頃
 現在の植物園は北海道大学の施設である事は既に紹介した通りですが、
 北大の前身としては明治9年開校の札幌農学校が有名です。
 実は更なる前身として明治2年開校の開拓使仮学校、
 明治8年開校の札幌学校がありますが、
 札幌農学校となるまでは体制が整わなかったというのが実情のようです。

 札幌農学校とは別個の動きですが、『植物園の耳』に関する流れとして、開拓使がお雇い外国人ルイ・ベーマー氏に依頼し、北4条西1丁目に温室を建設します。
 これがのちに移設され、植物園の原型となります。

 また、お雇い外国人エドウィン・ダン氏が道庁の西側に牧羊場を設置します。
 エドウィン・ダン氏は開拓使における欧米式の家畜育成の指導を担った人物です。
 現在の自衛隊駅前~真駒内駅に広がる牧牛場明治9年に設置し、
 牧牛場の他、植物園の位置に『牧羊場』、他にも養豚場や牧馬場を指導しています。
 特に真駒内の牧牛場はのちに種畜場となり、家畜全般の育成の地になりました。
 その後、終戦に伴い米軍が進駐し『キャンプ・クロフォード』となり、
 その敷地が返還され『陸上自衛隊真駒内駐屯地』や札幌オリンピックにおける競技会場となりました。
 現在も真駒内には『エドウィン・ダン記念館』があります。

 エドウィン・ダン氏が道庁の西側で羊の飼育を行っていたという事実は、驚くほど文献に残されていませんし、知られてもいません。
 また、開拓使が関わっていたのはともかくとして、
 実際ににエドウィン・ダンが携わっていたのか否かは、不明です。
 (『桑園誌』には明治15年の設置とされていますが、文献の読み違いと思われます。)

 おそらく、予定地とはされていたものの何らかの事情で上手く行かなかったか、中心地と近すぎてすぐに不便を生じてしまったのではないか、と思われます。

 また翌明治10年には開拓使が北7条西7丁目『仮博物場』を設置します。

明治15年
 明治10年に開拓使が設置した『仮博物場』は、明治15年に現在の植物場に移設され、現在も存在する『開拓使博物場』が落成します。
 これは札幌農学校の施設ではなく、開拓使勧業課の施設です。

明治17年
 札幌農学校が札幌勧業課から博物場の移管を受け、植物園の設置準備を開始します。
 管轄が開拓使勧業課から札幌勧業課に変わったのは、明治15年の開拓使解体に伴うものです。
 まず最初に博物場の周辺1万5千坪の移管を受け、ここから宮部金吾氏による植物園の準備が始まります。
 植物園の構成の設計、周辺地の移管の働きかけを開始します。

明治18年1月
 植物園の設置が許可され、測量作業が開始されます。

 前年に勧業課から移管を受けた図Ⅰの1万5千坪の他、
 この年には 図Ⅱ北海道事業管理局農業事務所2720坪養蚕用地
 図Ⅲ2650坪と図Ⅳ788坪の牧羊場用地も移管を受けます。

 10年足らずでなかったことにされる牧羊場って何だったんだよ
 という気がしないではありませんが、北海道開拓=欧米文化の導入は試行錯誤の連続であったと言う事でもあるのでしょう。

明治18年10月
 このようにして着々と測量作業や土地の移管が進んでゆく中で、
 明治9年北4条西1丁目に設置された旧植物園からの移転を完了します。

明治19年7月
 この年、植物園設置の実務的中心人物である宮部金吾氏がハーバード大学へ、札幌農学校初の海外留学生として、3年間の留学に出ます。
 宮部金吾氏によると『洋行出發の頃には道路は西八丁目で終わってゐた。そして現在の市立病院のところには桑園の養蠺室があつた。』   

 ここで言う『道路』とは、植物園の南側を通る現在の『北2条通』です。
 また、『現在の市立病院のところ』とは、その道向かいにある敷地、
 現在のヤマダ電機札幌本店周辺の土地の事で、
 この周辺には、蚕を育てる為の養蚕室があった、とのことです。

明治20年前後
 宮部金吾氏の不在は続きますが、北東角にある図Ⅴの樹木園2600坪が北海道庁育種場から移管されます。

明治22年頃
 この時期、図Ⅵ北海道廳立病院の建設計画が持ち上がります。
 北海道庁立病院は、のちの札幌区立病院、そして現在の札幌市立病院です。

 札幌市立病院側が南側にある図Ⅱ1600坪の敷地を譲渡し、
 代わりに元々用意されていた図Ⅵの植物園内の敷地6000坪を植物園側が取得したという事です。
 Σ(゚Д゚;なんでか敷地増えてるッ?!

 この辺りの事情についてはかなり不可解な部分が多いのですが、後日、シリーズ植物園の耳『札幌病院と植物園の不可解な敷地交換』で紹介する予定です。

明治23年
 この年、植物園の南側に面する『北2条通』が開通します。
 宮部金吾氏によるとその北側に『狭長なる不要の地が残ってゐたが、これを再び植物園に合併した。』との事。
 また、南西側(図Ⅶ)の畑4000坪を道庁から引き継ぐ。他にも北西側(図Ⅷ2200坪を同時に引き継ぎます。
 これによって札幌農学校付属植物園の敷地はほぼ現在の形になります。
 西南隅の一小民有地を除く外は、殆ど二百間四方役四萬坪の地積を占有するに至つた。』
 この、『西南隅の一小民有地』と言うのが『植物園の耳』です。

明治28年3月
 『『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?』で紹介した通り、『植物園の耳』が民間人、星野和太郎氏の名義になるのは明治28年の事です。

 また、たびたび引用している宮部金吾氏の言は、昭和2年北海道大学退官後に著した自伝の内容ですから、後日当時を振り返って語ったものです。

 ここまでの精力的な範囲拡大を見ても、宮部金吾氏が植物園を南北3区画×東西3区画の完全な正方形にしたかったであろうことは想像に難くありません。
 そんなさなか、昔の下宿生が自身のライフワークである植物園の整備を阻害する事になった事に、どんな思いを抱いたのでしょうか。
 或いは、宮部金吾氏と星野和太郎氏の間に、何らかの確執があったのでしょうか。
 今となっては想像するほかありません。

明治33年
 この年、宮部金吾氏が植物園長に就任します。

明治34年2月
 星野和太郎氏から林文次郎氏へ、北2条西10丁目1番地1が譲渡されます。
 当時の林文次郎氏の登記住所は熊本県塩屋町16番地です。

 この翌年、明治35年には星野和太郎氏は北一条郵便局の局長に就任します。
 郵便局長の5年の任期を終えたのち2代目の局長となるのも林文次郎氏です。

 当初はただ土地を売買しただけの関係かと考えていたのですが、
 郵便局長を引き継いだ件などを考えると、ある意味で林氏は星野氏の後継者的立場であったのではなかろうか、とも考えています。

明治42年
 この年、従来は出入り自由であった植物園の周囲を竹垣で囲み、
 正門を置いて入り口を定めて出入りを制限し始めます。

 植物園はあくまでも大学の研究施設ですから、
 植えている植物を持ち去られたり、他の植物が移入したりという事を避ける為でしょう。

明治44年
 その2年後には入園料3銭を徴収するようになります。
 勿論、収益の為というよりは出入の取り締まりが目的であったと思われます。

大正6年4月
 林文次郎氏が札幌区から北2条西10丁目2番1を取得します。
 この部分はメムから生じた川に沿った部分で殆ど道にも接していませんから、
 現実的に氏以外にこの土地を買う事は出来なかったと言えるでしょう。

 札幌区から払い下げを受けたのではないかな、と予想されます。

大正14年8月
 それまで東北帝国大学札幌農科大学植物園長官舎に住んでいた宮部金吾氏が、
 この年、転居して北6条西13丁目(現在の宮部記念緑地)に居を構えます。

大正15年
 宮部金吾氏が植物園長を退官…という説があるが昭和2年という説もあり、記述が一致していません。
 昭和2年に北海道帝国大学を退官したのは確定していますから、
 北大には在籍したまま植物園長のみ辞任したのかもしれません。

昭和2年
 宮部金吾氏が北大の定年制の導入による依頼退官の発令で退官。
 退官後も昭和26年に没するまでラジオ出演などで市民に親しまれたそうです。
 昭和24年には札幌市初の名誉市民となっています。
 (Wikipediaの記載によると名誉市民・栄誉市民は過去4名、
  北海道大学の教授と市長経験者2名ずつと、かなり限られています。)

昭和3年
 宮部金吾氏の伝記によると、この頃には、北2条通の下水道工事によって、メム(湧水)が枯れ、小川は干上がったと記載されています。

 寒冷地農業のセオリーとして『土管を埋める』という方法があります。
 埋めた土管『暗渠排水』を通って地下水が抜ける事で、
 土中の水分を減らして、耕作に適した土地に変化させる訳です。
 そういえば『ブラタモリ』でも紹介されていましたね。

 これは、農業用暗渠に限った話ではなく衛生下水道でも同じことです。
 下水道が整備されたことで札幌の各地の『メム』が枯れたと言われています。

 まぁ、水はけが良くなる訳ですから都市としては寧ろ好都合でしょう。
 そうして、植物園の耳にあったメムや小川も姿を消すこととなったのです。

昭和25年4月
 株式会社神原商事が札幌市中央区北2条西9丁目に移転してきます。
 神原商事の公式サイトから社歴を調べると、
 昭和9年4月に樺太、敷香町にて三幸商会として創業し、
 昭和21年4月の終戦後に北海道、小樽にて営業開始したものが、
 この時期に『植物園の耳』に移って来ます。

 以降、平成2年まで北2条西9丁目7番地に本店を置きますが、
 登記に関してはこの時点では成されていません。
 当初は借地だったのか、あるいは占有だったのかは判然としません。

昭和26年1月
 札幌市北2条西10丁目4番地について、久島久義氏が所有権保存登記。
 久島久義氏の登記住所は北2条10丁目1番地と、元々氏の土地です。
 1番地、2番地1昭和23年久原久氏という方に売却されています。
 どうも、『久原』氏と『久島』氏は同一人物なのでは?という気もします。
 この後10年も経たず、どちらの土地も売却されてしまいますから、
 どのような方だったのか、現在のところ調べる目途は立っていません。

 4番地は一番奥の細い土地ですが、何の目的で登記されたのかと言えば、
 植物園との間の空白地であったから、という事情が想定されます。

 戦後の混乱期には色々なことがあったのでしょう。

昭和28年6月
 今回の参考文献として重要な伝記『宮部金吾』が発行されました。

昭和33年12月
 北2条西9丁目1番地社団法人北海道乗用自動車協会により登記されます。
 これは『登録地成』といって、国からの払い下げを受けたものです。
 どんな協会だったのか名前からは想像出来ませんが実はタクシーの協会です。
  北海道ハイヤー協会
   http://hokuhakyo.or.jp/about/

昭和43年
 植物園の北側の敷地が道路拡張の為に道路に一部提供されます。
 『植物園の耳』とは直接関係ありませんが、一応記載しておきましょう。

昭和49年8月
 株式会社神原商事が札幌市位置指定道路第5113号を申請します。
 神原商事の事務所は公道に面していませんでしたから、
 これを改善する為に位置指定道路を申請したのでしょう。

 もともと、北二条通に面した敷地だけが合法的に建物の建築が可能でしたが、
 これによって、植物園の耳の奥の方も開発が可能となりました。

昭和49年
 植物園の全周に金属フェンスが完成し、それまでの木柵から切り替わります。
 植物園と『植物園の耳』の間の境界がはっきりさせられた訳です。

北海道開拓から約45年前までの100年に渡る歴史を追いました。
一つ一つの事柄が濃厚であり、また過去の出来事を調べるには限界があります。
おそらく、長くこういった活動をしていたり、不動産業に携わることで、
これらの事情をより深く知る機会も出てくるのだろうとは考えていますが、
この、ごくごく小さなエリアであってもこのように濃厚な歴史があるのだという事が、不動産調査の醍醐味です。

ここからさらに45年、昭和末期から平成後期までの歴史を経ている訳ですが、ちょっと、これ以降の事情については個人情報などの兼ね合いもあって、あまり詳細な情報をなかなかインターネットに公開してゆくことは憚られます。

一方で、ここからの事情と言うのも非常に面白い処がありますから、まぁ、差支えのない範囲で今後も『植物園の耳』について紹介してゆこうと考えています。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

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