植物園の耳⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

さて、前回で一区切り、と宣言しておいてなんですが、
『植物園の耳』に関する事実関係を時系列でまとめた記事を書いていなかったので、この機会にまとめてゆきましょう。
(この機会、というのは書く時間がないから今度にしよう、と思っていたけどやっぱり書こう、という事になった、という『機会』です。)

前回の『『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生』と照らし合わせてみると、林文次郎氏が生きた時代の歴史的背景が分かりやすいかもしれません。

明治9年頃
 現在の植物園は北海道大学の施設である事は既に紹介した通りですが、
 北大の前身としては明治9年開校の札幌農学校が有名です。
 実は更なる前身として明治2年開校の開拓使仮学校、
 明治8年開校の札幌学校がありますが、
 札幌農学校となるまでは体制が整わなかったというのが実情のようです。

 札幌農学校とは別個の動きですが、『植物園の耳』に関する流れとして、開拓使がお雇い外国人ルイ・ベーマー氏に依頼し、北4条西1丁目に温室を建設します。
 これがのちに移設され、植物園の原型となります。

 また、お雇い外国人エドウィン・ダン氏が道庁の西側に牧羊場を設置します。
 エドウィン・ダン氏は開拓使における欧米式の家畜育成の指導を担った人物です。
 現在の自衛隊駅前~真駒内駅に広がる牧牛場明治9年に設置し、
 牧牛場の他、植物園の位置に『牧羊場』、他にも養豚場や牧馬場を指導しています。
 特に真駒内の牧牛場はのちに種畜場となり、家畜全般の育成の地になりました。
 その後、終戦に伴い米軍が進駐し『キャンプ・クロフォード』となり、
 その敷地が返還され『陸上自衛隊真駒内駐屯地』や札幌オリンピックにおける競技会場となりました。
 現在も真駒内には『エドウィン・ダン記念館』があります。

 エドウィン・ダン氏が道庁の西側で羊の飼育を行っていたという事実は、驚くほど文献に残されていませんし、知られてもいません。
 また、開拓使が関わっていたのはともかくとして、
 実際ににエドウィン・ダンが携わっていたのか否かは、不明です。
 (『桑園誌』には明治15年の設置とされていますが、文献の読み違いと思われます。)

 おそらく、予定地とはされていたものの何らかの事情で上手く行かなかったか、中心地と近すぎてすぐに不便を生じてしまったのではないか、と思われます。

 また翌明治10年には開拓使が北7条西7丁目『仮博物場』を設置します。

明治15年
 明治10年に開拓使が設置した『仮博物場』は、明治15年に現在の植物場に移設され、現在も存在する『開拓使博物場』が落成します。
 これは札幌農学校の施設ではなく、開拓使勧業課の施設です。

明治17年
 札幌農学校が札幌勧業課から博物場の移管を受け、植物園の設置準備を開始します。
 管轄が開拓使勧業課から札幌勧業課に変わったのは、明治15年の開拓使解体に伴うものです。
 まず最初に博物場の周辺1万5千坪の移管を受け、ここから宮部金吾氏による植物園の準備が始まります。
 植物園の構成の設計、周辺地の移管の働きかけを開始します。

明治18年1月
 植物園の設置が許可され、測量作業が開始されます。

 前年に勧業課から移管を受けた図Ⅰの1万5千坪の他、
 この年には 図Ⅱ北海道事業管理局農業事務所2720坪養蚕用地
 図Ⅲ2650坪と図Ⅳ788坪の牧羊場用地も移管を受けます。

 10年足らずでなかったことにされる牧羊場って何だったんだよ
 という気がしないではありませんが、北海道開拓=欧米文化の導入は試行錯誤の連続であったと言う事でもあるのでしょう。

明治18年10月
 このようにして着々と測量作業や土地の移管が進んでゆく中で、
 明治9年北4条西1丁目に設置された旧植物園からの移転を完了します。

明治19年7月
 この年、植物園設置の実務的中心人物である宮部金吾氏がハーバード大学へ、札幌農学校初の海外留学生として、3年間の留学に出ます。
 宮部金吾氏によると『洋行出發の頃には道路は西八丁目で終わってゐた。そして現在の市立病院のところには桑園の養蠺室があつた。』   

 ここで言う『道路』とは、植物園の南側を通る現在の『北2条通』です。
 また、『現在の市立病院のところ』とは、その道向かいにある敷地、
 現在のヤマダ電機札幌本店周辺の土地の事で、
 この周辺には、蚕を育てる為の養蚕室があった、とのことです。

明治20年前後
 宮部金吾氏の不在は続きますが、北東角にある図Ⅴの樹木園2600坪が北海道庁育種場から移管されます。

明治22年頃
 この時期、図Ⅵ北海道廳立病院の建設計画が持ち上がります。
 北海道庁立病院は、のちの札幌区立病院、そして現在の札幌市立病院です。

 札幌市立病院側が南側にある図Ⅱ1600坪の敷地を譲渡し、
 代わりに元々用意されていた図Ⅵの植物園内の敷地6000坪を植物園側が取得したという事です。
 Σ(゚Д゚;なんでか敷地増えてるッ?!

 この辺りの事情についてはかなり不可解な部分が多いのですが、後日、シリーズ植物園の耳『札幌病院と植物園の不可解な敷地交換』で紹介する予定です。

明治23年
 この年、植物園の南側に面する『北2条通』が開通します。
 宮部金吾氏によるとその北側に『狭長なる不要の地が残ってゐたが、これを再び植物園に合併した。』との事。
 また、南西側(図Ⅶ)の畑4000坪を道庁から引き継ぐ。他にも北西側(図Ⅷ2200坪を同時に引き継ぎます。
 これによって札幌農学校付属植物園の敷地はほぼ現在の形になります。
 西南隅の一小民有地を除く外は、殆ど二百間四方役四萬坪の地積を占有するに至つた。』
 この、『西南隅の一小民有地』と言うのが『植物園の耳』です。

明治28年3月
 『『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?』で紹介した通り、『植物園の耳』が民間人、星野和太郎氏の名義になるのは明治28年の事です。

 また、たびたび引用している宮部金吾氏の言は、昭和2年北海道大学退官後に著した自伝の内容ですから、後日当時を振り返って語ったものです。

 ここまでの精力的な範囲拡大を見ても、宮部金吾氏が植物園を南北3区画×東西3区画の完全な正方形にしたかったであろうことは想像に難くありません。
 そんなさなか、昔の下宿生が自身のライフワークである植物園の整備を阻害する事になった事に、どんな思いを抱いたのでしょうか。
 或いは、宮部金吾氏と星野和太郎氏の間に、何らかの確執があったのでしょうか。
 今となっては想像するほかありません。

明治33年
 この年、宮部金吾氏が植物園長に就任します。

明治34年2月
 星野和太郎氏から林文次郎氏へ、北2条西10丁目1番地1が譲渡されます。
 当時の林文次郎氏の登記住所は熊本県塩屋町16番地です。

 この翌年、明治35年には星野和太郎氏は北一条郵便局の局長に就任します。
 郵便局長の5年の任期を終えたのち2代目の局長となるのも林文次郎氏です。

 当初はただ土地を売買しただけの関係かと考えていたのですが、
 郵便局長を引き継いだ件などを考えると、ある意味で林氏は星野氏の後継者的立場であったのではなかろうか、とも考えています。

明治42年
 この年、従来は出入り自由であった植物園の周囲を竹垣で囲み、
 正門を置いて入り口を定めて出入りを制限し始めます。

 植物園はあくまでも大学の研究施設ですから、
 植えている植物を持ち去られたり、他の植物が移入したりという事を避ける為でしょう。

明治44年
 その2年後には入園料3銭を徴収するようになります。
 勿論、収益の為というよりは出入の取り締まりが目的であったと思われます。

大正6年4月
 林文次郎氏が札幌区から北2条西10丁目2番1を取得します。
 この部分はメムから生じた川に沿った部分で殆ど道にも接していませんから、
 現実的に氏以外にこの土地を買う事は出来なかったと言えるでしょう。

 札幌区から払い下げを受けたのではないかな、と予想されます。

大正14年8月
 それまで東北帝国大学札幌農科大学植物園長官舎に住んでいた宮部金吾氏が、
 この年、転居して北6条西13丁目(現在の宮部記念緑地)に居を構えます。

大正15年
 宮部金吾氏が植物園長を退官…という説があるが昭和2年という説もあり、記述が一致していません。
 昭和2年に北海道帝国大学を退官したのは確定していますから、
 北大には在籍したまま植物園長のみ辞任したのかもしれません。

昭和2年
 宮部金吾氏が北大の定年制の導入による依頼退官の発令で退官。
 退官後も昭和26年に没するまでラジオ出演などで市民に親しまれたそうです。
 昭和24年には札幌市初の名誉市民となっています。
 (Wikipediaの記載によると名誉市民・栄誉市民は過去4名、
  北海道大学の教授と市長経験者2名ずつと、かなり限られています。)

昭和3年
 宮部金吾氏の伝記によると、この頃には、北2条通の下水道工事によって、メム(湧水)が枯れ、小川は干上がったと記載されています。

 寒冷地農業のセオリーとして『土管を埋める』という方法があります。
 埋めた土管『暗渠排水』を通って地下水が抜ける事で、
 土中の水分を減らして、耕作に適した土地に変化させる訳です。
 そういえば『ブラタモリ』でも紹介されていましたね。

 これは、農業用暗渠に限った話ではなく衛生下水道でも同じことです。
 下水道が整備されたことで札幌の各地の『メム』が枯れたと言われています。

 まぁ、水はけが良くなる訳ですから都市としては寧ろ好都合でしょう。
 そうして、植物園の耳にあったメムや小川も姿を消すこととなったのです。

昭和25年4月
 株式会社神原商事が札幌市中央区北2条西9丁目に移転してきます。
 神原商事の公式サイトから社歴を調べると、
 昭和9年4月に樺太、敷香町にて三幸商会として創業し、
 昭和21年4月の終戦後に北海道、小樽にて営業開始したものが、
 この時期に『植物園の耳』に移って来ます。

 以降、平成2年まで北2条西9丁目7番地に本店を置きますが、
 登記に関してはこの時点では成されていません。
 当初は借地だったのか、あるいは占有だったのかは判然としません。

昭和26年1月
 札幌市北2条西10丁目4番地について、久島久義氏が所有権保存登記。
 久島久義氏の登記住所は北2条10丁目1番地と、元々氏の土地です。
 1番地、2番地1昭和23年久原久氏という方に売却されています。
 どうも、『久原』氏と『久島』氏は同一人物なのでは?という気もします。
 この後10年も経たず、どちらの土地も売却されてしまいますから、
 どのような方だったのか、現在のところ調べる目途は立っていません。

 4番地は一番奥の細い土地ですが、何の目的で登記されたのかと言えば、
 植物園との間の空白地であったから、という事情が想定されます。

 戦後の混乱期には色々なことがあったのでしょう。

昭和28年6月
 今回の参考文献として重要な伝記『宮部金吾』が発行されました。

昭和33年12月
 北2条西9丁目1番地社団法人北海道乗用自動車協会により登記されます。
 これは『登録地成』といって、国からの払い下げを受けたものです。
 どんな協会だったのか名前からは想像出来ませんが実はタクシーの協会です。
  北海道ハイヤー協会
   http://hokuhakyo.or.jp/about/

昭和43年
 植物園の北側の敷地が道路拡張の為に道路に一部提供されます。
 『植物園の耳』とは直接関係ありませんが、一応記載しておきましょう。

昭和49年8月
 株式会社神原商事が札幌市位置指定道路第5113号を申請します。
 神原商事の事務所は公道に面していませんでしたから、
 これを改善する為に位置指定道路を申請したのでしょう。

 もともと、北二条通に面した敷地だけが合法的に建物の建築が可能でしたが、
 これによって、植物園の耳の奥の方も開発が可能となりました。

昭和49年
 植物園の全周に金属フェンスが完成し、それまでの木柵から切り替わります。
 植物園と『植物園の耳』の間の境界がはっきりさせられた訳です。

北海道開拓から約45年前までの100年に渡る歴史を追いました。
一つ一つの事柄が濃厚であり、また過去の出来事を調べるには限界があります。
おそらく、長くこういった活動をしていたり、不動産業に携わることで、
これらの事情をより深く知る機会も出てくるのだろうとは考えていますが、
この、ごくごく小さなエリアであってもこのように濃厚な歴史があるのだという事が、不動産調査の醍醐味です。

ここからさらに45年、昭和末期から平成後期までの歴史を経ている訳ですが、ちょっと、これ以降の事情については個人情報などの兼ね合いもあって、あまり詳細な情報をなかなかインターネットに公開してゆくことは憚られます。

一方で、ここからの事情と言うのも非常に面白い処がありますから、まぁ、差支えのない範囲で今後も『植物園の耳』について紹介してゆこうと考えています。

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生

今回は『植物園の耳』で二番目の民有地所有者である林文次郎氏の経歴について、紹介してゆきましょう。
 片っ端から資料を漁っていますから、同姓同名の林文次郎氏の情報も混在している可能性はありますが、精査の結果、おそらくは整合性のある情報であると考えています。

文久3年12月11日
 熊本城下 肥後藩士 林傳蔵の次男に生まれる。
 肥後の牧千馬太(まき・ちまた?)のもとで漢学を学ぶ。
 のちに大阪へ出て太田北山の元で漢籍(漢文の書籍)を学ぶ。
 明治維新の中心閥『薩長土肥』の『肥』は肥前=佐賀県であって、肥後=熊本県ではありません。
 明治維新のメインストリームにいた訳ではないという事ですね。
 おそらくは大したコネがある訳でもない下級武士であったものと思われます。

明治17年3月
 21歳札幌県准班任官御用係を命じられ渡道。
 ・・・かなり勉学の出来る方であったようですが、やはり次男です。
 当時の制度では家を継ぐ事は叶いませんから、北海道で働くことになったのでしょう。

 札幌県というのは、明治15年の開拓使廃止後わずか4年間のみ存在していた行政区分です。
 『三県一局時代』と言い、開拓使廃止直前の『官有物払い下げ事件』とともに、このころの北海道の行政の混乱の原因でもあるようです。

明治19年2月
 23歳。札幌県廃止、北海道庁が置かれる。秘書課勤務。
 そしてついに登場する北海道庁ですが、これは当時の内務省直轄の組織です。
 つまり、現在の北海道庁のほか、国(国土交通省)の機関である北海道開発局を兼ねたような存在であった、と言えるでしょう。
 林文次郎氏も札幌県から北海道庁へそのままスライドし、所属も御用係から秘書課へ変わります。
 漢学が達者な方であったという事ですから、総務・庶務・書記のようなことをやっていたのではないでしょうか。
 
明治21年4月
 25歳、当別神社『鮎田如牛の碑』を林文次郎氏が揮毫(碑の元となる書を執筆すること。)する。
 ここで唐突に当別に話が飛びました。
 当別神社にあるこの碑は、明治5年に仙台藩岩出山支藩 藩主の伊達邦直から命じられて寺子屋『鮎田塾』を開いた家老:鮎田如牛氏の功績を称える碑です。
 明治5年に開いた塾の石碑を、たった16年後の明治21年に建てるという事に違和感はありますが、明治12年に当別学校が建築され、鮎田塾はその役割を終えたから、という事でしょう。

 この碑をどういう経緯があって林文次郎氏が揮毫する事になったのか、それは分かりませんが、私が調べた限りにおいて、林文次郎氏と当別や伊達藩に直接的なつながりはありません。

 同姓同名の林文次郎氏が同時期に北海道にいた、という可能性もなくはありませんが、石碑の書体を見るに、同一人物であると思われます。
 (私は拙いながらも書の心得があるので、おそらく確かだと思われます。)

 北海道に渡ってきて4年足らず、まだ25歳の林文次郎氏に文人としての名声があるとも思えませんから、おそらくは北海道庁の業務として、またはどこぞの名士から漢文と書に秀でていることから依頼を受け、この碑を揮毫したのではないか、と考えています。

明治34年2月
 38歳、北2条西10丁目1番を星野和太郎氏から熊本県塩屋町16番地の林文次郎へ売却。
 札幌農学校を卒業した星野和太郎氏は、以前紹介した通り、植物園の祖・宮部金吾氏の最初の下宿生です。
 この土地は明治32年当時の地図では原野の形を取っています。
 星野和太郎氏が養蚕関係者であったことや、植物園の南側の敷地が養蚕場だったことを勘案するに、おそらくは『桑園』の地名の由来通り、養蚕をする為の桑畑として購入したのでしょう。

明治35年3月
 39歳、内務部地方課長で北海道庁を退職する。
 ・・・と、ここで林文次郎氏は北海道庁を退職します。
 前年にかなり大きな土地を個人名義で取得しておきながら役人をやっていた、というのですから現在の公務員副業禁止規定などとは、大きく価値観が異なる事が分かりますね。
 もしかしたら、土地の取得は林文次郎氏なりの『脱サラ』に向けた動きだったのかもしれませんね。

明治35年7月 
 39歳三等郵便局長を拝命する。
 『三等郵便局長』というのはいわゆる『特定郵便局長』のことです。
 『特定郵便局長』と言えば時の小泉純一郎政権による郵政改革によって悪役として担ぎ上げられ、不当な既得権益者としてやり玉に挙がった人々ですね。
 元々は明治時代に郵便制度を始めるにあたって、地元の地主や名士に自己負担で郵便局用の土地建物を提供させ、全国に普及を図ったというものです。
 これが子々孫々に受け継がれ、郵便局の賃料が支払われたり、特定郵便局長の立場が親族のみに引き継がれているというのがフェアではない、という事で郵政民営化によって廃止されたという訳です。
 とはいえ、前述の通り当初の三等郵便局は自前で庁舎を用意していた訳ですから、殆ど名誉のための職であったのだと言えます。

 大正12年発行の人名録の時点でも郵便局長職は継続しているようです。

明治38年頃
 42歳頃、三十七・八年事件(日露戦争)の功績により一時金を賜る
 ・・・うーん、もう42歳にもなるのに出兵した訳でもないでしょうし、物資を供出したとか、寄付金を支出したとか、そういう事なのではないかと思います。
 寄付金に対して一時金を賜る、というのもおかしな話ですから、軍事用に物資や牛馬を供出したという事でしょうか。
 旧日本軍では、牛乳を奨励していた、という記録もありますから、出兵用の物資として牛乳や食肉を提供した、というのが最も自然なストーリーかもしれません。

明治40年前後
 山鼻町番外地に居を定め、乳牛を繁殖させる。
 『脱サラ』した林文次郎氏は、乳牛の繁殖に力を入れ始めます。
 起業した時期は資料によってばらつきがありますが、個人事業とはそういうものです。
 明治28年設立の『札幌牛乳搾取業組合』に所属していた事が北海道大学図書館に所蔵の写真で分かっており、この組合は現在の『サツラク農業協同組合』『雪印メグミルク株式会社』の前身であり、最も古い酪農専門の広域農業組合であるとのことです。
 この組合の興りはサッポロビールからビール粕を牛の飼料として共同購入することにあったとのことです。

 また、『札幌産牛馬組合』の評議員・議員も務めたとの記録が残っていますが、こちらの組合は、その後の詳細が判然としません。

 ともかく、乳牛を繁殖させ、牛乳の生産に力を入れていたという事です。

明治40年
 44歳。正八位に叙せられる。
 『正八位』とは、明治の太政官制における階位の一つです。
 最下位が従八位で、その一つ上ですから、まー、そこそこ実績のある中級官吏のための位階と言ったところでしょうか。
 従八位とする文献もありますが、位階というのは徐々に上がっていくものですから、この場では位階の高い正八位としておきます。

明治40年5月
 44歳、北一条西郵便局または北一条郵便局 三等郵便局長(大正4年も継続)
 また、面倒臭い書き方をしましたが、これも文献によって齟齬があります。
 しかも、『北一条郵便局』と『北一条西郵便局』はどちらも実在しているものですから、なおタチが悪いのです。
 おそらくは、『植物園の耳』の南側に現在も存在する『北一条郵便局』が正解かと思われます。

明治42年
 46歳勲八等・瑞宝章を授けられる。
 これも誤解を恐れずに言えば中下級官吏のための勲章であると言えるでしょう。
 旭川市にある北鎮記念館で同じ勲八等瑞宝章が展示されていましたから、写真を紹介しましょう。


明治45年1月
 49歳、桑園碑、林文次郎氏が揮毫し建立。
 『桑園碑』とは、北1条西16丁目、元々は開拓使の桑園事務所のあった場所に建てられた碑です。

 この場所は現在の知事公館にあたり、桑園碑は現存しています。

 北1条西15丁目に住所があり、北2条西10丁目に大きな土地を所有する実業家であった林文次郎氏は、地元の名士であったのだろうと思われます。

 当別神社の鮎田如牛の碑とは異なり壺川(こせん)という雅号を使っています。人間、脱サラすると自由になりますね。

大正6年4月
 54歳、林文次郎氏、札幌区から北2条西10丁目2番を取得。
 星野和太郎氏から購入した『1番』は道路沿いの土地ですが、この『2番』については川に沿って『1番』の奥にある不整形の土地ですし、明治42年時点には植物園の外周に柵が巡らされていますから、札幌区にとっては他に使い道のない土地であったのでしょう。

昭和4年11月
 66歳、林文次郎氏から林リカ氏へ所有権移転
 昭和4年は現在の民法ではなく、旧民法の時代ですから、家督相続制度によって相続がされます。
 従って、林家には男子がいなかったという事になりますが、元・江別市議会議員の故『林かづき』氏は、林文次郎氏の曾孫を名乗っています。

  江別市ホルスタインショウ – 江別から笑顔を発信! 林かづきの活動日記
   http://blog.goo.ne.jp/hayashi-kazuki/e/5589125d1dede16e59fc079444da5159

と、いう事は子供がいなかった訳ではないことが分かり、リカ氏は妻ではなく、長女であった、という事が分かります。
 (家督相続制度では、男子が優先。妻と女子であれば、女子が優先される為。養子であっても子が優先です。)

林文次郎氏の住所について
 林文次郎氏の住所が一番最初に出てくるのは、明治34年の土地購入時の『熊本県塩屋町16番地』です。
 これはおそらく現在の熊本県八代市塩屋町の事で、松江城の城下町に当たります。
 『札幌之人』(大正4年)におけるプロフィールでは『熊本城下』とされていますが、熊本城からは現代の高速道路を使っても一時間以上かかる距離にありますから、おそらくは人名録筆者の誤解か、本人が見栄を張ったのかのどちらかでしょう。

 塩屋町というのは本籍地だと思うのですが、札幌に移って17年も移していない、というのには若干違和感があります。
 林文次郎氏は当時38歳、結婚していない為に戸籍が北海道に移っていないとしたら、かなりの晩婚という事になります。

 人名録に記載された住所としては『札幌之人』(大正4年)で『山鼻町番外地』『北海道人名辞書』(大正12年)では『南3条西13丁目』とされています。
 一方で土地台帳においては、明治43年大正6年のそれぞれの時点で『北1条西15丁目1番地』に住所を有していたようです。
 林リカ氏も昭和4年昭和6年の段階で同じ住所にいたようです。

 大正11年発行の『札幌市制紀念人名案内図』では、南3西13にも北1西15にも『林』という表札は見当たりません。

 事務所のような形でいくつも住所を持っていてもなんら不自然ではありませんが、当時の住宅地図の精度の問題もあるにせよ、林文次郎氏ほどの資産家の邸宅が記録されていない、というのは不思議ですね。

 今回は『植物園の耳』のキーパーソン、林文次郎氏の人生について紹介をしました。
 2つのナゾを解き明かし、シリーズ『植物園の耳』の大目標はすでに果たしました。しかし、ここに至るまでに収集した膨大な資料は、まだまだ使い切れていません。
 当然、戦後から平成に至る変遷についても紹介していませんし、宮部金吾氏が植物園を作り上げた経緯についても説明していません。

 しかし、新年恒例記事としてのシリーズ『植物園の耳』は今回をもって一旦の区切りとさせて頂くこととしました。
 年が明け、業務が立て込んでおり、この分量の記事を毎日連載することは物理的に不可能である為です。
 当面の間は、過去の記事の再録をさせて頂き、シリーズ『植物園の耳』について、以降は不定期の掲載とさせて頂きますこと、何卒ご了承下さい。

【参考文献】

『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?

さて、シリーズ『植物園の耳』も第4回になりました。
前回は2つのナゾのうち1つ目のナゾが一応の解決を見ました。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
メム(湧水)による川の流れから、このような歪な形状で分断された、というのがその一応の答えです。
しかし、それは完全な回答ではありません。

『植物園の耳』以外にも北西角、西、東など、川によって分断されている場所はあるのですから、『この形になった理由』は川であっても、植物園の敷地の一部とならず、民有地として取り残された理由は説明出来ない訳です。

そのナゾは2つ目のナゾとともに、今回解き明かしてゆきこととしましょう。
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

『植物園の耳』について正しく理解するに至るには、非常に長い調査機関を要しました。
と、言うのも法務局で登記を見ても、色々な郷土史を読んでも、北海道大学の大学史を読んでも、『植物園の耳』がこのような形で残されていることの理由は書かれていなかったからです。

私は様々なアプローチから『植物園の耳』の誕生の経緯を探って来ましたが、その真相に至る為に、2年近くの月日を費やしました。
結論だけをポンと示す、というのは記事的な面白みにも欠けますから、各アプローチごとに判明したことを示したいと思います。

◇フィールドワーク
 不動産の調査においては、フィールドワーク=現地調査が最も重要です。
 『『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-』で紹介したように現地を確認して疑問点を洗い出し、また関連する場所へも調査へ行きます。
 植物園の園内についても、勿論確認をしています。
 まずは植物園の案内図で非公開となっている『苗圃』を確認したいと考えました。

 何故なら、ここは宮部金吾氏の住居跡地なのです。


 現在は植物の苗を育てるための倉庫やビニールハウスがあるだけで、特に何かがある、という訳ではないようです。

 航空写真を見ても、特に利用されている形跡は見えません。

 植物園内と植物園の耳以外には、偕楽園跡地北海道大学知事公館北海道開拓の村宮部記念緑地、そして一番遠い場所では当別神社まで足を運んでいます。
 本筋に絡む情報は出てきませんでしたが、色々と面白い事実もありましたので、のちのち登場してくるかと思います。

◇地図的アプローチ
 前回『『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷』で紹介した通り、物件調査にあたっては、詳細な資料を確認する前に地図や航空写真からのアプローチを行います。
 登記を調べるより全体のアウトラインを掴むことが出来、理解を助ける為です。
 前回は明治~大正の地図を紹介していますが、勿論昭和から現在に至るまでの集められる限りの住宅地図や航空写真についても収集しています。

 しかし、『植物園の耳』の状況は明治期には概ね固まっているため、戦後の事情をあれこれと書いていくのは蛇足かと考え、ひとまずは明治・昭和までで抑えておきましょう。

 ただ、せっかく集めた資料ですから『2つのナゾ』を明らかにした後に、気まぐれに記事を書いてゆこうかと考えています。

◇登記的アプローチ
 さて、ここからが今回初出の話題です。
 不動産の権利関係を調査するにあたっては、法務局で『登記』を調べるのが一番です。
 法務局の管轄や調べ方は『A-3 道の所有者を知りたいとき』で解説しています。
 まずは『植物園の耳』の現在の地番図を見てみましょう。

 このような区画になっています。
 土地の地番というものは、分筆をするごとに『親地番』のあとに枝番が付いていきます。

 例えば『1番』の土地を分筆した場合には、元の土地が『1番1』それ以外の土地が『1番2』『1番3』という風に枝番が付いて行きますが、仮にこの段階で『1番2』を分筆した場合には『1番2-2』とはならずに、同じ区画の『1番』の中で重複がなく、最も新しい番号、すなわち『1番4』という風に附番されるルールになっています。
 この場合の『1番』が親地番という訳です。

 つまり、『○番』の○の部分を見れば、元々の形状がおおよそ分かるという事です。

 この考え方に従って、過去の地番図を復元してみましょう。

 ただし、この考え方はあくまでもおおよその目安であって、正確なところは分かりません。
 と、言うのも、2つ以上の土地を合筆をした場合には、若い地番に統一される為、元々の親地番とは違ってしまう事が出てくるのです。
 分筆・合筆を繰り返しているとこの辺りが非常にファジーになってきますし、これを調査するには分筆・合筆ごとの地積測量図を取得せねばならず、莫大な調査費用がかかってしまいます。
 また、地積測量図自体が昭和35年の不動産登記法によって添付が義務付けられた書面ですから、戦前の分筆・合筆の履歴については追う事が出来ないのです。

 しかし、これでおおよその形状は掴むことが出来ました。
 次に、明治~戦前の登記記録から所有者を調べてみましょう。

北2条西10丁目1番・・・明治28年3月 星野和太郎氏 取得。
             明治34年2月 林文次郎氏 星野氏より購入。
北2条西10丁目2番・・・大正3年6月 内務省 所有権保存。
             大正5年11月 札幌区へ所有権移転。
            大正6年4月 林文次郎氏へ所有権移転。
北2条西10丁目3番・・・大正6年2月 内務省 所有権保存。
北2条西10丁目4番・・・昭和26年1月 久島久義氏 所有権保存。
北2条西9丁目1番・・・昭和33年2月 社団法人北海道乗用自動車協会 所有権保存

 ・・・各地番の最初の記載は、一番最初に登記がされた年月と所有者としています。
 つまり、それまでは『登記のない土地』であった訳で、登記のない土地というのはすなわち国有地です。
 明治のうちに民有地となっていたのは、唯一、北2条西10丁目1番だけであったという事ですね。
 そして、大正~昭和にかけて徐々に民有地が広がっていった、という訳ですね。

 明治26年に最初に『植物園の耳』を取得した星野和太郎氏、
 そして 明治34年に星野和太郎氏からこの土地を購入し、
 更に大正6年には札幌区から2番地を買い増した林文次郎氏、
 この2人の人物がおそらくはキーマンなのだ、という事が分かりました。

 しかし、登記では権利関係しか分かりません。
 何故、どのような経緯があって『植物園の耳』が出来たのか、それは登記では分かりません。
 また、この2人がどのような人物であるのかも、登記からは知る事が出来ません。

◇郷土史的アプローチ
 平成28年頃から、私は不動産の調査に郷土史を用いるようになりました。
 郷土史というものは多くは地元の有志が作っているもので、伝聞情報も多い為、必ずしも正確ではありませんが、過去の経緯について知ることも不動産を知るにあたっては重要な事です。
 しかし、以前も触れましたが、植物園の歴史について詳しい書籍は殆どなく、その沿革だけが記されているものがほとんどですから、いわんや『植物園の耳』についてなど、紹介されている訳がありません。

 北海道大学の大学史である『北大百年史』や地域の郷土史『桑園誌』を紐解いても、有効な記載はありませんでした。

 一方で、登記から調べた星野和太郎氏と林文次郎氏の2人についてはどうでしょうか。
 明治・大正期の歴史を調べるにあたっては『人名録』が非常に役に立ちます。
 札幌では『北海道人名辞書』『札幌之人』といった人名録やそれを現代文で編纂しなおした『新聞と人名録にみる明治の札幌』などの書籍があります。
 それらの『人名録』で2人の名前に当たってみましょう。
 また、インターネットでも検索を掛けてみることにします。

 星野和太郎氏に関する記述は、郷土史や人名録の中で見つけることは出来ませんでした。
 また、インターネット検索においても、星野『長』太郎という名前の検索誤りと認識されることが多く、有効な記事としては星野『長』太郎のWikipediaにその甥として記載されています。

 星野長太郎 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/星野長太郎

 しかし、この段階ではそれ以上に星野和太郎に関する記録を見つけることは出来ませんでした。

 一方の林文次郎氏はどうかと言えば、彼はかなりの名士だったようで、様々な人名録にその名前が記されています。
 林文次郎氏は北海道庁の出身で、その後独立して郵便局長を拝命し、牧畜業を営んだ、という人です。

 また、『桑園誌』には、知事公館にある『桑園碑』の文字を揮毫したのは林文次郎氏であるとも紹介されています。


 桑園にゆかりがある方、という事ですから、まず同一人物とみて間違いないでしょう。

 インターネット上では、林文次郎氏の孫だという元江別市議会議員の方のブログや、林文次郎氏の写真が北海道大学にあることなどが分かりました。

 しかし、調べられたのはそこまでで、『植物園の耳』のナゾに迫るには至りませんでした。
 1年以上の調査と郷土史や各種の資料をもってしても、『植物園の耳』のナゾは奥深く、解明するに至らなかったのです。

◇伝記的アプローチ
 私は調査を進めるにつれ、現地を見て、地図を読み、登記を調べ、郷土史を漁って、それでも分からないという事は、もう調べようがないのではないか、と諦め始めていました。

 しかし、ふとしたきっかけで一つ盲点があったことに気付くのです。

 大正11年の地図に名前が記載されており、植物園の創始者である宮部金吾氏の存在です。
 宮部金吾氏は開園前から退官の昭和2年までの長年に渡って植物園の維持管理に携わって来た方です。
 そして私は宮部金吾氏について調べることが、植物園について調べることなのではないか、という考えに至ります。
 伝記『伝記叢書232 宮部金吾』を読み込むごとに、『植物園の耳』に関する謎が氷解していったのです。

 これは『伝記叢書232 宮部金吾』に掲載された植物園創設時代の設計図です。
 そして本文には、植物園が現在の姿になるまでの経緯について紹介されています。

 なんと、当初植物園の敷地は図中『Ⅰ』の博物館周辺の範囲だけだったというのです。
 『Ⅱ』以降の土地は、後から移管を受けたり、他の土地と交換して手に入れた土地だったというのです。
 植物園がおおよそ現在の範囲になったのは、明治23年の事だとされています。
 ただし、『植物園の耳』である『Ⅸ』については伝記の中で記載がありません。

 そして、伝記の中で更に驚くべき事実が判明しました。
 なんと星野和太郎氏は、宮部金吾氏の弟子だったというのです。

 伝記の中では非常にあっさりとした書き方ですが、宮部金吾氏が札幌農学校の生徒を植物園官舎の自宅に住まわせていたという事が紹介されています。
 その中の最初の生徒が明治16年~明治19年に寄宿していた星野和太郎氏だったというのです。
 星野和太郎は札幌農学校の生徒であったという事が分かりました。

 次にインターネットで『星野和太郎 札幌』『星野和太郎 北海道』『星野和太郎 札幌農学校』など、片っ端から調べてみましょう。
 国会図書館のデジタルライブラリによると、著作に『北海道寺院沿革誌』『札幌農学校同窓会事業報告』『北海道蚕業沿革略』があることが分かりました。
 そしてそれらの著作の奥付には『植物園の耳』の住所が記載されているのです。

 また、『北海道蚕業沿革略』という著作があることを考えるとWikipediaに記事のある群馬の養蚕家、星野太郎氏との親族関係についても濃厚なのではないかと思われます。
 星野長太郎氏の甥の星野和太郎氏と同一人物だとするとWikipediaの参考文献となっている『星野家沿革』も著作ということになります。

◇知りうる情報からの推論
 ここまで収集してきた情報から、私なりの推論を立てました。
 必ずしも真実であるとは言えませんが、かなり信頼性は高いのではないかと考えています。

 星野和太郎氏は群馬の養蚕家、星野長太郎氏の弟、星野周次郎の長男として生まれ、明治16年に札幌農学校に入学します。
 北海道大学北方関係資料の写真『札幌農学校予科生徒たち(6人) 星野和太郎(予科最上級)を含む。』です。

 農学士として研究を続けるとともに明治24年には北2条西10丁目1番地の『植物園の耳』を取得し、養蚕の研究のために桑畑を運営します。
 明治8年の地図には『勧業課桑園』と記載されていましたから、十分ではないにせよ、元々桑畑はあったのではないでしょうか。
 明治27年『北海道寺院沿革誌』明治28年『札幌農学校同窓会事業報告』を著しつつ養蚕を続けたのでしょう。

 一方の宮部金吾氏は明治18年から植物園の敷地を拡げてゆきますが、弟子に土地を売ってくれ、とは言えなかったのか、あるいは交渉が決裂したのか、結局のところ『植物園の耳』は植物園の一部になる事なく、民有地として残されてゆきます。

 その後、おそらくは郷里に帰る必要があり、明治34年に林文次郎氏に対し、『植物園の耳』を売却したのでしょう。
 大正5年に、生家の星野家に関する著作をしていることからも北海道を去ったことが推察されます。

 ・・・と思っていたのですが、実は翌明治35年に開設された北一条郵便局の初代局長の名前に星野和太郎氏の名前があります。
 その後、5年の人気を務めた後、2代目の郵便局長となったのが林文次郎氏です。
 つまり、星野和太郎氏は明治40年頃までは札幌にいたという事ですね。
 また、植物園の耳の敷地だけでなく郵便局長の地位も引き継いだという事は、星野和太郎氏と林文次郎氏の関係というのは、非常に深いものがあったのだろうという事が分かります。

 その後、林文次郎氏は、川の流路であった2番地についても札幌区から払い下げを受け、この地区一帯に住宅地を形成してゆきます。

 そのようにして出来上がったのが『植物園の耳』なのです。

 次回は、林文次郎氏の人生と足跡について、紹介してゆきましょう。

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日

『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷

『植物園の耳』第3回ですが、1回目で提示した『植物園の耳のナゾ』を振り返ってみましょう。
①『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
②『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?

さて、これまでに南平岸、澄川、桑園、北10条西1丁目と、
様々なエリアの歴史を紹介してきましたが、
その手法として、古地図や航空写真を分析してゆく、という手法を取っていました。

これからも勿論そういった手法を活用してはゆくのですが、
正直なところ、この手法は必ずしも万能ではないと考えています。

地図に残っているのは道や建物の形状であって、それ以外の事柄・・・
例えば詳細な経緯や土地の権利関係などについては、分かりません。
地図で分かるのはあくまでマクロかつ表層的な事象であって、
詳細な内容や経緯、それに関連した人々を知ることは出来ません。

今回は例によって『植物園の耳』について古地図から追ってゆきますが、この方法では、『2つのナゾ』のうち、片方しか解決することが出来ません。
しかも、不十分な形で、です。

それでは、『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
古地図から追ってゆきましょう。

札幌の中心部に関しては明治期から開拓が始まっていた為、
明治期からの地図が入手可能である、というのは大きなメリットです。
中央部以外では、正確な地図は大正5年の陸地測量部地形図を待たねばなりません。

明治2年開拓使が設置された当時において、札幌は鬱蒼とした原生林であり、都市の形状はまったくといっていいほどありませんでした。

そこから急ピッチで都市開発を実施していく訳ですが、
責任者:島義勇判官の更迭などのゴタゴタがあって、
開拓使の本部である『開拓使本庁舎』が着工したのは明治5年
竣工はその翌年の明治6年を待たねばなりません。

北海道開拓の村にある開拓使本庁舎のレプリカです。

つまり、明治6年になってようやく開拓使の体裁が整ったとも言え、
この時期以降、札幌市中心部の全体像を表す地図が多く登場していくようになります。

こちらは、明治6年に開拓使が発行した『北海道札幌市街図』です。
本庁(旧字体で『本廰』)敷地は現在の北海道庁とほぼ同位置にありますから、北海道大学植物園は、川の流れがあり、開拓がされていない事が分かります。

『勧業課桑園』という文字も見えますね。
『桑園』の歴史を紹介した際にも記載しましたが、
道庁の西側から西20丁目近辺までは養蚕の為の桑畑にしよう、という計画があったのです。

同じく、明治6年『北海道札幌之図』です。
北海道大学図書館の北方資料室所蔵の資料で発行者は開拓使測量課と言われています。
測量課と地理課で、同じ年に結構内容の違う地図を作っているのは、面白いですね。
開拓使本庁の西側は、エアスポットのように空白となっていますね。

ブラタモリで紹介されたシティハウス植物園の湾曲の元となった川の流れも記載されています。

明治8年『札幌市街図』でも同様に、道庁の西側は川以外の記載はありません。
この地図の記載のとおり、道庁の正門は現在の赤レンガ庁舎と同じように、東側にあった為、西側にある植物園の敷地は道庁の『裏側』だったのです。

次の地図資料は明治24年『札幌市街之図』まで飛びます。
明治15年には開拓使の廃止やら、そこから始まる三県一局時代があり、明治19年には三県一局が廃止されて北海道庁が設置されたりと、北海道は激変期を迎えている訳ですが、その間の変遷は地図に残っていません。
もしかしたら、行政の混乱が地図の発行を滞らせたのかもしれませんね。

明治21年には現存する赤レンガ庁舎が完成し、道庁のエリアも狭まっています。
さて、この地図で初めて植物園の全体像が見えてきました。
ここで一つ、第一のナゾが解かれました。
『植物園の耳』は何故このような形状で取り残されたのか?
札幌市中心部の各所にあったメム(湧水)による小川の流れが、
碁盤の目の道路と相まって、このような『耳』を形成したのです。

ただし、『何故』という意味では植物園には他にも小川が流れている訳で、小川が流れているから『このような形状で取り残された』というのは、少し短絡的すぎる考え方なのではないか、とも思います。

だって、『川があったから民有地として取り残された』のならば、
植物園の敷地内には他にも川がある訳で、『何故』という理由にはなりません。

しかし、ひとまずこれが一つの回答という事でよいでしょう。

川の流れが詳細に記されているほか、中心には『博物館』なる文字が記されています。

同じ位置に現存する博物館本館がそれです。

この建物は明治15年開拓使最後の年に開拓使によって建築されました。
その後、明治17年農務省北海道事業管理局から札幌農学校へ移管され、
そこから植物園用地として整備され始めてゆくことになります。

明治32年『札幌市内明細案内図』です。
現在と異なり、街中を川が流れていた様子がよく分かりますね。
植物園の南東側に建物が建っているのが分かります。

また、南側の区画にはのちの札幌市立病院である『札幌病院』が、明治24年に設置されました。
札幌病院と植物園の間では因縁めいたやり取りもありますが、ここではまだ紹介しません。

明治40年『最新札幌市街図』ですが、南東側の建物が温室であると分かりましたね。


明治42年『最新札幌市街図』ですが、前の地図と同じ出版社の2年後の地図ですから、あまり変わり映えはありません。


ここで登場するのが大日本帝国陸地測量部・・・現在の国土地理院が作成した大正5年2万5千分の1地形図です。
正確な測量に基づく地図ですから、植物園東側の道路の歪曲も記録されています。

ここで初めて『植物園の耳』に建物が建ち始めているのが分かります。


最後に示すのは大正末期、大正11年『札幌市制記念人名案内図』です。
これが、民間発行の地図なのですが、非常に面白い。
現在の札幌市中央区・北区の中央部における人名記載の地図です。

大正5年地形図で建物が建っていたものについて、この地図では誰が住んでいたのか、という事が記録されています。
東側から読んで見ると佐々木・松本・深宮店・斎藤・安多と書かれています。
この人々ですが、今後出てくることはありません。

そして、さらに東側には『札幌看護婦会』という建物があります。
おそらくは札幌病院に関連する施設なのでしょうが、
植物園のこのエリアについては、この後の歴史でも不思議と札幌病院に関連する利用がされています。

植物園の西側に赤いマーキングを付けた部分には『宮部金吾』と書かれています。
宮部金吾と言えば、札幌農学校の二期生で新渡戸稲造や内村鑑三と同期生です。
全国区の有名人ではありませんが、植物学の権威であり、植物園の初代園長です。

宮部金吾氏の住居と言えば、北6条西13丁目の宮部記念緑地が有名です。
これは晩年の住居跡を公園としたものですが、実は、現在の宮部記念緑地に居を構える以前、植物園の構内に長らく住まっていたのです。

そして、『植物園の耳』のもう一つのナゾを追う為には、
植物園の初代園長である宮部金吾氏を追う必要があったのです。

次回、様々な資料から『植物園の耳』はどうやって民有地となって現在に至るのか?を明らかにしてゆきます。

『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-

札幌は碁盤の目の街並みである、という事は良く言われていますが、
主に河川や用水の痕跡である斜め通りや地形に合わせた歪曲などの例外があるほか、
碁盤の目を複数結合したエリアというものがあります。
北海道大学北海道庁知事公館、そして『植物園』などがあります。

そして植物園には『植物園の耳』と私が称する一帯の民有地があります。

民有地ということは自由に取引がされている訳ですが、現在どのような内容になっているのでしょうか。

地図を見てみましょう。


以上。

・・・という訳にもいかんでしょうね。

これでは記事になりませんから、一つ一つの施設を紹介してゆきましょう。

◇位置指定道路 第5113号
 前回紹介した通り『植物園の耳』には、位置指定道路が通っています。
 それが昭和49年に指定された位置指定道路 第5113号です。

 それまでは非常に雑然としていた『植物園の耳』が整理され、
  現在も新たな建物が建てられているのは、この道路の功績です。
 道に囲まれた中州部分には『Wall/Wall annex』の駐車場があります。

◇植物園グランドハイツ
 昭和51年に竹中工務店によって施工・分譲された地上7階建のマンションです。
 『植物園の耳』に現存する共同住宅としては最古の建物であり、
 斜めにオーバーハングした壁面は黒川紀章氏の建築を思わせます。
 まさに『植物園の耳』を象徴する建物と言っていいでしょう。

 現地調査を行なった平成28年当時は大規模修繕の最中でした。

 中古物件情報を見ていると分譲マンションとしては珍しく、居住用だけでなく事務所としての利用が認められているようです。
 『旧耐震基準』の建物の為、それなりに手頃な価格で流通しています。

 南側がこうなっていると、下層階の採光がどうなっているのか、ちょっと心配です。

◇Wall(ウォール)
 平成24年築、14階建の建物です。
 6階までの低層階がオフィス、7階からの高層階が賃貸マンションのようです。

 貸スペースなんかもやっているようです。
 ホームページによるとWallとWall annexは株式会社シティーと、株式会社City&Wallという会社が運営しているとのことです。

 Wall & Wall annex
  http://city-wall.jp/

 商業登記などを見るに、株式会社シティー昭和56年に設立された有限会社村上建築設計室が前身の法人で、株式会社村上オフィスを経て平成14年に現在の商号になっています。
 また、株式会社City&Wall昭和63年に設立し、紙媒体の登記簿は当初の商号は不明ですが、株式会社ウオールという商号から平成16年に変更されています。
 設立者は建築士の村上 憲一氏ですが、既に両社の代表を辞任しており、インターネット上では断片的な情報しか拾えませんが、一級建築士事務所である株式会社アトリエジーセブンを主宰していたり、関西国際大学のシニア学生をやったり、諸々の特許を取得したりと、活動は多岐に渡るようです。

◇Wall annex(ウォールアネックス)
 7階建で、すべての階層がオフィスになっているようです。
 正確な築年数はインターネット検索では出てきませんし、
 登記情報を調べてもいませんから、分かりません。

 左側が『ウォールアネックス』です。

 どうも、平成11年頃には既にある建物のようですが、
 アネックス(別館)の方が先に建っている、というのは不思議な気がします。
 会社の履歴なども考えると、現在『ウォール』が建っている場所に旧『ウォール』が建っていたのかな、という気もします。
 建物の登記や住宅地図を調べれば分かることですが、あえて調べていません。
 だって、平成になってからの話なんか、別に金さえあれば誰にだって簡単に調べられる訳ですから。

◇インファス(INFUS)
 平成13年築の8階建のいわゆるリーガルビルです。

 『いわゆるリーガルビル』というのは、法曹ビルとも呼ばれますが、
 法曹関係の有資格者事務所が多数入居しています。

 弁護士、公認会計士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーと文系法律系資格の見本市ですね。
 5~7階の3フロアを使用している村松 弘康弁護士事務所は、所属弁護士数も圧巻の多人数ですね。
 法科大学院(ロースクール)の設置によって弁護士の増え方というのは雨後の竹の子とも言っていいレベルですが、それでも15人超の弁護士事務所は札幌では片手で数えられるはずですから、市内最大手の事務所の一つ、と言えるでしょう。
 村松 弘康弁護士は昭和21年陸別町生まれ、面識はありませんが平成30年で72歳になられる方です。

 案内板では7階までの表記ですが、建物はどうみても8階建てです。
 建物所有者のオーナーズルームでしょうかね。
 (村松弁護士が賃貸なのか、建物のオーナーなのかは登記を調査していません。)


◇コンフォリア札幌植物園

  平成18年築、15階建ての高級賃貸マンションです。
 『東急不動産の都市型賃貸』として豪華なホームページが用意されています。

 【公式】コンフォリア札幌植物園|西11丁目駅の高級賃貸マンション
  http://www.comforia.jp/resi/sapporoshokubutuen/index.html

公式サイトによると追い焚機能、ミストサウナ、宅配ボックス、食器洗浄機、シューズインクローゼットなど設備の充実した2LDK~3LDKのマンションで、築10年を経過していますが募集賃料は16万円程度

関東の相場では格安ですが、札幌の相場を考えれば十分に『高級』マンションです。

この建物、旧名称はアーデンコート植物園となっていました。
これは、平成28年コンフォリア・レジデンシャル投資法人に『信託受益権』が移った為、名称が変更されたものです。
コンフォリア・レジデンシャル投資法人というのは東急不動産グループの投資法人です。
『信託受益権』は不動産の流動化のための制度で、『所有権』は信託銀行が所持したまま、その不動産から得られる利益を『信託受益者』に支払われるというものです。
では、『所有権』は誰にあるかと言うとみずほ信託銀行株式会社が管理し、信託を受託しています。
この土地は過去に住友不動産株式会社が所有していたこともあったようですから、財閥系の不動産会社のうち、関わっていないのは三井不動産だけなのでは?という気もしています。

こういう大きくて新しい物件というのは、地場の業者である我々が取り扱うチャンスが来るのは、築年数がだいぶ経ってから、というのが現実です。

◇個人住宅
 植物園の耳の集合住宅群に囲まれた唯一の戸建て住宅として、Kさんという方がお住まいの2階建+地下1階付の建物があります。

 個人住宅についてあれこれ調べたものを公開してしまうと、トラブルになる可能性があるので差し控えさせて頂きますが、イマドキGoogleストリートビューもありますから、大変恐縮ですが建物の外観については掲載させて頂きます。

っていうか、Googleストリートビューで表札が判読出来るんですけどね。
モザイク機能、もうちょっと発展してくれてもいいと思うのですが・・・

◇月極駐車場/専用駐車場
 『植物園の耳』の北東部には株式会社トーショウビルサービスが管理する月極駐車場と専用駐車場が併設されています。


 土地の所有はどちらも神原商事株式会社であるように見えます。(登記は調べてません。)
 神原商事株式会社は札幌では老舗のベアリングや機械の卸売り業者です。

 神原商事株式会社
  http://www.kambara-shoji.co.jp/info.html

 会社概要によると、昭和25年から平成2年の40年間に渡ってこの場所に本社があったとのことです。
 まぁ確かにここに本社があるよりは、広い郊外に本社を移してこちらは賃貸で回しておいた方が商売上、効率が良いでしょう。

 ちなみに位置指定道路 第5113号を申請したのも神原商事株式会社です。

◇コインパーキング タイムズ
 ここからは南西側の空き地に目を移してゆきましょう。
 一番南西角の土地とグランドハイツ植物園の間に挟まれているのが、コインパーキングの『タイムズ』です。


 タイムズについては説明不要ですね、しかし平成28年の調査時にはこの土地には東急不動産『ブランズ マンションギャラリー』がありました。

 現在は既に解体・撤去されていますが、このモデルルームが設置される前も、タイムズとしてタイムパーキング事業がされていたようです。
 このように流動的な土地利用が可能なのも、タイムパーキング事業の魅力ですね。

◇コインパーキング アルファパーク
 そして最後は南西角地の株式会社アルファコートが管理するタイムパーキングです。

  アルファコート株式会社
   http://www.alphacourt.jp/

 こちらの会社は平成16年設立と社歴は浅いですが、札幌の不動産投資で多様な動き方をしており、市内各所に中古ビルを取得しているほか、新築事業も盛んです。
 自己所有物件も相当数ありますが、投資家から土地建物を預かって管理運営をする事業も行っています。
 投資家に賃貸マンションや介護施設を新築したり、駐車場を管理したりということですね。
 この土地については 所有者は調査していませんからアルファコート株式会社なのか、その顧客なのかは分かりません。
 角地ですから、この土地もいずれは分譲か賃貸のいずれかのマンションが建築されてゆくのでしょう。

◇消えていった戸建住宅
 現在は2つのタイムパーキングとなっている南西角の一角ですが、
 少し前までは4戸の戸建住宅が建っていました。

 Googleストリートビューのタイムマシン機能、非常に便利ですね。

・・・と、言う訳で今回は『植物園の耳』の現在の姿を紹介しました。
街は常に変化を続け、従来、その記録は僅かしか残りませんでした。
しかし、デジカメやPC、インターネットとスマートフォンといったコンピュータの普及によって社会のストレージは非常に拡大し、過去の街の姿は残されてゆくようになるのかもしれません。

その分、限られた資料から過去の姿を再構築して、共有するということは非常に価値があると考えています。
次回以降、お決まりの古地図と航空写真から過去の姿を見てゆきましょう。