シリーズ『澄川』① 明治期の澄川は札幌の木材供給拠点だった


当記事は平成28年3月15日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

いつかやる予定だった『澄川』地区のお話。 

気分で書いているとは嘯いているものの、それなりのページビュー数があり、同業者も多く閲覧している以上、あまりいい加減な事を書いていると問題がありますので、この一ヶ月、澄川地区の成り立ちと歴史について、郷土史を読み込んでいたのです。

澄川の郷土史で主だったものは下記の2つです。
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会

これらの郷土史に記録されている澄川の歴史を簡単にまとめてゆきましょう。

現在の『澄川』という地区は地下鉄駅で考えるとかなり広範囲を指す地名で、市営地下鉄南北線の『澄川』駅と『自衛隊前』駅、更には『真駒内』駅と3駅に渡ります。

真駒内駅の東側は、市街化調整区域となっており、原則的に建物の建築が出来ない公有の山林となっていますが、明治初期の澄川は地区全体がそのような状態で、多くの人が住む場所ではありませんでした。

都市計画法という法律は昭和に出来たもので、市街化区域と市街化調整区域の区別は、それまでは存在しなかった訳ですが、北海道の開拓は大日本帝国の主導で行われた訳で、当然、開拓者に対して『ここを開拓しなさい』とか『ここは国家の所有です』といった、開拓計画は国家の主導と許認可のもと行われて来た経緯がありますから、現在の市街化調整区域のように、積極的に市街化されなかった地域である、という理解で間違いはありません。

明治初期の澄川―当時の地名は『精進川』と言い、これは昭和19年に改められます―は、『官林』―つまりは『国有林』―であり、これが木材の供給拠点として徐々に開拓されていったのです。

時系列順に見てゆきましょう。

明治2年に北海道開拓使が設置され、北海道の開拓が国家事業として本格化しましたが、当時の札幌は大部分が原野、山林であって、まずは現在の中央区にあたる札幌本府に道路や用水路といったインフラを整えるのが先決でした。

また、本州と札幌本府を結ぶ大規模な陸路は函館との間に敷かれた『本願寺道路』が最初ですが、『道路』とはいっても、郊外のそれは時代劇で見るように平らに整備されたものではなく、鬱蒼とした原生林を切り倒し、多少の地ならしをした程度の獣道同様の道で、それでも長距離に渡る道路開発は困難を極めたと言われています。

このように、郊外地である澄川は市街化とは無縁であった訳ですが、札幌本府の市街化に従って、大量の製材の供給が必要となりました。

そこで明治5年には、精進川沿いに『木挽小屋』と呼ばれる官営の製材所が建設され、中心部に木材を供給し始めたのが、澄川への定住の始まりとされています。
木挽小屋のあった場所は現在の自衛隊前駅の周辺と言われており、現在も山の名前として『木挽山(こびきやま)』が残っています。
『木挽山』には北側に私立新陽高校、南側に澄川公園が所在する小さな山です。
この『木挽山』を囲むように2つの道路が開拓されてゆきますが、そのことについては道路の記事の際に紹介してゆく予定です。

この後、明治6年には、木挽小屋の木材を利用した『開拓使本庁舎』が竣工します。
これは開拓使・札幌本府の中心となる役所…現在で言うところの北海道庁ですが、明治12年火災により焼失してしまいました。全国的に有名な『旧北海道庁本庁舎』…赤レンガ庁舎は、その後、明治21年に建築されたものなのです。
 火災を防止するよう、木造ではなくレンガ造となった訳ですね。
 しかし、明治42年にも火災が発生し、その復旧に2年を要しています。

 


写真は『北海道開拓の村』にある開拓使本庁舎のレプリカです。

さて、国家事業としての札幌の開拓は開拓使の主導で進んでゆき、木材の需要はますます拡大してゆきます。

そこで明治13年お雇い外国人のホーレス・ケプロン(アメリカ人)によって、現在の滝野すずらん丘陵公園に水力製材所『器械場』が建設されました。
これはアシリベツ(厚別)器械場とも呼ばれ、その周辺は現在も『アシリベツの滝』として観光地となっています。

器械場が設けられた理由の一つとして挙げられるのが、北1条西1丁目に建設された官営の西洋式ホテル『豊平館』建築です。
『豊平館』は中島公園に移築され、国の重要文化財に指定されています。

ところで、器械場のあった『滝野すずらん公園』は、札幌市外からかなり離れています。
参考までに現在の整備された道であっても札幌テレビ塔まで、車で約40分、徒歩で3時間30分程度かかりますから、器械場で加工された製材を札幌本府へ運搬するのは、非常に大変な作業です。
わざわざそんな遠くに製材所を設置しないでも…とは思いますが、当然そんなことは当時のケプロンや開拓使も考えたでしょうから、充分な水力を得るだけの傾斜と水量が得られる土地は、他になかったという事なのでしょう。

初期は製材を牛の背に乗せ、そのうちに馬車での運搬へ移行していったようです。
資料によっては、現在の澄川駅周辺からは豊平川での水運を行なったとありますが、どちらにせよ器械場から澄川駅周辺までは、陸運されていたようです。

この、アシリベツ器械場から澄川まで陸運ルートが通称『器械場道路』です。
概ね現在の『澄川通』と同じルートと推定されますが、澄川駅→澄川小学校→澄川中学校→澄川南小学校までのルート以降は、そこから更に『澄川厚別滝連絡線』の山の中の一本道へ繋がります。

この『器械場道路』が、澄川では『本願寺道路』に次ぐ2番目の道です。

この後、アシリベツ器械場は明治23年には閉鎖され、『官林』であった澄川地区も、明治15年以降から徐々に払下げ・貸下げとなっています。
実は明治15年開拓使が廃止された年でもあります。
開拓使の廃止に絡んで教科書にも載っている『開拓使官有物払下げ事件』が起こり、北海道を3県に分割するという処置が取られ、結果として澄川の『官林』が民間に払い下げられるようになった、という事のようなのです。

そのように、先に開拓されていた平岸村の人々への小規模な払下げ・貸下げはあったものの、大きく状況が変わり、大規模な払下げ・貸下げが行なわれたのが明治29年です。

まず、地下鉄南北線『澄川』~『自衛隊前』周辺を、明治29年頃に茨木与八郎が取得します。
茨木与八郎という人は小樽市祝津で鰊漁や海運と生業としていたものの、海難事故で船を失って以降は札幌の各地で農場経営を行なっていたとされる人です。

茨木氏は不在地主であり、管理人の鳥居久五郎という人が小作人を管理していたようです。

大正期に設立した定山渓鉄道が昭和8年『北茨木停留所』を設置していますが、これは茨木農場北部を鉄道用地に寄附した事を由来としています。
『北茨木停留所』昭和24年に駅となり、昭和32年に『澄川』駅へと改称され、昭和44年に定山渓鉄道廃線に伴い廃駅、昭和46年には地下鉄駅として生まれ変わります。

同明治29年茨木農場の東側、澄川小学校から紅桜公園にかけての広い区域が、阿部与之助に貸下げられ、カラマツ(落葉松)等の『阿部造林』事業を行ない、この広い一帯が『阿部造林山』と呼ばれる事になりました。

この『阿部造林山』の一部が昭和40年代に『緑ヶ丘団地』として造成された地域です。

阿部与之助氏は明治3年に単身北海道に渡り、雇われの漁師を経て、豊平地区で開拓と商売を行ない、のちに大地主となった人で、豊平地区に故郷の人々を呼び寄せるなどして地域の発展に貢献したそうです。
現在も月寒公園には『阿部与之助功労碑』が祀られています。

さて、明治期の澄川地区の歴史をざらっとまとめましたが、如何でしたでしょうか。

ポイントは大きく2つ…
 ◇澄川地区は『木挽小屋』『器械場道路』で木材供給と深く関わっていた。
 ◇明治29年、2人の地主によって大きく拓かれた。

澄川地区の開拓の始まりの概要を説明しておかないと、のちのちの記事が上滑りしてしまうので、
今回は予定を変更して明治期の澄川について紹介をしました。

大正・昭和・平成の澄川駅周辺についても資料を集めているので、のちのち紹介してゆく予定です。

<参考文献>
1.『郷土史すみかわ』昭和56年発行 澄川開基百年記念事業実行委員会
2.『郷土史澄川ものがたり』平成14年発行 澄川地区連合会郷土史編集特別委員会
3.『株式会社じょうてつ100年史』平成28年発行 株式会社じょうてつ