旧・調13 新琴似南地区

当記事は2014年6月24日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:96『新琴似南地区』です。
市街化区域に編入される前決定番号:調13『新琴似南地区』でした。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

こちらも先日紹介した『新川新琴似地区』と同様の経緯を辿っていますが、
動きには若干の相違がありますから、やはり時系列順に経緯を追ってゆきましょう。
何故かは分かりませんが、新川新琴似地区と比較すると、資料に詳細が記述されていません。

・昭和45年の都市計画法施行に伴う『線引き』で、市街化区域に指定される。

・昭和60年、土地所有者からの営農継続の意向により、市街化調整区域に編入された。
 この際残されていた用途地域は、『新川新琴似地区』と異なり、
 一旦『廃止』となるのではなく、現在の用途地域への『変更』を行うという手続きが取られています。

・何らかの事情で所有者から札幌市へ宅地開発の意向が示された。
 (新川新琴似地区では所有者が相続で変更になったと記述がありますが、こちらには一切説明はありません。)

平成15年5月15日、札幌市より開発行為の許可がされ、同年7月17日及び9月4日に一部完了した。

・平成15年9月3日、市街化調整区域内の地区計画として『新琴似南地区』が決定される。

・平成16年4月6日の第5回線引き見直しで市街化区域に編入された。

…と、随分アッサリとした書き味ですが、それだけスムーズに開発が進んでいったという事です。
開発許可から1年を待たずに市街化区域になったのですから、
(かなり複雑な事情があるとはいえ)開発許可が出て約15年経っても調整区域のままの『手稲山口地区』西側と比べると、
やはり、かなりのスピード感で開発行為が進んでいったというのが実際の所のようです。

都市計画の『線引き』見直しは数年に一度ですから、タイミングの問題はあるとしても、平成15年のワンシーズンで開発行為が許可からほぼ完了までいくというのは、もちろん周辺事情や造成面積、予算などの兼ね合いもありますが、凄まじい事ではあります。

さて、現地については写真を見ながら紹介してゆきましょう。

市道『新琴似2条通』に面し、新琴似地区センターとコープさっぽろ新琴似店に挟まれた範囲です。
沿道には以下の中規模の店舗が立ち並び、その北側・裏手が住宅街となっています。

 ・サッポロドラッグストアー


 ・回転寿司まつりや


 ・新琴似温泉壱乃湯


 ・シュープラザ新琴似一番通店


 ・名古屋名物赤から

サッポロドラッグストアーの他は飲食店・銭湯・靴屋と、かなり異色の構成です。
これまで紹介してきたように市街化調整区域の地区計画による開発の場合の商業用地の構成は、
アークスグループ等のスーパーや西松屋、ドラッグストア、衣料品店というのがパターンですが、
元々コープさっぽろ(市民生協)があるためか、スーパーの新規出店はありません。
それにしても小売店舗よりも銭湯と飲食店というのはちょっと毛色が違うように見えてしまいます。

裏手の住宅街については、ここ10年の造成という事もあり、やはり新しい住居が立ち並んでいます。
住民の年齢層もまだまだ若いですから、中古物件として売りに出される事も少ない地区です。
JR駅『新川』『新琴似』ともに徒歩30分程度かかってしまいますが、自動車で移動する分にはそこそこ便利ですし、地下駅方面へのバスも複数系統出ています。
周辺は市街地に囲まれていますから、周辺の動向によって地価も変動してゆく可能性があります。
まぁ、これはどんな土地についても言える事ですが、そこだけが良くてもダメ、という事ですね。

地区計画の目標は以下の通り。
 当地区は、本市の都心部より北西へ約6kmに位置し、北東側は都市計画公園「新琴似二番通公園」、
 南西側は都市計画道路「新琴似2条通」に接する地区であり、現在、民間の宅地開発事業が進められている。
 そこで、本計画では、当該宅地開発事業の事業効果の維持・増進を図り、
 事業後に予想される建築物の用途の混在や敷地の細分化などによる居住環境の悪化を未然に防止し、
 緑豊かでうるおいのある良好な住宅市街地の形成を図ることを目標とする。

実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

(市街化区域内の地区計画に『解説書』は添付されません。)

決定:平成15年9月3日 変更:平成16年8月19日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

旧・調10 新川新琴似地区


当記事は2014年06月17日の記事を再編したものです。当時の記録を残す為、表現等は原則的に当時のものを優先しています。

今回紹介するのは決定番号:94『新川新琴似地区』です。
ちなみに、市街化区域に編入される前決定番号:調10『新川新琴似地区』だった地区です。

地区計画の範囲はこんな感じ。

Googleマップはこんな感じ。

『札幌市都市計画審議会』の議事録で取り上げられている経緯をまとめました。

・昭和45年、都市計画法の施行に係る『線引き』市街化区域に指定されました。

・昭和60年、第2回『線引き』見直しの際、土地所有者から札幌市へ、営農を継続する旨の強い申し出があり、そのため、市街化調整区域への編入=『逆線引き』が行われました。
 通常、『逆線引き』の際には用途地域の指定も同時に解除されるのですが、畜舎など、市街化調整区域に建築出来る建物が、市街化区域の住宅などへ悪影響を及ぼさないよう、用途地域の指定が残されたままの市街化調整区域という特例的な取り扱いになっていました。
 (昭和57年建設省の通達によって、この『用途地域が指定された市街化調整区域』が実現したようです。)

・その後、この土地で農家を営んでいた方がお亡くなりになった後、
 相続をした方から札幌市へ、農家を辞めて開発行為を行う旨の意思表示があったようです。
 それを受けて札幌市では平成13年7月12日の第7回札幌市都市計画審議会で、まずは残っていた用途地域の指定を外し、純粋な市街化調整区域としました。

 第6回・第7回の都市計画審議会では、この用途地域の解除について、北区選出、社会党の伊与部 敏雄市議会議員(選挙通称・伊与部年男氏)かなり食ってかかっています。
 地主さんの個人情報に関する事情まで挙げて批判をしたようで、
 個人情報に関する部分については議事録から削除されています。
 どんな内容の発言をしているか、興味がある方は、議事録を参照してみて下さい。
  → 第6回議事録 ・ 第7回議事録

 北区の案件という事で、何か個人的禍根でもあったのか、勘ぐってしまうレベルです。
 ちなみに伊与部 敏雄氏はこの記事の初出当時、民主党の市議会議員として平成23年から9期目を務めていました。
 ※ 2016年2月2日付で伊与部 敏雄氏の訃報が出ています。

 あんまりウダウダ五月蠅いものですから、審議会の座長・辻井 達一氏(当時・北星大学教授)から
 『できるだけ簡潔にお願いしたいのです。この場は都市計画審議会で,市議会ではございません。』
 などと言われてしまっていて、失笑してしまいました。
 議会や審議会などの議事録に目を通す機会も多いのですが、文字に起こすとある種異常な議事は多いものです。
 (とはいえ、当の辻井氏も故人ではありますが、色々と評価の分かれる人物のようです。)

・その後、平成13年10月25日に開発行為の許可を受け、
 平成14年7月24日に開発行為が完了しています。
 (こういった大規模開発制度の活用は手稲山口地区に次ぎ、二番目の事例だったとのことです。)

・平成14年3月19日に市街化調整区域内の地区計画が定められました。
 これは、現在の地区計画とほぼ同じ内容での決定です。

・平成16年4月6日の第5回線引き見直し市街化区域に編入されました。

現地は札幌市立新川高等学校の北側、市道『西野屯田通』『新琴似2条通』の交差部分です。

『西野屯田通』に面してビッグハウス新川店ガストガソリンスタンドチロリン村などがあります。

『新琴似2条通』側は西松屋新川店のほか、中・小規模な外科、皮膚科、美容院、学習塾などが立ち並んでいます。

住宅部分は、流石にこの10年ちょっとで分譲された造成地ですから、新しい家が並んでいますね。
売れ残りが目立っているという事もなく、密度のある住宅街が形成されています。

地区計画の目標は以下の通り。
 当地区は、本市の都心部より北西へ約6kmに位置し、北東側は都市計画公園「新琴似二番通公園」、
 南西側は都市計画道路「新琴似2条通」に接する地区であり、現在、民間の宅地開発事業が進められている。
 そこで、本計画では、当該宅地開発事業の事業効果の維持・増進を図り、
 事業後に予想される建築物の用途の混在や敷地の細分化などによる居住環境の悪化を未然に防止し、
 緑豊かでうるおいのある良好な住宅市街地の形成を図ることを目標とする。

実際の制限の内容については札幌市HPのPDFファイルを参照して下さい。

(市街化区域内の地区計画に『解説書』は添付されません。)

決定:平成14年3月19日 変更:平成16年4月6日の地区計画資料を基に記述しています。
今後、地区計画について内容やエリアの変更がある場合がありますので、ご注意下さい。

平成30年6月29日『札幌市地図情報サービス』の運用が開始されました

従来、札幌市の不動産調査において重要な位置を占めていたシステム、『札幌市都市計画情報サービス』では、都市計画や道路の情報をダウンロードすることが出来ました。

これがこの度、6月29日から『札幌市地図情報サービス』としてリニューアルされました。

札幌市地図情報提供サービス
 http://www.city.sapporo.jp/johoo/it/web_gis/web_gis.html

大きな特徴として従来の都市計画情報サービスで提供していた情報に加え、
ハザードマップの情報が統合された、という事があります。

従来、ハザードマップは各項目ごとにPDFが用意されており、
かなり広いエリアごとの区分けで非常に見づらかったのですが、
これが改善されたという事になりますね。

さて、許諾事項や同意画面を抜けると、このような選択画面となります。

表示するテーマ=レイヤを表示されている中から選択します。
道路区分や都市計画、ハザードマップなどですね。


選択したテーマで、地図が表示されます。
テーマを変更したい場合には左上の『テーマ変更』を選択します。


地図の上半分の画面を占める説明文ですが、どうやら消せないようです。
もしかしたら消す方法もあるのかもしれませんが、
使い方』や『ヘルプ』をざっと読んだ範囲では見当たりませんでした。

というか、ヘルプのリンク(左側)のジャンプ先が滅茶苦茶で驚きます。

『用途地域』や『ハザードマップ』などのテーマを選択時に、
地図をクリックすることで『都市計画図』や『防災情報』をPDF形式でダウンロードすることが出来ます。


このPDFファイルには自動印刷リンクが仕込まれており、
開くたびに印刷ウィンドウをキャンセルしなければならないというクソ仕様です。
→公開から数日でこの仕様は修正されました。

・・・と、まぁいつも通り腐して来ましたが、
ハザードマップが統合され『防災情報』がまとまったのは便利ですが、
実際のところ、慣れるまでに結構な時間を要しそうです。

また、このシステム、Android環境では重すぎる上に上半分の説明文が邪魔で非常に利用しづらく、出先でのスマートフォンによる調査が出来なくなってしまいました。
→公開から数日でこの仕様は修正されましたが、まだ許諾関係が鬱陶しいですね。

今回のシステムには国際航業株式会社が提供する統合型GISアプリケーション『SonicWeb-ASP』を利用しているようです。
私はこのアプリケーションを札幌市地図情報サービスを通してしか知りませんが、汎用のソフトという事でカスタマイズについても融通が利かないのかな、という印象ですね。

実は旧:都市計画情報サービスもまだインターネット上にシステムが生きているのですが、表玄関からは入れなくなっていますし、大きなトラブルがなければいずれ削除されてしまうのでしょう。

そういえば『札幌市下水道台帳情報提供サービス』の情報が見当たらないな、
などと思っていたのですが、こちらは現段階で統合されていないようです。

札幌市下水道台帳情報提供サービス
 http://www.jamgis.jp/jam_sapporostp/html/index.jsp

もう少し使い方を調べた上で、面白い使い方があれば紹介をしますし、過去の記事についても書き換えを行ってゆければと考えています。

KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

シリーズ『北広島』、6回目になりました。もう少し歴史を追ってみましょう。

前回『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②』では、
幹線道路である国道36号線ではなく、中心部が現在の位置になったのは、
『官林』による制限と『稲作』を営む為であると説明しました。

北広島は元々『大曲道路』・・・現:道道1080号線によって拓かれた集落です。

これも繰り返しになりますが、通常、市街地というものは基軸となる『道』を中心に切り開かれ広がるものです。
しかし、現:道道1080号線の周辺には北広島市役所以外には星槎道都大学くるるの杜がある程度で、沿線のほとんどは市街化調整区域であって、街の中軸となる道路であるとは言い難いものがあります。

北広島の中心街を貫く道路としては、江別と恵庭を結ぶ現:道道46号線の方がふさわしいでしょう。

そして、1080号線にせよ46号線にせよ大曲や西の里とは接続していません。
何故、北広島は3つのエリアに分裂したのでしょうか。

明治17年和田郁次郎氏が拓いた『大曲道路』によって開拓が始まった北広島ですが、そのわずか5年後明治22年から、様相が大きく変わり始めます。

明治24年時点の地図を見てみましょう。

明治22年から明治24年にかけて、また2つの道路が開通しました。

一つ目は江別と恵庭を南北に結ぶ、現:道道46号線です。
当初は『江別道路』『恵庭道路』と二つに分けて呼ばれ、現在の名称は『道道江別恵庭線』
別名としては『北広島本通』とも呼ばれています。
後からできた道路が『本通』というのも不思議ではありますが、大曲から山の中を抜けて北広島に通じる『大曲道路』よりも、集落と集落を結ぶ北広島本通の方が道としての需要があった、という事なのでしょう。

そして二つ目の道路は、厚別から東西に伸びる現:国道274号線です。
これは当初『北広島本通』を開削する為の資材運搬路であったもので、北広島に鉄道のない当時には、駅への道として利用されていたそうです。
札幌方面に出る道、という事で『札幌道路』と呼ばれていました。

この二つの道路が拓かれたことで、現在の北広島の市街を形成する四つの道路が出揃った訳です。
この頃の北広島は農村地帯ではありますが、道を行き交う人々に物を売る雑貨屋などがぽつぽつと各道路の沿道に出来始めたようです。

そして明治27年『廣島開墾地』広島村と名前を変えました。
これは稲作が比較的順調に進んだ事と四つの道によって交通利便が改善したことによります。
当初は『和田村』とするよう道庁に指示されたものを固辞し、故郷の広島から名を取って広島村とした、という話が残っています。

そして、それと同時に、道庁から輪厚官林島松官林開拓民に解放して入植を受け入れるという話が持ち上がります。
本来『官林』は国有財産ですから、そこを伐採したり定住したりすることは禁止されていますが、そこを開拓して農地としよう、という計画です。

これに対し、和田郁次郎氏と広島村の初代戸長である一色潔氏は、これらの官林が切り開かれることで下流の水田で利用する水源が乏しくなる事を懸念し、道庁に対して反対運動を行います。
反対運動の為に度々道庁にも足を運んだようですが、道庁の職員からこれを断られてしまい、明治29年にはこの地域の開拓が始まってしまいます。

更にその後、明治32年には野幌官林を同様に解除して札幌区、白石村、江別村、そして広島村に配分しようという計画が北海道庁から持ち上がります。
この配分によって町村制の施行を前に各村の財産を充実させる目的があったとのことです。

しかし、これに対しても和田郁次郎氏を筆頭とする広島村と江別村の代表が反対を表明します。
野幌官林には農業用の溜め池があった為、これが配分されることで農業が立ち行かなくなることを恐れた為です。
農民達と道庁との間で、かなり激しいやりとりがあったようですが立ち行かず、最終的には和田郁次郎氏が当時の北海道庁の長官、園田安賢氏に直訴し、官林解除を取り下げさせるに至りました。

そうして残ったのが野幌官林であり、現在の野幌森林公園です。

この後、大正15年に千歳線が開通する事で北広島における交通インフラの基礎は完成します。
前述の通り、野幌官林は残った一方で輪厚官林と島松官林はなくなってしまいました。
現:国道36号線沿線の大曲エリアは人の通行がありましたから、農業で栄えたという訳ではありませんが林業が盛んで、人も定住するようになっていったという事です。

そして、大曲エリアはその便利な立地を活かして発展し、都市計画法の施行当初から市街化区域として中央エリアと並び立っていたのです。
西の里エリアについては、昭和60年代~平成にかけて市街化区域となったエリアで、まだまだ歴史が浅い部分がありますが、大曲については官林解除を切っ掛けに『2つの北広島』に分裂するに至った要因であると言えるでしょう。

つまり、北広島が分裂した原因は明治27年の官林解除であったという事です。
(明治27年官林解除→明治29年民間への貸下げ・開墾という流れ)

そして、北広島開基の功労者である和田郁次郎氏は、その官林解除に反対であった、というのも重要な視点ではないでしょうか。
郷土史の中では農業の為の水源として・・・という視点が強調されていますが、都市計画や自治体運営という視点から見ると、和田郁次郎氏はスプロール化・・・つまり市街の分散・虫食い化を防ぎたかったのではなかろうか、と思われます。

当時にそういった概念はないにせよ、『統一され一体感のある村』ではなく、分散してバラバラになった集落では、郷土愛も生まれませんし運営を行っていくのも困難です。
そういった意味で、『統一され一体感のある村』とはならずに、3つに分裂した現在の北広島を和田郁次郎氏が見たとしたら、何を思うでしょうか。

ある意味で、北広島分裂の要因は『北海道庁の意向に抗しきれなかったから』とも言えるのかもしれません。

『夕張市石炭博物館』の問題点と改善に関する提言

さて、前回『夕張市石炭博物館』についてレビューしましたが、
総評としてはまだまだ課題が多い博物館であると締めくくりました。

夕張を応援する、というのは社会正義であって、私も応援しています。

財政が厳しい夕張市と今年から指定管理者となったばかりのNPOが、ようやくリニューアルオープンを達成した石炭博物館について、外部の人間がしたり顔でああだこうだと文句を付ける、というのは、いかにも『弱い者いじめ』的で憚られる、という心情もありす。

とはいっても、前回指摘した通り、現状のままで運営を続けても、
結局のところジリ貧になっていくのでは?という気がしますし、
まー、郷土史マニアや鉄道マニアなどの人々もSNSなどで、
既に意見を表明していますから、場末のブログがあれこれ言っても、
大した問題にはならないでしょう、という事であれこれ言って行きます。

問題点① 施設への導線が悪すぎる

駐車場の件は既に2度に渡って指摘をして来ましたが、
これってかなり問題が大きいと思うんですよね。

①の公道からの入口には幟が立っていますが、そこから先には幟はなく、③まで何の案内も(少なくとも私が見た範囲では)見当たらなかったので、②の駐車場に駐車するべきであろう、という判断をする方が多いはずです。
②の駐車場に車を停めて、③の看板を見て、車に戻って・・・
・・・というのは、あまりに手間が掛かるし、イラッと来るものです。

③の看板の位置や大きさにも大いに不満があります。
運営側や市民の方は既に④の位置が駐車場だと分かっているのでしょうが、初見の観光客には、駐車場の位置が非常に分かりづらい。
運営側に『第三者目線』が欠如していると言わざるを得ません。

これは②の位置ですが、連休中にこんなガラガラの駐車場を見れば、
知らずに帰ってしまう観光客だっていると思うんですよね。

①の地点の写真を見てみましょう。


今風で雰囲気重視のオシャレな看板は新設されたもののようですが、
オシャレさよりも、分かりやすい表示が必要なのではないでしょうか?

せめて①~②の位置に、④の位置を示すような表示をして欲しいと思います。
或いは、②の位置にある看板に『一般車両はゲートの奥に駐車場がある』と大きく記載をして欲しい、というのは私の独善はないと考えます。
折角の新しい看板の見栄えは悪くなるかもしれませんが、
A4用紙で①の看板にその旨の掲示するなどした方がよいでしょう。

指定管理者の公式サイトの駐車場位置図も非常に分かりづらい事からも、運営側としては来場者が現在の駐車場の位置を知っているのが前提になってしまっているようです。

更に、2階のパネル展示の導線も、なかなかに独創的です。

この写真パネルの裏に、文字で詳細が記されたパネルが並んでいる訳ですが、これが両面にあるので順番に見ようとすると、パネルの周りを何度も行き来する事になります。
正確な記憶ではありませんが、図に示すとこんな感じでしょうか。


で、極め付けは図で上方にある前回紹介した人口と採掘量の折れ線グラフです。

どのタイミングで見ればいいやら・・・一通り見た後引き返すのでしょうか。

どういう導線を想定しているのか、正直まったくわかりません。

ドイツの博物館を参考にした、という言葉を指定管理者のブログで目にしましたが、ドイツには導線という概念がないのでしょうか。

何かこの配置に合理的な意味があるのであれば、教えて貰いたいと思います。

問題点⓶ 展示が文章主体なのに内容が分かりづらい

旧来多くあった展示物を整理・スリム化して、空間演出をした、との事です。
マニアの方からは『展示品が少なくなって寂しい』という声も聞かれますが、
私はこれはこれでいいのではないか、と思います。

物を多くしろ、とは言いませんが、この展示はちょっと直感的ではないな、というのが私の感想。
ハッキリ言ってしまうと、文章が冗長で理解しづらい。

『大きな色付きの文字を拾い読むと概要が分かる』との事ですが、
まぁ、個人個人の感じ方はあるでしょうが、私にはそうは思えません。

まるで90年代のテキストサイトのノリじゃないですか。
(まぁ、私もそのノリを未だに引きずっている訳ですが。)

文字が小さく反転色で老人には読みづらく、漢字が多くて子供にも読みづらい。
学生時代国語の成績が非常に良かったおじさんである私にも、正直読みづらい。

では、具体的にどうすればいいのか、という処ですが、
私の理想とするところの博物館展示は『江戸東京博物館』です。

あれは首都東京の集客力でベラボーに潤沢な予算で運営していますから、学芸員も一流でパネルや模型の一つ一つが超豪華で、地方の一郷土資料館が容易に模倣できるレベルではないのですが、一つ一つの展示の『重さ』というか、ストレスを計算した分量で構成されていますから、見ていて疲れないのです。

高望みかもしれませんが『理解してもらう努力』をして欲しいと思います。

そういう意味では、この先の鉱山体験の蝋人形展示や模擬坑道は非常に直感的で、誰にでも理解がしやすい展示であると言うことが出来るでしょう。


まぁ、これも当時ベラボーな予算を掛けて製作されたものですから、
やはり予算がないと良質な展示を作るのは難しい、という事なのでしょうか・・・

個人的には熱意と技量があればどうにかなるのでは、と思うのですが・・・

問題点③ 運営団体のサイトが貧弱である

指定管理者である『特定非営利活動法人 炭鉱の記憶推進事業団』が運営する『夕張市石炭博物館』のサイトが非常に貧弱である、というのも問題です。

指定管理者になったのが4月1日からですから已むをえない部分もありますが、私の環境ではGoogleやBingで『夕張市石炭博物館』で検索をすると、以前指定管理者だった『夕張リゾート』のサイトが一番上に来て、次に夕張市の公式サイトが表示され、それより下の順位で表示されます。
(検索順位は検索環境や時期によって変動します。)

検索順位はそのうち上がっていくのでしょうが、サイト作りの問題もあります。
まず、先に指摘した通り『アクセス』の駐車場位置図が非常に分りづらい。

初見の人間に理解出来るんでしょうか。私には理解出来ませんでした。

次に、以下のリンクから実際にサイトの博物館概要を開いてみて下さい。
 夕張市石炭博物館|営業日・料金
  https://coal-yubari.jp/info/

上部にコンテンツがカテゴリごとに並んでいますね。
コンテンツをクリックしてみましょう・・・無反応ですよね?

実は、石炭博物館の写真の下でコンテンツは切り替わっているのですが、初期画面がこんな感じでクリックをしても反応がないので、画面が切り替わったのか否か、非常に分りづらいのです。

スマートフォンで閲覧すると、この問題は更に顕著です。

コンテンツ一覧以外に何も表示されない!

まぁ、SEOの問題やスマートフォンでの見やすさについては、このブログも偉そうに他人の不手際を指摘出来る立場でもないのですが、公的な施設が集客をしようというのにこれでは、問題があるでしょう。

これは予算の問題ではなく、単なる『第三者目線の欠如』です。

問題点④ こだわりが感じられない

これは高望みかもしれませんが、石炭博物館は『好きな人が作っていない』という気がしてなりません。
これまで述べて来た現地へのアクセス案内、展示内容、公式サイト・・・
様々な問題点の原因というのは、予算や準備期間の問題ではなく、
『好きな人が作っていない』からであると言うほかありません。

それは、博物館が好き、だとか郷土史が好き、という以前の問題として、『石炭博物館が好き』とか『夕張が好き』という意識が感じられないのです。

この記事で指摘したような問題点は少し考えれば分かる事ばかりでしょう。
他人から見たらどう見えるだろうか?という事を常に意識し、作成したサイトの動作チェックを第三者にしてもらう、それだけでこんな問題は起こらないはずです。

少なからず、貴重な夕張の税金が掛かっているのでしょうから、
もし本当に夕張を良くするという使命感があるのであれば、
この程度の事は、即座に改善をしなければならないでしょう。

また、これも高望みなのですが、巨大な作業機械が実際に動く展示があります。

このすぐ正面、地下1000mというストーリーなのに窓があるというのが、私にはとても気になるのです。

高圧電力で巨大な機械を動かす都合、もしかしたら消防法の兼ね合いなどで窓を設置しなければならないのかもしれませんが、それにしたって目隠しをするなどの方法でストーリーを守る気遣いをしてくれてもいいのではないでしょうか。

エレベータ内でわざわざ映像とナレーションを流して作ったストーリー、
現代では全館禁煙が当たり前なのに、敢えて置いてある『火気厳禁』の看板。

そういったストーリーを大切にして、積み重ねてゆくことで、良い展示が出来上がるのです。
作り手側が子供だましと侮って、そういった事に気が回らないようでは、何処まで行っても単なるハコモノで『バリバリ夕張』の二の舞、三の舞にしかなりません。

非営利活動法人だから、というのではなく意識を改革して、夕張のランドマークたる石炭博物館をしっかりと守って行って欲しいと思います。

まだざっとしか読めていませんが、検索に引っかかって来た内容で、東海大学の『博物館資料論』というテキストが、博物館展示を作る上での心構えや導線の事がまとまっていて、運営側には是非これを参考にして欲しいな、などと思ってしまいました。
 東海大学海洋学部 博物館資料論テキスト
  http://www.dino.or.jp/s_muse/m_material06.html

シリーズ『夕張市炭鉱博物館』

 ◇シリーズ『夕張市炭鉱博物館』【前段】
 ◇2018年4月末にリニューアルした『夕張市石炭博物館』に行ってみた
 ◇『夕張市石炭博物館』の問題点と改善に関する提言
 ◇『夕張市石炭博物館』リニューアル1年に満たない火災でこの後『夕張石炭の歴史村』はどうなるの?『ふるさと納税』での応援はどうなの?

2018年4月末にリニューアルした『夕張市石炭博物館』に行ってみた


前回のあらすじ=
片道2時間掛けて夕張に出向いたら、駐車場には人っ子一人いませんでした。
看板には『石炭の歴史村駐車場』という記載があります。
いくら郊外の地味な郷土資料館でも、ここまで人の気配がないのは異常です。
年甲斐もなく軽いパニックを起こしてしまいました。
周囲を見回し、歩き回ってみます。
廃業した店舗の裏に、数台の車と2台の観光バスが停まっています。
写真で見たことのある入口部分にキャラクターの『ゆうちゃん』がいます。
なるほど、ここから歩いて入っていくのか・・・随分歩きそうだな・・・
と、『博物館駐車場はこの奥です』というこじんまりとした看板が。
一回エンジン止めて歩き回らないと見つからないって導線悪すぎでしょ(; ・`д・´)

気を取り直して一車線しかない通路を進んでゆくと、奥に駐車場がありました。
駐車場にはそれなりに車が停まっており、誘導員の方も何人か。
その誘導員のうち一人だけでも表に出て案内してくれれば助かるんだけど・・・
(いや、看板がもう少し分かりやすいだけで良いんですけどね。)

さて、夕張の名物立坑櫓』が近づいて来ます。結構距離がありますね。
さて、しばらく歩くと『石炭博物館』に到着です。
雨の中、傘をさしながら急ぎで撮影した為、写真全般がピンボケですみません。
館内に入ると、巨大なエアーコンプレッサーやら石炭オブジェやら、
リニューアルオープンを祝う関係者からの花輪が飾られていました。

入館料は夕張市民以外は大人1080円、結構高額ですが、
これでも以前よりは安くなっているようです。夕張市民は当面無料とのこと。

無料で入場出来る1階は特別展『バリバリゆうばり』。名キャッチコピーです。
炭鉱の頃から財政破綻に至るまでの夕張の歴史を簡単に紹介するパネルと、
石炭の歴史村の歴代のポスターが展示されており、
プロジェクターでは過去の映像が上映されています。
・・・感想という感想はありません、まーこんなものか、という。
問題点に関する改善案や提言については別途記事をまとめる予定です。

さて、有料区画である2階に移りましょう。
リニューアルに関する各種報道写真などで使われている部屋です。
新しい夕張のキャッチコピーRE START!Challenge More!』が前面に押し出されています。
壁面の各パネルでは夕張市の概要について紹介されています。

この部屋を抜けると、黒いスクリーンに昭和の映像が流れているエリア。
ここには昔、石炭の元となったメタセコイヤの樹などが飾られていたそうですが、現在は昭和の映像の他、ガイドの自己紹介などが上映される、とのこと。
暗いだけなので写真は撮影していません。

続いて、常設展示のメインのスペース。夕張の歴史が紹介されています。
リニューアル前に大量にあった展示物をスリム化し、今風の見た目にしたとの事。
まぁ今風でオシャレ、というのは確かにそうだと言えます。
ネットで郷土史マニアや鉄道マニアの方の感想を見る限りでは評判は良くありませんが、まー、マニアの意見だけ聞いていても良くなるものではありません。

ただ、ちょっとパネルの文章が拙いのと読みづらいとは感じました。
白い壁面に夕張市の人口と石炭の採掘量を示す折れ線グラフが書かれています。
ただ、かなり長い区間に渡って書かれているので、上下動がピンと来ません。

2階の常設展示を見終えると、『立坑櫓』の下のエレベータに到着。
ここから1000mの地下に下りて炭鉱を探検するというストーリーです。

エレベータ内ではそのストーリーを説明するアナウンスが流れ、
真っ暗になり、炭鉱を降りていく映像がエレベータ内に映し出されます。
動画を撮っているので、是非公開したいところですが、
このサーバのアップロード制限によって叶いませんでした。
これは現地に行ってのお楽しみ、という事で。

地下には、明治から昭和までの時代ごとの炭鉱の風景が、
セットと蝋人形、小道具によって再現されています。
バブル前夜に多額の費用を掛けて制作したであろう展示は、
見応えがあり、(古びてはいても)今見ても高いクオリティであると言えます。
ボタンを押すことで炭鉱の人々の会話や、作業音などの音声が流れる展示です。
更に奥には、昭和の作業機械で石炭を掘削し、運搬する風景。
掘削・運搬する作業機械は定期的に轟音を立てて作動します。

結構短い頻度で作動するは、連休だからなのか、いつもなのか分かりませんが、
常にこんな頻度で作動しているとすれば、電気代はとんでもなくかかりますね。

面白いですし、見応えはあります。

そしてその最奥は、今回3年ぶりに公開するという『模擬坑道』です。
国の有形指定文化財で、過去に坑道として利用されていたものを、
『北海道炭礦汽船』が鉱員の研修や見学用として改築したものだそうです。

階段を下りてゆくと古びたレンガの壁が現れます。
古い建築物が好きな人にはたまりませんね。


その下は、割とこぎれいな木材(レプリカ?)で補強された公道になります。
ここが最も改修された部分のようで、工事関係者によると結露が酷く、
古い写真を見ると木部も真っ黒になっていて、かなり印象が異なります。

『鉄柱カッペ』と呼ばれる支柱に支えられた坑内を下る階段は、私が一番心惹かれた光景です。
巨大な採掘機械が石炭を掘削・運搬する情景を再現しています。

この他にも作業用機械などが展示してありますが、石炭を運び出すトロッコと並走する長距離の階段を上がり、展示は終了。

出口の脇には昭和13年に大事故が起こった『天竜抗』の入り口があります。

・・・という事で、この度リニューアルされた『夕張炭鉱博物館』について、
一通り見て回ったレポートをまとめてみました。

今回の記事中でも多少触れていますが、まだまだ課題が多い博物館であるというのが正直な感想であります。
今年から指定管理者となった『NPO炭鉱の記憶推進事業団』も、夕張市長の鈴木直道氏も、『これからの博物館』『不完全な博物館』というような事を言っていますし、予算が潤沢ではないであろう中で、あまり高望みをすることも出来ない事は理解出来ます。

しかし、これにロジカルに苦言を呈する人がいなければ、ずっと今のまま改善されず、それこそ税金の無駄遣いでしょう。
で、あれば、このような場末のブログではありますが、私の考える処の改善案というものを、後日まとめてみたいと思います。

それを見た方も同じ意見を持って頂ければ、いつか運営側も気付くでしょう。

次回、とも、いつ、とも確約は出来ませんが、現在、文章をまとめている処です。

シリーズ『夕張市炭鉱博物館』

 ◇シリーズ『夕張市炭鉱博物館』【前段】
 ◇2018年4月末にリニューアルした『夕張市石炭博物館』に行ってみた
 ◇『夕張市石炭博物館』の問題点と改善に関する提言
 ◇『夕張市石炭博物館』リニューアル1年に満たない火災でこの後『夕張石炭の歴史村』はどうなるの?『ふるさと納税』での応援はどうなの?

シリーズ『夕張市炭鉱博物館』【前段】


【今回は夕張へ行くに至るまでの前段で、具体的な紹介記事はありません。】

さて皆様、今年のゴールデンウィークはどのようにお過ごしでしたか。
私は残務処理に追われ、殆ど仕事で連休という実感はなかったのですが、
僅かな自由時間を自宅で過ごすと、あっと言う間に終わってしまいますから、
何とか遊んでやろうと足掻きに足掻いてみました。

連休最終日である5月6日(日)の午前中にマンションの案内を済ませ、
正午を過ぎた頃に私は急ぎ夕張に向かいました。
『石炭の歴史村』内にある『石炭博物館』に行く為です。
事前に連休中に行きたい先をいくつか見繕っていたのですが、
業務との兼ね合いからあまり遠くに行く訳にも行かず、
また、有名人の夕張市長:鈴木直道氏が来年任期満了という事で、
一度行っておきたい、と考えていた為です。

北海道の各自治体の開発においては、石炭との関連が非常に大きい、
と感じていた事も、私を石炭博物館へ足を運ばせた要因の一つです。

しかし、夕張までは片道約2時間、出発は既に正午を過ぎています。
しかも天気はあいにくの雨、というか結構強い雨が降っていました。
昼食なども考えると、到着は午後3時近く。
夕張まで行くのなら市内各所を見て回りたいという気持ちもありましたが、
既に薄暗く、また屋外での作業に困難がありましたので、
石炭博物館に行ってトンボ帰りになることを覚悟しなければなりませんでした。

ちょうどその日の朝『炭鉱博物館』が4月28日にリニューアルされた
と知り、どうしても今回の機会に行っておきたい、という想いが高まりました。


何せ、3シーズンぶりの全施設公開、数十年ぶりの全面リニューアルです。
今回の機会にぜひ見ておきたい。
そう思って、正午を過ぎ、雨が降る中、私は夕張へと車を走らせました。

時間がない癖に途中で栗山町郷土記念館にも立ち寄ってしまいましたが・・・

何やかんやで午後3時過ぎ、夕張市石炭博物館に到着しました。
入り口には幟が何本も立っており、新しく作ったであろう看板も『OPEN』と表示されています。

スロープ状の道路を下って車を進めてゆきます。
悪天候のせいか、人影も車も見当たらない。
連休最終日ですしこんなものなのか、となお車を進めると・・・
Σ(゚Д゚;駐車場に車が一台もないッ?!

・・・比喩でも何でもなく、呆然と立ち尽くす私。

次回へ続きます。

シリーズ『夕張市炭鉱博物館』

 ◇シリーズ『夕張市炭鉱博物館』【前段】
 ◇2018年4月末にリニューアルした『夕張市石炭博物館』に行ってみた
 ◇『夕張市石炭博物館』の問題点と改善に関する提言
 ◇『夕張市石炭博物館』リニューアル1年に満たない火災でこの後『夕張石炭の歴史村』はどうなるの?『ふるさと納税』での応援はどうなの?

KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

前回の記事は平成29年3月に書いたものですから、
続きを書くのに1年以上もかかってしまいました。
この間に様々な環境の変化があり、ブログもこちらに移りましたが、
引き続き北広島の歴史を探ってゆきましょう。

さて、『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①』では、
明治以前から主要な交通の要衝であって島松(シュママップ)があった、
国道36号線に沿って展開しなかったことは不自然である、と紹介しました。

また、『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
現在の北広島市は3つのエリアに分かれてしまっており、
国道36号線「室蘭街道」沿いに大曲エリアが、
国道274号線沿いに西の里エリアが、
いずれも札幌寄りに形成されており、一体的な市街形成がされていないと紹介しました。

北広島の中心街であるところの中央エリア、つまりは北広島市役所の所在地は、
道道46号「江別恵庭線」道道1080号「栗山北広島線」の交差点にあり、
これらはそれなりに交通量の多い道路ですが、他のエリアについて、
これらの道路に沿って市街形成がされていない、というのは、
前回紹介した通り、別の自治体が合併されたという場合を除いては、
まず考えられない、特異な市街形成であると言えるでしょう。

ちなみに北広島市は明治以来これまで一度も合併を経験していません。
札幌市、江別市、小樽市、石狩市、千歳市、いずれも合併を経験しているのと対照的ですね。

市街地の分裂は札幌近郊においては北広島市特有の問題であって、
人口減少時代において、教育や就業も含めたインフラの整備という意味で、
非常に重大な問題である、と言えるでしょう。

そのような問題が生じる事になった歴史的経緯を見てゆきましょう。
明治17年に入植した和田郁次郎氏らの『廣島開墾地』は、
何故、札幌越新道(現在の国道36号線)沿いに入植をしなかったのでしょうか。
これには2つの理由があります。

入植前、札幌越新道が開通した頃の状況を図に示しました。

札幌もそうですが、明治6年当時、北広島は未開の原野でした。

『植物園の耳』でも紹介したように明治6年当時というのは、
札幌の中心部であっても都市機能も揃わない状況でしたから、
郊外に至っては、かろうじて木を切り倒した道が付いただけ、という状態です。
道路状況は悪く、馬が通るのもやっとで馬車などはもっての外。
札幌越新道も、太平洋側に出る最初の道とは言っても、同じことです。

明治初期、札幌の都市機能が出揃わないうちから、
開拓使主導で入植が始まりますが、北広島で入植が始まるのは、
前述の通り明治17年の事で、和田氏が北海道を巡った末に出した結論です。

入植の前年、明治16年に和田郁次郎氏は4人の人夫を連れ、
『大曲道路』(現:道道1080号線)を開削し、これが廣島開墾地への道となります。

地図中の大曲道路の東端現在の北広島市役所の場所であり和田氏の邸宅です。
幾ら木を切り開いただけと言っても、この距離を1年で切り開くというのは大変な事です。
今回の謎『北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?』
一つめの理由は札幌越新道の周りは官林に囲まれていたから、です。

地図に記載されている野幌官林輪厚官林島松官林月寒原野は、
いずれも国有地であり、当時は開拓の対象ではなかったのです。

官林は国で利用する材木を確保する目的もありましたが、
田畑の水源の為の森林:水源涵養林としての役割もありました。

開墾地というのは開拓使の認可を得て貸下げや払下げを受けるものですから、
民間人が自分の臨むままに開拓を行える訳ではありません。

そもそも論として、札幌越新道の周辺は開拓しなかったのではなく、
官林ばかりで開拓を許されていなかったのです。

北広島市の中心が偏在の位置にあるのは、
そういった消極的理由だけなのかと言えば、そうではありません。

積極的理由として、稲作をする目的があった、という事もあります。
当初の北広島の開拓は大曲道路に沿って行われてゆきますが、
大曲道路は輪厚川に沿って下っており、
現在の北広島市は、この水源を利用する事が念頭に置かれていると言えます。

ここで国土地理院の色別標高図を見てみましょう。
赤いラインは標高20m以下の箇所に私が引きました。

札幌、江別、北広島、恵庭、千歳・・・早くから人が集まった町は、
いずれも同じような高さ・・・標高20~35mのラインにあるのです。

と、言うのにも当然理由があります。
標高が高い部分というのは支笏火山の溶岩で出来た岩盤の上にあり、
崖地も多い為に農業用地としては不適当であり、
標高が低い部分水の流れが遅く停滞し、湿地帯・泥炭地となる為、
そのままでは農業に向かないだけでなく、居住や生活にも不向きです。

そういった意味で、この立地を選んだ和田郁次郎氏には、
良い土地を見極めるセンスがあった、と言っていいでしょう。

札幌から比較的近い立地にある事で、交通や物の運搬にも便利で、
農業が上手く行かないうちは林業や炭焼き、大工仕事などの出稼ぎで乗り切ったとも言います。

このようにして北広島の中心は現在の位置に定められた訳ですが、
その後、現在のように3つに分裂した市街形成がなされていったのには、
どのような理由があるのでしょうか、
そして北広島開墾のリーダー、和田郁次郎氏はその分裂を望んでいたのでしょうか。

シリーズ次回『北広島は何故3つに分裂したのか?』で紹介しましょう。


【参考文献】
 ・広島町郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま』昭和61年6月12日発行
 ・北ひろしま郷土史研究会『研究郷土史北ひろしま~広島村を創立した和田郁次郎の生涯~』平成8年7月12日発行

KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①


当記事は2017年03月28日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて『北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている』では、
北広島市には市街の中心軸となる一本の幹線道路がなく、
街の外側を走る3本の道路それぞれで市街が形成されており、
それは非常に特殊かつ非合理的な構成であると紹介しました。

言ってしまえば、今流行りの『コンパクトシティ』とは逆の、
二正面作戦ならぬ『三正面作戦』をしなければならないのが、
人口減少時代における北広島市の課題である
と言えるでしょう。

そもそも論として、何故このような形になったのでしょうか?

北広島市の偉人に『和田郁次郎』氏という方がいます。
和田氏は明治17年に現在の北広島市への入植を取り仕切った人で、
広島県の出身者で一つの村を作ろうという目標を持っていました。
この、和田郁次郎氏についてはのちのち触れて行きますが、
現在の北広島市の前身にあたる広島町、そして広島村、
さらにその以前の月寒村の『輪厚移民』にさかのぼっても、
その原点は明治17年にある、という事が今回重要となるポイントです。

明治17年と言えば、北海道にとってどんな時代だったでしょうか?

シリーズ『澄川』でも度々紹介してきましたが、
明治15年、それまで北海道開拓の中枢を担った開拓使は廃止され、
『三県一局時代』と呼ばれる分権的な時代に入ってゆきました。

澄川でも官林は民間に払い下げられ、北海道において『官』の存在感は薄らいでゆきます。

そうした時代に入植した和田郁次郎氏ら『輪厚移民』は、
堅い結束による『民』の力で村を大きく、豊かに育ててゆきました。

前回、私は『市街地は幹線道路から格子状に拡大する』という原則を示し、
北海道で有数の古い道路として札幌越新道≒室蘭街道≒札幌本道・・・
すなわち、現在の国道36号線を紹介しました。

さて、国道36号線と言えば現在も札幌・千歳・室蘭を結ぶ北海道の大動脈
古来から、本州との船便に太平洋ルートを使用する際には本州への道でもありました。
また、白老を経由し函館に至る、オホーツク海側より雪の少ない陸路でもありました。

江戸末期から切り開かれた『札幌越新道』は、
明治2年に開拓使が置かれ札幌に本府によっても積極的に利用され、
明治6年にはほぼ同様のルートが『札幌本道』『室蘭街道』として再整備されています。

当時、北海道の街道沿いには『駅逓』(えきてい)と呼ばれる官営施設が設置されていました。
これは休憩所であると同時に馬の貸し出し、物資運搬や通信の為の施設です。
江戸時代の本州で言うところの宿場に近いかもしれませんね。

明治6年、室蘭街道の開通に伴い、現在の北広島市島松に『島松駅逓所』が設置されます。
『少年よ大志を抱け』で有名なクラーク博士は、明治10年にここでその言葉を発したと言われています。

その事にちなんで、北広島市はクラーク博士を前面に押し出して広報活動を行なっています。
カントリーサインや市のロゴマークなどに積極的にクラーク博士を起用しています。


正直、明治10年当時、そこは札幌郡月寒村だった訳ですし、
クラーク博士自身は帰任の通過点でそれを言った他に北広島市に縁もないようですから、
羊ケ丘公園や北海道大学などの観光地としてのブランドに背乗りしているように感じますが、
そもそもクラーク博士自体が札幌農学校の初代教頭であるものの、
在任期間はわずか8ヶ月で、教え子は一期生のみというのですから、
まー、イメージ戦略とはそういうもの、と割り切るしかないのかもしれません。

明治期の北広島にはもう一人の偉人『中山久蔵』氏も関わっています。
中山久蔵氏は明治以前から北海道に移り住んでいた方で、
明治4年から島松付近を開墾し始め、試行錯誤をしながら稲作を成功させました。
その後、稲作の手法や『赤毛種』の種籾を広め、高く評価されました。
そして、明治17年には中山氏宅が正式に島松駅逓所となりました。

中山久蔵氏の功績によりこの近辺は『寒地稲作発祥の地』とされ、
島松駅逓所には寒地稲作発祥の地の碑が設置されています。

北広島市もこれもPRに利用しており、北広島商工会はゆるキャラ『まいピー』を設定しました。
これは赤毛種のキャラクターで『久蔵おじいさんに育てられました』という設定です。

しかし、こちらもクラーク博士のように自治体ごとの元祖争いのようなものがあり、
恵庭市も『寒地稲作発祥の地』を主張していたりします。
http://www.eniwa-cci.or.jp/shokka/introducing/komezukuri.html

この周辺は島松川を境に札幌郡月寒村と千歳郡島松村の境界だった為、
中山久蔵氏の実験水田はその両方に広がっていたのです。
(島松川は現在の北広島市と恵庭市との境界でもあります。)


このように島松は明治以前から『シュママップ』と呼ばれる交通の要衝であり、
札幌から太平洋側へ抜ける為に旧来使われていたのは室蘭街道≒国道36号線だった訳です。

明治17年に入植した和田郁次郎氏ら輪厚移民、のちの広島村の人々は、
何故、室蘭街道沿いではなく、道道46号線≒広島本通を中心地としたのでしょうか?

その事が、現在の『二正面作戦』的な北広島市の市街形成の原点となっているのです。

元々あった幹線道路の近くから外れて集落を設けた理由は何なのでしょうか?

この謎を紐解いてゆく回答編は次回以降。

KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている


当記事は2017年03月21日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿


幹線道路
というものは、しばしば市街形成における『骨格』『血管』に例えられます。

整備された流量の多い道路がある事でヒトやモノが『血液』のように流れ、それが『肉』である住宅地や商工業地を支える強靭な『骨格』としての役割を果たします。

中心的な道路から毛細血管のように道路網が発展し、都市として機能してゆきます。

札幌を例に取れば、古くは江戸時代からある道路や開拓使によって拓かれた道路・・・
東西には札幌本道(≒現:国道5号線・旧5号線)、南北には本願寺道路(≒現:石山通)、そして斜めに室蘭街道≒札幌越新道(≒現:国道36号線)を中心に市街が形成されました。

創成川通りは当初”運河縁”と呼ばれ、陸路としては古くから整備されていた訳ではありません。
運河も物流と言う意味では道路と同様の役割を果たしますが、
周辺の開発という意味では気軽に寄り道が出来る陸路よりは影響力は小さいようです。

他にもそれぞれの村ごとに、中心となる道路を中心に切り開かれていく訳です。

札幌市近隣の自治体の都市計画図を見てゆきましょう。

まずは小樽市札幌本道(≒現:国道5号線)を中心に、岩壁を避けて市街が形成されています。

明治以前からある漁村を合併して大きくなってきた都合、市街化区域が分散しているという特徴があります。
特に小樽市西部、旧高島町地区や旧塩谷村地区に関しては、扱いに苦慮しているようです。

次に江別市の都市計画図を見てみましょう。

江別市は江別一番通(≒現:国道12号線)JR函館本線を中心に、
札幌市以上に計画的な格子状の市街形成がなされていますが、
これは江別市が屯田兵によって切り開かれた、『官』の色合いが非常に強い町である事に由来します。


次に石狩市の都市計画図を見てみましょう。

石狩市は軽石馬車軌道(≒現:道道44号線)を中心として形成され、
江別市よりも細かい格子状の区割りがされた計画都市ですが、
これは江別市とは別の由来で、戦前は殆どが畑であり、
戦後しばらくしてから宅地開発が始まった、という背景があります。
札幌のベッドダウンとして開発された為、市内中心部まで住宅地が広がっており、
中心部に広めの区画の商業地が少ないことが現代においてはネックになっています。

札幌市の都市計画図も見てみましょう。

札幌市に関しても小樽市と同様に
明治・昭和期に多くの村が合併した名残はありますが、 戦後の農地改革による宅地化札幌オリンピックによる人口増で、一つの町としての体裁を保っており、飛び地は定山渓や北丘珠の一部に留まっています。

どの自治体に関しても、市内で最も大きな幹線道路に中心街が存在し、
市役所や商店街も幹線道路のほど近くにある、というのが共通の特徴です。

一般的に、市街形成においては最も大きな幹線道路が街の『背骨』になり、
そこから格子状・放射状に市街が広がってゆく
、というのが一般的な形です。

また、その市街が都市計画法によって『市街化区域』に指定され、
郊外の土地が『市街化調整区域』として原野や山林のまま残る、というのが通常です。

しかし、北広島市に関しては事情が大きく異なるのです。
北広島市の都市計画図を見てみましょう。

・・・非常にイビツですね。

北広島市には大きく3つの市街化区域エリアがあります。
(北広島市都市計画マスタープランでは5つの区分ですが、ここでは私の定義でお話します。)

まずは画像右側、北広島市役所JR北広島駅がある『中央エリア』
都市計画マスタープランでは『東部地区』『北広島団地』の2地区にあたります。
これがこれまでに述べたいわゆる『通常の市街形成』によるエリアで、
江別から恵庭へ南北に走る広島本通(≒現:道道46号線)沿いに形成された市街地です。
JRの駅もそばにありますから、比較的、江別市に近い構成と言えるかもしれません。

次に画像の左下にあたる『大曲・輪厚エリア』
都市計画マスタープランでは『大曲地区』『西部地区』の2地区にあたります。戦後国道36号線沿線に開発されたエリアで、札幌市清田区の延長上にあります。
札幌と北広島の境界は厚別川ですが、川を挟んだだけでほぼ一繋ぎの町という印象です。

大曲の住宅地を抜けると大曲工業団地、輪厚のゴルフ場などを抜けて恵庭・千歳へ至ります。
国道36号線の他にもそのバイパスにあたる羊ケ丘通や、
千歳まで至る高速道路である道央自動車道に沿って市街が形成されています。

最後、一番小さなエリアですが画像の左上『西の里エリア』
都市計画マスタープランでは『西の里地区』にあたります。
こちらも戦後、国道274号線沿線に開発されたエリアですが、その大半が住宅地です。
現在は札幌市厚別区と隣接していますが元々は厚別区との距離がありました。
平成初期に『虹ヶ丘』として西端が開発され、札幌市との距離が縮まりましたが、
丘陵地にある為に距離が離れており、大曲・輪厚地区ほどの一体感はありません。

各種施設も地元住民の利便の為の物が中心で、これといった特色はありません。
札幌市のベッドタウンとしての側面が強いと言えるでしょう。

このように、一つの自治体の中に3つも市街化区域があり、
それぞれにそれなりに距離が離れており、またそれなりの規模である
というのは、
(少なくとも札幌圏においては)非常に特殊な市街形成の形態であると言えます。

小樽市も飛び地的に市街化区域が分散していますが、
これは元々複数の自治体が合併した事によりますし、
何より、どの市街化区域も国道5号線(旧:札幌本道)を中心に形成されています。

一方の北広島市は明治27年に札幌郡月寒(つきさっぷ)村から分村して以来、
他の自治体を合併したという事はありませんし、
3つのエリアはそれぞれ別の道路の沿線に市街が形成されている点で、小樽と異なります。
(3つの道路・・・道道46号線・国道36号線・国道274号線)

そういった意味で、北広島市は『背骨のない町』であると言えます。

道路は人や車の通り道である他、上下水道やガスなどの配管の埋設があり、
電柱が敷設されているなど、様々な生活インフラの経路になっています
から、
これは江別市や石狩市のように、一つの道を中心に据えて開発をした方が、
都市開発のコストを考えれば間違いなく合理的であると言えるでしょう。

街のメインストリートたる道道46号線『広島本通』に面さない、
『大曲・輪厚エリア』や『西の里エリア』が戦後開発されていったのは何故なのか?

通常の市街化形成のセオリーでは有り得ない3つの幹線道路と3つのエリアで、
北広島市は将来どうすれば人口減の時代を乗り切ってゆけるのでしょうか?

幹線道路を町の外側に複数持つ『背骨のない町』は、
『外骨格都市』として成り立ってゆく事が出来るのでしょうか?

シリーズ次回に続きます。

KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】


シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

さて、新規記事でございます。
前回紹介した通り、平成29年5月、北広島市役所の新庁舎が竣工し、
第1~第3まである旧庁舎については、今後解体する運びとなりました。

新庁舎については昨年の段階で既に取材をしているのですが、
諸事情によって今回の機会を待つまで掲載が遅れてしまいました。
一部写真に古いものが混じっていますが、ご容赦ください。
さて、紆余曲折あって設置されたこの新庁舎、
不動産に携わる者にとっても、調査活動のしやすい良い庁舎であると言えます。

今まで北広島中央にあった第1~第3庁舎の機能が集約された他、
それまでは北広島市土木現業所まで行かなければ取得できなかった、
道路台帳図が新庁舎で取得する事が出来るようになったのです。

これによって殆どの調査が新庁舎だけで完結するようになりました。
初めて行く方にも分かりやすい案内図が庁舎の入口にあります。

<3階>

<4階>

不動産調査に関わる部署は3、4階に集中しています。

3階の都市計画課で調べる用途地域はインターネットからも見る事が出来ますし、固定資産税の評価証明書などもインターネットから申請書をダウンロードして作成して持参するという手順です。

 北広島市「市税に関する証明書」
 http://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/hotnews/detail/00011402.html

肝心の道路調査は、4階の窓口に出向く必要があります。

ずいぶんとオシャレな庁舎になったものです。

4階14番窓口「都市整備課」で職員の方に声をかけましょう。
所在地を聞かれるので住所を答えるか、地図を見せましょう。

すると「北広島市地籍集成図」を提示してくれますので、
道路台帳を取得したい場所を確認します。

職員の方がデスクで作業をし、道路台帳図を出力してくれます。

土木事務所と違い、微妙にカラーで出力されるようになりました。
手数料は変わらず140円と少し高めですが、
600円取られる江別市よりはずっとマシです。

台帳図と一緒に渡された納付書を2階の北洋銀行で支払います。

<上下水道>
同じく4階の12番窓口「水道施設課」でタッチパネルを操作します。

写真右手側のディスプレイがタッチパネル端末です。
住所と地番を入力すると、周辺地図に配管状況が入った画面が表示されます。
水道台帳図と下水道台帳図がそれぞれ別の用紙で出力され、
納付書を渡されるので同じように2階の北洋銀行で払込みましょう。

国道・道道の場合の調査方法は前回と同一ですが、一応紹介します。

<国道>
その道路が『国道』の場合は『札幌建設開発部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『A-7 国道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

<道道>
その道路が『道道』の場合は『札幌建設管理部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき』で紹介しています。

このように、新庁舎への建て替えによって窓口が集約され、
北広島での調査は非常にやりやすくなったと言ってよいでしょう。

不動産を流通させるに当たっては、まず役所が調査しやすい環境を提供することが第一である、と常々提言していますが、北広島市についてもある程度の水準には達したと言っていいでしょう。

今後、北広島が再び隆盛を取り戻せるよう、
市には今後も是非頑張ってもらいたいと思います。

もーちょっと道路台帳図を見易く・綺麗にしてほしいなー、なんて。

KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】


当記事は2014年06月26日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

この記事は上記の通り4年近く前に書いた記事です。
この頃、北広島市役所の旧庁舎は解体・新庁舎の建設予定があり、
旧庁舎時代の記録を残しておく必要から書いたものです。
それでは早速、一部改稿した過去の記事を見てゆきましょう。

今回、紹介する自治体は『北広島市』です。
平成8年までは『札幌郡広島町』でしたが、人口の増加に伴い市制へ移行しました。
名称は現在の広島県広島市からの開拓入植者が多かった事に由来します。
実は札幌市内にも、広島県をルーツに持つ方は多いようです。

当初は札幌市のベッドダウンとして発展し、新千歳空港へは札幌よりもずっと近い事から、
工業団地が主軸となってきており、現在も『輪厚工業団地』が分譲中です。
一方で住宅地はというと…札幌や本州への若年層の流出があり、高齢化が進んでいます。
まぁ、これは全国的な潮流であって北広島に限ったことではないのですが・・・

それでは、具体的な調査窓口を紹介してゆきましょう。

<市道>
その道が北広島市の『市道』の場合の窓口はこちらです。
北広島市土木事務所 北海道北広島市共栄196-1


道路台帳のコピー代金は一枚につき140円
図面の精度ですが、正直に言ってしまうとかなりラフで見づらい印象を受けます。

ちなみにこの窓口は最近まで各インターネット地図に登録されておらず、
Googleマップのナビゲーションで現地に行こうとすると難儀していましたが、
ようやく各種インターネット正しく地図にも反映されるようになりました。
噂の日本ハムファイターズのボールパーク予定地からも近いですね。

北広島のHPには市道の台帳交付などの調査窓口について、書いていません。
調査窓口が分からない、というのは公益上よろしくない事だと思うのですが、
各自治体では、まだそういった面での整備が不十分な場合が多いのです。
→平成29年3月に改善されました。

<国道>
その道路が『国道』の場合は『札幌建設開発部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『A-7 国道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

<道道>
その道路が『道道』の場合は『札幌建設管理部』が窓口です。
窓口の場所と調べ方は『札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき』で紹介しています。

<位置指定道路>
位置指定道路や上下水道の窓口は、市役所本庁舎(北広島市中央4丁目2番地1)です。
庁舎は3つに分かれており、位置指定道路第二庁舎の建築指導課
上水道第三庁舎の水道施設課下水道は同じく第三庁舎の下水道課です。
(上下水道の台帳については水道施設課の窓口にあるタッチパネル端末で取得可能)

・・・と、ここまで書いてきましたが、この文章も、将来的には改定が必要になります。
実は北広島市の庁舎はかなり老朽化が進んでおり
20年以上前から建て替え計画を検討していましたが、
諸事情によってまったく話が進んでいませんでした。

しかし、平成26年1月16日、ようやく具体的なプロジェクトとして建替計画が決定され、
具体的なイメージ図やタイムスケジュールも公表されています。
平成27年7月から着工し、平成29年7月に工事完了の予定ですから、
3年後には、不動産調査の窓口についてもかなり様変わりする可能性があります。
そうなると当時の状況がわかる資料が殆ど残りませんから、
このようなブログも一つの重要な資料になるのでは…などと考えています。

北広島市役所の庁舎建替計画については、追々紹介するかもしれません。

・・・と、言っておいて、結局建て替えが済んでから1年を経るまで、
建て替え計画について紹介する機会はなかったんですがね!!

次回は新庁舎になってからの調査方法について紹介してゆく予定です。

KH-0 この道なぁに?『北広島』がはじまります


平成30年3月26日、プロ野球日本ハムファイターズの移転候補地が、
北広島市の『きたひろしま総合運動公園』に内定しました。
候補地として、真駒内アイスアリーナや北海道大学敷地が取り沙汰されたり、
それ以前は月寒グリーンドームや八紘学園の敷地も俎上に挙がりましたが、
結局の処、札幌市から実現性のあるプランが示されなかったという事でしょう。

まー、『勝ち馬に乗る』『長い物に巻かれる』札幌の人の市民性というのは、
好成績のうちは良いものの、負けが込むと途端に応援しなくなってしまうので、
率直に言って、大阪や広島のような球団との関係性は作れないでしょう。

北海道の人は大らかだというイメージがあるかもしれませんが、
環境が厳しく所得も低い分、シビアで利己的な方が多いのです。
東北もそれは同じで、西の方とは傾向が大きく異なるように思います。
(そうでもしないと生きていけないのだから仕方ないでしょう。)

まー、私も札幌出身ですし一概に北の人間を否定しているのではなく、
西の人は西の人で別の面倒さ、厄介さがあるのでお互い様ですね。

さて、以前から私の営業エリアは札幌市とその近隣と紹介してきましたが、
具体的には札幌の南東側・・・北広島市、江別市の取引が多く、
北西側・・・小樽市や石狩市の取引はそう多くありません。

特に北広島市に関しては札幌市に次いで取引が多く、
またマニアックな取り扱いについてもある程度通じていますから、
ファイターズ移転決定で注目度もあるこの機会に、
過去の記事も含めて北広島市における不動産調査や北広島の歴史、
都市計画などについて、気まぐれに紹介してゆこうと思います。

まずは不動産調査について、まとめる事にしましょう。

シリーズ『北広島』
 ◇KH-1 北広島市での不動産調査の方法【旧庁舎】
 ◇KH-2 北広島市での不動産調査の方法【新庁舎】
 ◇KH-3 北広島市は『背骨のない町』という特殊な性質を持っている
 ◇KH-4 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?①
 ◇KH-5 北広島は何故、国道36号線沿いに展開しなかったのか?②
 ◇KH-6 北広島は何故3つに分裂したのか?
 ◇KH-7 北広島市『大曲』とは何か、その歴史を探る
 ◇KH-8 『大曲』の由来となった場所の現在の姿

札幌市外の『道道(どうどう)』について知りたいとき


当記事は2014年06月19日の記事を最新の状況を反映し改稿したものです。

今日は北海道が管轄する道、『道道』の調べ方を紹介しましょう。

北海道ではテレビやラジオで『どうどう』という音を聞くことは日常的ですが、
『道道』と文字として書くと、かなり違和感があるように感じるのは私だけでしょうか?
PC上で変換をする際も誤変換が目立つので『みちみち』と打っています。

本題に入りましょう。
札幌市内の『道道』については、札幌市が管理を行っています。
これは、政令指定都市に与えられた行政権限の委譲によるもので、
これによって市内の『道道』については、札幌市役所で調べることが出来ます。
調べ方については、『A-6 市道・道道の詳細を知りたいとき』で紹介しています。

札幌市外にある道道については、各自治体に行っても教えてもらえません。
例えば、石狩市を走っている道道のことを石狩市役所に問い合わせても無駄という事です。

道道を調べる窓口は北海道の『札幌建設管理部』という部署です。
ちなみに『札幌建設管理部』は道央圏≒空知総合振興局管轄の場合です。
ほかの地域では『旭川建設管理部』『小樽建設管理部』などになります。

国道を管轄する国の窓口『札幌開発建設部』なので、メチャクチャ紛らわしいですね(; ・`д・´)

“札幌”建設管理部ですが、千歳市や石狩市…空知地域全体を管轄しています。
この役所は札幌に本所があり、各地区に『出張所』があります。

札幌にある本所では、空知振興局のすべての道道を調べる事が出来ますが、
各出張所では、出張所それぞれの管轄地域の道道についてしか、調べられません
・・・と、いう事は札幌市の本所で調べるのが一番確実という事です。
私も通常は本所にしか行きませんが、市外遠方の方もいらっしゃるでしょうから、
各出張所についても紹介してゆこうと思います。

各窓口へ出向き、『道道の台帳の写し頂きたい』と伝え、受付簿に署名すると、
職員が道路台帳のコピーを無料で取ってきてくれます。
希望があればA全版(A4サイズの8倍)やB全版で図面をコピーしてもらえますが、
通常はB4~A2サイズの部分コピーまたは縮小コピーです。

札幌市をはじめとして、各自治体では台帳のコピーは有料ですが、北海道は無料なのです。
(各出張所に電話で問い合わせて調査した結果です。今後変更となる可能性があります。)

さて、各窓口の場所と管轄について紹介していきましょう。

札幌建設管理部 札幌市中央区南11条西16丁目2番1号(011-561-0201)
 管轄:空知総合振興局管轄区域の全域

千歳出張所 千歳市桂木6丁目1番28号(0123-23-4191)
 管轄:北広島市・千歳市・恵庭市




滝川出張所
 滝川市流通団地3丁目1番5号(0125-22-3434)
 管轄:滝川市・芦別市・砂川市・赤平市・歌志内市・上砂川町・浦臼町・新十津川町
    奈井江町・雨竜町石狩川流域下水道・北海道子どもの国・徳富ダム

深川出張所 深川市錦町北4番11号(0164-22-1411)
 管轄:深川市・妹背牛町・秩父別町・北竜町・沼田町

当別出張所 石狩郡当別町栄町192番7号(0133-23-2220)
 管轄:江別市(一部除く)・石狩市(一部除く)・当別町・新篠津村
     真駒内公園・野幌総合運動公園

 ※ 江別市・石狩市の一部については西野にある『事業課』が管轄しているので、
    道路台帳は本所で取得して下さい。




長沼出張所
 夕張郡長沼町市街地(01238-8-2346)
 管轄:夕張市・長沼町・南幌町・由仁町・栗山町・栗山ダム

岩見沢出張所 岩見沢市上幌向南1条2丁目(0126-26-3011)
 管轄:岩見沢市・美唄市・三笠市・月形町・美唄ダム

・・・と、まぁ私も行ったことのない窓口が多数あります。

ところでここまでのリストに、札幌に隣接する『小樽市』が入っていませんね。
これは単純な話で小樽は後志総合振興局の管轄だから、という話です。
いずれは小樽についても取り上げてゆきますが、1日の代休では窓口は回り切れませんでした。

引き続き、札幌市以外での道路の窓口について紹介してゆきます。

『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

さて、前回で一区切り、と宣言しておいてなんですが、
『植物園の耳』に関する事実関係を時系列でまとめた記事を書いていなかったので、この機会にまとめてゆきましょう。
(この機会、というのは書く時間がないから今度にしよう、と思っていたけどやっぱり書こう、という事になった、という『機会』です。)

前回の『『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生』と照らし合わせてみると、林文次郎氏が生きた時代の歴史的背景が分かりやすいかもしれません。

明治9年頃
 現在の植物園は北海道大学の施設である事は既に紹介した通りですが、
 北大の前身としては明治9年開校の札幌農学校が有名です。
 実は更なる前身として明治2年開校の開拓使仮学校、
 明治8年開校の札幌学校がありますが、
 札幌農学校となるまでは体制が整わなかったというのが実情のようです。

 札幌農学校とは別個の動きですが、『植物園の耳』に関する流れとして、開拓使がお雇い外国人ルイ・ベーマー氏に依頼し、北4条西1丁目に温室を建設します。
 これがのちに移設され、植物園の原型となります。

 また、お雇い外国人エドウィン・ダン氏が道庁の西側に牧羊場を設置します。
 エドウィン・ダン氏は開拓使における欧米式の家畜育成の指導を担った人物です。
 現在の自衛隊駅前~真駒内駅に広がる牧牛場明治9年に設置し、
 牧牛場の他、植物園の位置に『牧羊場』、他にも養豚場や牧馬場を指導しています。
 特に真駒内の牧牛場はのちに種畜場となり、家畜全般の育成の地になりました。
 その後、終戦に伴い米軍が進駐し『キャンプ・クロフォード』となり、
 その敷地が返還され『陸上自衛隊真駒内駐屯地』や札幌オリンピックにおける競技会場となりました。
 現在も真駒内には『エドウィン・ダン記念館』があります。

 エドウィン・ダン氏が道庁の西側で羊の飼育を行っていたという事実は、驚くほど文献に残されていませんし、知られてもいません。
 また、開拓使が関わっていたのはともかくとして、
 実際ににエドウィン・ダンが携わっていたのか否かは、不明です。
 (『桑園誌』には明治15年の設置とされていますが、文献の読み違いと思われます。)

 おそらく、予定地とはされていたものの何らかの事情で上手く行かなかったか、中心地と近すぎてすぐに不便を生じてしまったのではないか、と思われます。

 また翌明治10年には開拓使が北7条西7丁目『仮博物場』を設置します。

明治15年
 明治10年に開拓使が設置した『仮博物場』は、明治15年に現在の植物場に移設され、現在も存在する『開拓使博物場』が落成します。
 これは札幌農学校の施設ではなく、開拓使勧業課の施設です。

明治17年
 札幌農学校が札幌勧業課から博物場の移管を受け、植物園の設置準備を開始します。
 管轄が開拓使勧業課から札幌勧業課に変わったのは、明治15年の開拓使解体に伴うものです。
 まず最初に博物場の周辺1万5千坪の移管を受け、ここから宮部金吾氏による植物園の準備が始まります。
 植物園の構成の設計、周辺地の移管の働きかけを開始します。

明治18年1月
 植物園の設置が許可され、測量作業が開始されます。

 前年に勧業課から移管を受けた図Ⅰの1万5千坪の他、
 この年には 図Ⅱ北海道事業管理局農業事務所2720坪養蚕用地
 図Ⅲ2650坪と図Ⅳ788坪の牧羊場用地も移管を受けます。

 10年足らずでなかったことにされる牧羊場って何だったんだよ
 という気がしないではありませんが、北海道開拓=欧米文化の導入は試行錯誤の連続であったと言う事でもあるのでしょう。

明治18年10月
 このようにして着々と測量作業や土地の移管が進んでゆく中で、
 明治9年北4条西1丁目に設置された旧植物園からの移転を完了します。

明治19年7月
 この年、植物園設置の実務的中心人物である宮部金吾氏がハーバード大学へ、札幌農学校初の海外留学生として、3年間の留学に出ます。
 宮部金吾氏によると『洋行出發の頃には道路は西八丁目で終わってゐた。そして現在の市立病院のところには桑園の養蠺室があつた。』   

 ここで言う『道路』とは、植物園の南側を通る現在の『北2条通』です。
 また、『現在の市立病院のところ』とは、その道向かいにある敷地、
 現在のヤマダ電機札幌本店周辺の土地の事で、
 この周辺には、蚕を育てる為の養蚕室があった、とのことです。

明治20年前後
 宮部金吾氏の不在は続きますが、北東角にある図Ⅴの樹木園2600坪が北海道庁育種場から移管されます。

明治22年頃
 この時期、図Ⅵ北海道廳立病院の建設計画が持ち上がります。
 北海道庁立病院は、のちの札幌区立病院、そして現在の札幌市立病院です。

 札幌市立病院側が南側にある図Ⅱ1600坪の敷地を譲渡し、
 代わりに元々用意されていた図Ⅵの植物園内の敷地6000坪を植物園側が取得したという事です。
 Σ(゚Д゚;なんでか敷地増えてるッ?!

 この辺りの事情についてはかなり不可解な部分が多いのですが、後日、シリーズ植物園の耳『札幌病院と植物園の不可解な敷地交換』で紹介する予定です。

明治23年
 この年、植物園の南側に面する『北2条通』が開通します。
 宮部金吾氏によるとその北側に『狭長なる不要の地が残ってゐたが、これを再び植物園に合併した。』との事。
 また、南西側(図Ⅶ)の畑4000坪を道庁から引き継ぐ。他にも北西側(図Ⅷ2200坪を同時に引き継ぎます。
 これによって札幌農学校付属植物園の敷地はほぼ現在の形になります。
 西南隅の一小民有地を除く外は、殆ど二百間四方役四萬坪の地積を占有するに至つた。』
 この、『西南隅の一小民有地』と言うのが『植物園の耳』です。

明治28年3月
 『『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?』で紹介した通り、『植物園の耳』が民間人、星野和太郎氏の名義になるのは明治28年の事です。

 また、たびたび引用している宮部金吾氏の言は、昭和2年北海道大学退官後に著した自伝の内容ですから、後日当時を振り返って語ったものです。

 ここまでの精力的な範囲拡大を見ても、宮部金吾氏が植物園を南北3区画×東西3区画の完全な正方形にしたかったであろうことは想像に難くありません。
 そんなさなか、昔の下宿生が自身のライフワークである植物園の整備を阻害する事になった事に、どんな思いを抱いたのでしょうか。
 或いは、宮部金吾氏と星野和太郎氏の間に、何らかの確執があったのでしょうか。
 今となっては想像するほかありません。

明治33年
 この年、宮部金吾氏が植物園長に就任します。

明治34年2月
 星野和太郎氏から林文次郎氏へ、北2条西10丁目1番地1が譲渡されます。
 当時の林文次郎氏の登記住所は熊本県塩屋町16番地です。

 この翌年、明治35年には星野和太郎氏は北一条郵便局の局長に就任します。
 郵便局長の5年の任期を終えたのち2代目の局長となるのも林文次郎氏です。

 当初はただ土地を売買しただけの関係かと考えていたのですが、
 郵便局長を引き継いだ件などを考えると、ある意味で林氏は星野氏の後継者的立場であったのではなかろうか、とも考えています。

明治42年
 この年、従来は出入り自由であった植物園の周囲を竹垣で囲み、
 正門を置いて入り口を定めて出入りを制限し始めます。

 植物園はあくまでも大学の研究施設ですから、
 植えている植物を持ち去られたり、他の植物が移入したりという事を避ける為でしょう。

明治44年
 その2年後には入園料3銭を徴収するようになります。
 勿論、収益の為というよりは出入の取り締まりが目的であったと思われます。

大正6年4月
 林文次郎氏が札幌区から北2条西10丁目2番1を取得します。
 この部分はメムから生じた川に沿った部分で殆ど道にも接していませんから、
 現実的に氏以外にこの土地を買う事は出来なかったと言えるでしょう。

 札幌区から払い下げを受けたのではないかな、と予想されます。

大正14年8月
 それまで東北帝国大学札幌農科大学植物園長官舎に住んでいた宮部金吾氏が、
 この年、転居して北6条西13丁目(現在の宮部記念緑地)に居を構えます。

大正15年
 宮部金吾氏が植物園長を退官…という説があるが昭和2年という説もあり、記述が一致していません。
 昭和2年に北海道帝国大学を退官したのは確定していますから、
 北大には在籍したまま植物園長のみ辞任したのかもしれません。

昭和2年
 宮部金吾氏が北大の定年制の導入による依頼退官の発令で退官。
 退官後も昭和26年に没するまでラジオ出演などで市民に親しまれたそうです。
 昭和24年には札幌市初の名誉市民となっています。
 (Wikipediaの記載によると名誉市民・栄誉市民は過去4名、
  北海道大学の教授と市長経験者2名ずつと、かなり限られています。)

昭和3年
 宮部金吾氏の伝記によると、この頃には、北2条通の下水道工事によって、メム(湧水)が枯れ、小川は干上がったと記載されています。

 寒冷地農業のセオリーとして『土管を埋める』という方法があります。
 埋めた土管『暗渠排水』を通って地下水が抜ける事で、
 土中の水分を減らして、耕作に適した土地に変化させる訳です。
 そういえば『ブラタモリ』でも紹介されていましたね。

 これは、農業用暗渠に限った話ではなく衛生下水道でも同じことです。
 下水道が整備されたことで札幌の各地の『メム』が枯れたと言われています。

 まぁ、水はけが良くなる訳ですから都市としては寧ろ好都合でしょう。
 そうして、植物園の耳にあったメムや小川も姿を消すこととなったのです。

昭和25年4月
 株式会社神原商事が札幌市中央区北2条西9丁目に移転してきます。
 神原商事の公式サイトから社歴を調べると、
 昭和9年4月に樺太、敷香町にて三幸商会として創業し、
 昭和21年4月の終戦後に北海道、小樽にて営業開始したものが、
 この時期に『植物園の耳』に移って来ます。

 以降、平成2年まで北2条西9丁目7番地に本店を置きますが、
 登記に関してはこの時点では成されていません。
 当初は借地だったのか、あるいは占有だったのかは判然としません。

昭和26年1月
 札幌市北2条西10丁目4番地について、久島久義氏が所有権保存登記。
 久島久義氏の登記住所は北2条10丁目1番地と、元々氏の土地です。
 1番地、2番地1昭和23年久原久氏という方に売却されています。
 どうも、『久原』氏と『久島』氏は同一人物なのでは?という気もします。
 この後10年も経たず、どちらの土地も売却されてしまいますから、
 どのような方だったのか、現在のところ調べる目途は立っていません。

 4番地は一番奥の細い土地ですが、何の目的で登記されたのかと言えば、
 植物園との間の空白地であったから、という事情が想定されます。

 戦後の混乱期には色々なことがあったのでしょう。

昭和28年6月
 今回の参考文献として重要な伝記『宮部金吾』が発行されました。

昭和33年12月
 北2条西9丁目1番地社団法人北海道乗用自動車協会により登記されます。
 これは『登録地成』といって、国からの払い下げを受けたものです。
 どんな協会だったのか名前からは想像出来ませんが実はタクシーの協会です。
  北海道ハイヤー協会
   http://hokuhakyo.or.jp/about/

昭和43年
 植物園の北側の敷地が道路拡張の為に道路に一部提供されます。
 『植物園の耳』とは直接関係ありませんが、一応記載しておきましょう。

昭和49年8月
 株式会社神原商事が札幌市位置指定道路第5113号を申請します。
 神原商事の事務所は公道に面していませんでしたから、
 これを改善する為に位置指定道路を申請したのでしょう。

 もともと、北二条通に面した敷地だけが合法的に建物の建築が可能でしたが、
 これによって、植物園の耳の奥の方も開発が可能となりました。

昭和49年
 植物園の全周に金属フェンスが完成し、それまでの木柵から切り替わります。
 植物園と『植物園の耳』の間の境界がはっきりさせられた訳です。

北海道開拓から約45年前までの100年に渡る歴史を追いました。
一つ一つの事柄が濃厚であり、また過去の出来事を調べるには限界があります。
おそらく、長くこういった活動をしていたり、不動産業に携わることで、
これらの事情をより深く知る機会も出てくるのだろうとは考えていますが、
この、ごくごく小さなエリアであってもこのように濃厚な歴史があるのだという事が、不動産調査の醍醐味です。

ここからさらに45年、昭和末期から平成後期までの歴史を経ている訳ですが、ちょっと、これ以降の事情については個人情報などの兼ね合いもあって、あまり詳細な情報をなかなかインターネットに公開してゆくことは憚られます。

一方で、ここからの事情と言うのも非常に面白い処がありますから、まぁ、差支えのない範囲で今後も『植物園の耳』について紹介してゆこうと考えています。

シリーズ『植物園の耳』
 ◇『植物園の耳』① 探ると消される?!『植物園の耳』のナゾ
 ◇『植物園の耳』② 魔境『植物園の耳』の現在の姿 -建物・道路の構成-
 ◇『植物園の耳』③ 古地図から見る明治・大正の植物園の変遷
 ◇『植物園の耳』④ 『植物園の耳』はどのように民有地となって現在に至るのか?
 ◇『植物園の耳』⑤ 植物園の耳の一大所有者にして名士『林文次郎』氏の人生
 ◇『植物園の耳』⑥ 歴史的経緯に関しての時系列的まとめ

【参考文献】
『伝記叢書232 宮部金吾』相川仁童 平成8年10月26日
『北大百年史 通説』ぎょうせい 昭和57年7月25日
『北大百年史 部局史』ぎょうせい 昭和55年10月15日
『桑園誌 -130年の足跡をたどる-』札幌市中央区桑園地区連合町内会 平成17年3月31日
『新聞と人名録にみる明治の札幌』札幌市教育委員会 昭和60年3月28日
『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所 大正3年11月1日
『札幌之人』鈴木源十郎 大正4年1月1日
『北海道人名辞書』北海民論社 大正12年9月30日